■ バブルダイバー DIVE:02 海龍の息吹(ドラゴンブレス)

「クジラに鱗や牙はなかったはずだよな、姉御」
「女だって生きるためなら男のを咥えたり、尻を使ったりする。全部一緒さ」
「そう責めないでくれ。男の一人として、胸が痛い」
「責めているわけじゃない。それが現実(リアル)だって話さね」
「真夏の夜の夢であって欲しいね」
「パックはまだオーヴェロンのベッドの中だとさ」
 軽口を交わす二人の着繰身(シェラフ)がゆっくりと上昇してゆく。口調は軽薄だが、二人とも操縦席の中では冷たい汗を掻いていた。
 水温は推定十二度。操縦席内は二十五度程度まで上昇しているだろうが、発汗を促すほどではない。  原因は彼らの足下にあった。
 闇の底でさらに黒い影が動く。その体長は着繰身(シェラフ)よりも遙かに大きい。大型の魚か海洋哺乳類にも見えなくないが、それとしてもその影は大きすぎたし、アイライトから得られる僅かな情報がその想定を否定していた。
 海水に流入した有害物質に遺伝子を傷つけられ、汚染した海で生きていくためにその生態を大きく変化させた生命体。それらの一部は獰猛で、凶暴で、己が生きていく環境を破壊することも厭わない。
 巨大な顎を極限まで開き、着繰身(シェラフ)を噛み砕こうと肉薄してくるそれを、彼らは海洋哺乳類型変異種(ダゴン)と呼んだ。
「姉御! マイクロ魚雷は!」
「前回使っただろ! アレで打ち止めだよ!」
「この歳じゃ振り袖は着られません、ってか」
「よくわからないけど何か悪口言ったね。あとで覚えてな!」
 ドーリンが右上に避けられていた照準器(ガンサイト)を引っ張る。しらなみの背嚢(バックパック)の左右に備えられていたAPS(水中アサルトライフル)が脇の下を通り、前方にスライドする。くろしおのテツローも同じように照準器(ガンサイト)を引っぱり出した。
「海の底に帰りな!」
 肉薄する海洋哺乳類型変異種(ダゴン)にしらなみが二挺のAPSを斉射する。秒速二百四十メートルで射出される十八・七五ミリ弾は決して小さくはない。が、相手は大きすぎた。
「ちくしょう! まったく効いていやがらねえ!」
「鱗は通ってる! 撃ち続けるんだ!」
 くろしおも邪神の頭部に向けて引き金を絞る。くろしおの左腕はドリルになっているので、銃は一挺だけだ。
 テツローの射撃技術はドーリンほどよろしくない。いつもムダ弾を使ってドーリンに怒られる。流石に今回は的が大きいので、外すことはなかったが。
「うおっ!」
 くろしおの弾幕をものともせず、海洋哺乳類型変異種(ダゴン)が突っ込んできた。ハイドロジェットを開いてすれすれで回避する。怪物(モンスター)の顎が閉じられる金属的な響きが聞こえた、ような気がした。
「アブねえアブねえ。こんな危険な生き物を何で野放しにしてたんだ緑の平和主義者どもは!」
「その頃はこんなに凶暴じゃなかったんだろうさ! もう一度来るよ!」
 くろしおの隣で海洋哺乳類型変異種(ダゴン)が旋回する。尾鰭に巻き込まれないよう、くろしおは距離を取った。
 アイライトに照らされた鱗は鋭く尖っている。その表皮で擦られただけで、容易に鉄屑(スクラップ)にされてしまいそうだ。
 くろしおとしらなみのスクリューの回転が上がる。五十メートル。四十九メートル。半ばは越えたが海面はまだ遠い。
 二機を檄流が叩いた。地獄(アビス)の底から。邪神がその鎌首をもたげて。
「来たよ!」
 閃光(マズルフラッシュ)が炸裂し、弾幕が海洋哺乳類型変異種(ダゴン)の突撃を遮る。だが、その速度は弱まらない。
 水圧を気にしている場合ではない。ジェットとスクリューを全開にし、急速上昇をはじめた。しらなみの方がやや速い。
「……俺たちは、緑の平和主義者ほどやさしくないぜ!」
 照準器(ガンサイト)を戻し、左手のスイッチを弾いた。
 発動機から左腕に動力が送り込まれる。くろしおの周囲で水が渦をつくった。
 海洋哺乳類型変異種(ダゴン)の牙がくろしおに迫る。テツローは左腰のジェットの出力を上げ、半身にして回避する。
 牙と鱗が胸元を削り、機体が水流に洗われる。通り過ぎようとする邪神の退化した瞳がくろしおを睨む。
 その瞳に、左腕を叩き込んだ。
 一瞬の感触。檄流に弾かれ、機体が回転する。しかし、確かな手応えが操縦席には伝わっていた。
 声を上げられるなら、上げていただろう。くろしおの一撃は、深手ではないが確かに傷を負わせていた。
「テツロー、無事かい!」
 雑音に混じってドーリンの声が響く。流石に答える余裕はなかった。
 回転する機体を必死で制御する。スクリューの調整。ジェットの調整。バラストの解除。スイッチを弾き、レバーを動かす。機体が自分の思い通りに動かない。海洋哺乳類型変異種(ダゴン)の巨体が引き起こす衝撃は、なまじのものではなかった。
「テツロー! 早く体勢を立て直すんだ! ヤツが……」
 言われなくてもわかっていた。片目を潰されたヤツは、怒り狂っている。その程度の傷で、獲物を諦めるはずがなかった。
 モニターは泡に包まれている。その泡の奥で、アイライトを受けて輝くのは。
「……化け物め」
 見るものによってはそれだけで狂気を引き起こす。歪な生態系の集合がそこにあった。
 操縦席の振動が弱くなる。左腕のドリルとジェットの全力噴射は多量の電力を消費する。発動機の変換が追いつかず、燃料切れが近かった。
 ドリルをオフにし、残りのエネルギーを機体の上昇に注ぐ。最早回避は不可能だった。
 深度計に目をやる。三十一。三十。そして、二十九。
「テツロー!」
「オーケー。もう大丈夫だ姉御。この深度なら、もう」
 海龍の息吹(ドラゴンブレス)の、射程内だ。

 水流を切り裂いて一本の火線が走った。火線はそのまま鱗に覆われた巨体を貫き、突き抜ける。
 化けクジラの咆吼が、機体の振動を通して伝わってくる。
 一本、二本と、さらに火線が帯をつくる。水面直下から射出された二十五ミリ弾が秒速二百八十メートルの衝撃を叩きつける。上顎。下顎。そして残っていたもう一つの瞳。遙か上方に陣取る射撃手は、確実に怪物の手薄な部位を撃ち抜いていた。
 海洋哺乳類型変異種(ダゴン)の身体から流れ出た血が海中に帯を引く。その動きは明らかに緩慢に、そして力弱いものになっていた。
 それでも火線は容赦することなくその巨体を撃ち抜き続ける。五発。六発。それらはすべて、邪神の急所を過たず撃ち抜いているはずだった。
 海面に近付き、水の闇が薄くなる。テツローはカメラを上に向けた。探査艇の底に貼り付くように。しらなみとはまた違う、もう一機の着繰身(シェラフ)が見えた。
 しらなみよりもさらに一回り痩身のフォルム。だがその両腕から前面下方に向けられた長い長い銃身と、その頭部に備えられた長大なスコープが、その存在の特異さを表現していた。
 対海洋生物戦用着繰身(シェラフ)。その名をあおなぎ。その両腕に抱えられている狙撃銃(スナイパーライフル)は、あおなぎの搭乗者とテツローが協力して組み上げたものだ。
 長距離から音速を超える速力で撃ち出された弾丸は、暗黒海に適応し、常闇に棲まう邪神たちをも打ち倒す力を持つ。そしてそれは、搭乗者の能力を持ってして為し得る神業だった。
 だから。その銃と弾丸と神業を、搭乗者の名にちなんでテツローたちはこう呼んだ。
 海龍の息吹(ドラゴンブレス)、と。
 海洋哺乳類型変異種(ダゴン)が暗黒へと堕ちてゆく。それはまるで日の光に貫かれたのようで。
 巨体から幾条もの血の帯がたなびく。そして、今までどこに眠っていたのか。魚類型変異種(ディープワンズ)たちが群がり、血の匂いを追うようにして、闇の中へと消えていった。
「……邪神の僕が、邪神を喰う、か」
「ヤツらに上下なんてないさ。あるのは、生きるための本能だけだ」
 操縦席が光に満たされる。浮上が近かった。
 テツローはアイライトのスイッチを捻り、オフにした。

   
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(C)Chabayashi Shouichi 2007.