海豹(シール)の襲撃から一月が経過した。
月日の流れを早いと感じるか遅いと感じるかは多分に主観的な問題だが、テツローにとっては目まぐるしい一ヶ月だった。通り過ぎた日数のうちの半分を船上で過ごし、あとの半分は街で過ごすことになった。こんごうに乗り込んでから今までにないことだ。そして両方を慌しく行き来することになった。
テツローの受け持った仕事は、主に着繰身(シェラフ)の世話だ。くろしおも完全整備(オーバーホール)が必要だったが、しらなみの被害はさらに大きかった。失った左のスクリューを新たに取り付けるため、箱舟(ノア)に何度も掛け合う羽目になった。そういった状況に加えてもう一つ、テツローにはやらなければいけないことがあった。
他の乗員(メンバー)もそれなりに動き回っていた。
龍(ロン)とドーリンは、主に情報収集に動いていた。街には酒場(サルーン)と呼んで差し支えないであろう施設が四軒ある。そのうちの一軒が海龍亭と呼ばれる店で、島の南側、港や中央部から遠い立地にある。そして、土地の割り振りを担っている箱舟(ノア)の認可を得ていない。店の前には、胸や尻の張り出した女たちが、薄着の上に偽装毛皮だけを纏って屯している。そういう店だ。
ドーリンたちはそういう場所を中心に出入りしているようだった。
生活面を支えているのが三姉妹と先生(ドク)だ。今回の一件で、こんごうはシュワルツェンとの喧嘩までに溜め込んだ財産のほぼすべてを吐き出すことになった。海に潜れない。となれば、いわゆる生活費を稼ぎ出す必要が生じる。
まず先生(ドク)が、箱舟(ノア)と並んで街を支配している三大機関の一つ、大学(ミスカトニック)に貸与労働(レンタル)されていった。大学(ミスカトニック)は主にディープワンズを含めた海洋生物や大気・水質の調査を担当している。と説明すれば学術的な機関であるように聞こえるが、実際には魚類型変異種(ディープワンズ)に対抗するための武器の開発や、諜報機器の製造が主な役割だ。性質上、街における警察機構のような役割も担っている。
そんな恐ろしい施設に、情報や資材と引き換えに先生(ドク)は叩き込まれた。主にトーゴーとドーリンが叩き込んだ。大学内部はいわゆる軍隊的な規律が色濃く反映されていると聞く。あの性格も叩き直してくれればありがたいとテツローは密かに思っている。
三大機関、最後の一つは、尖塔(バベル)と名付けられている。
尖塔(バベル)は、テツローたちとは別の、海上農場や農産物の品種改良を研究していた施設(シェルター)の生き残りたちで組織されている。雰囲気的には箱舟(ノア)に近いが、彼らが主に請け負うのは汚染された飲食物の洗浄と、食糧の増産だ。先日ようやく小型の農場(プラント)が完成し、街への食糧の安定供給に貢献している。
尖塔(バベル)は箱舟(ノア)の本部に隣接する、島の最高地に建設された。建物自体もその名の通り細い塔状につくられ、島にある建築物の中で最大級の標高を誇る。
これには理由がある。大海衝を生き抜いた研究員たちの約半数が、低地恐怖症に陥ったからだ。
眼下に広がる町並みを確認しなければ、気持ちを落ち着けることができない。そんな痛みを抱えながら、彼らは研究に勤しんでいる。自分たちが動かなければ、多くの者が飢えることを知っているからだ。世界が変わる以前からの、それは彼らたちの使命だった。
他星への移民船団が計画された頃、世界で生産される食糧の六割は遺伝子操作に頼っていた。
以前には、遺伝子の組み換えという技術に対する反発や拒否感が大きく、研究は停滞しがちだった。だが、技術が進み。それまで安全とされていた物質が、検査技術の向上に伴って次々と危険物質に貼替え(ラベリング)され、安全に食せる、とされる生産物は日毎に減少していった。大気や土壌の汚染が、進んでいたのも事実だ。
研究者。学者。医者。宗教家。報道機関。自然愛好家。動物愛好家。健康偏執狂。それらの大波を受け止めざるを得なかった政府。そんな輩が、自らの首を着実に締め上げていった。呼吸ができないことに彼らが気付いたのは、自分たちが安全に摂取できるものは、病院の点滴以外何もないと突きつけられたときだった。
遺伝子組み換え技術は急速に発展した。培養(クローニング)技術もそれに伴い、目覚しい発展を遂げた。
排斥運動(バッシング)は次第に縮小し、姿を消した。食品の表記基準から、組み換えや培養であることを記す規定が外された。食べられるものが他になければ、今あるそれを食べるしかない。単純な、どんな動物でも知っている理屈だ。結局のところ、各々が勝手に決めていただけなのだ。何が安全で、何が危険か、などということは。
大陸連合が輸出する食品の、品質管理が杜撰であることはよく知られていた。だがそれでも、連合が提供する食料品に飛びつく者は多かったのだ。十年後の危険よりも、今日明日の生命を賄うために。彼らは言う。オーケー、そいつが危険なことはよくわかった。で、安全な食品を手に入れるには、一体どれだけの対価を支払えばいいんだい?
選ぶことが可能なのは、余裕があるからだ。だがそのことに気付くのは、大抵手遅れになってからだ。
今生き残った者たちの多くは、そのことを知っている。心に刻んでいる。尖塔(バベル)に住まいし研究員たちも、そうだ。
今は選べなくても。十年後か、二十年後か。世界はまた選ぶことを知るだろう。まずは快楽を思い出すだろう。重要なのはその時だ。神が再び雷を落す前に、分岐点を見極めることだ。
もしも創造主という者がいるならば。自分たちの所業はその怒りに触れるものであろう。だからこそ、それは生きるための手段でなければならない。生きる幅を狭めるものであっては、ならない。
だからこそ彼らは自戒を込めて名付けたのだ。逆鱗の塔(バベル)、と。
三姉妹は、その尖塔(バベル)の管理する食堂(レストラン)で給仕係(ウェイトレス)をしていた。テツローの聞くところによると、なかなかの人気者であるらしい。マニ、アワはともかく、ナイはまた足を引っ張るのではないかと危惧していたのだが、それなりに頑張って働いているようだった。
そんな風に、皆が皆、自分のでき得ることで役目を果たしている。テツロー自身も、皆の期待に応える必要を感じていた。
「おーい、誰かいてへん?」
最近聞き慣れてきた、崩れた標準語(コモン)が耳に届いた。
甲板に出て、顔だけを出して見下ろす。古風な風呂敷包みを手に提げたアマツカが、いつもどおりの油まみれの笑顔で、空いた方の手を振っていた。
テツローが錆の浮いた階段(タラップ)を降ろす。どうぞ(プリーズ)、と言う前に軽やかに駆け上がってきた。
「進んでる?」
「それなりに」
「便利な言葉やね」
「それくらいは残っていて欲しいな。有意義なモノが」
「増やせるように努力しよか。お互いに」
「お互いに。便利な言葉だ」
例の事件以来、アマツカはよくこんごうに顔を見せるようになった。利益優先で動く潜行者(ダイバー)に大損をさせたことで、責任を感じているのだろう。頼んでいた物資が入る都度、優先的に回してくれるようになった。しかも、配達つきで。
「これ、頼まれてた部品(パーツ)」
風呂敷包みを解くと、膨らんだ紙袋を手渡した。受け取ったテツローは素早く中身を確認する。
「助かった。これでしらなみのスクリューが直せる」
アマツカを見ると弁当を広げていた。セラミックの容器には尖塔(バベル)の焼付けがある。合成肉の甘酢団子と、地上プラント培養の野菜で作られたポテトサラダが見えた。
弁当箱と同色のポットから海草茶を注ぎ、カップの一つをテツローに回してくる。テツローは遠慮なく受け取った。
「あんたも食べる?」
矢継ぎ早に皿も差し出される。苦笑を一つ返して、それも受け取ることにした。
肉団子を放り込む横顔を見て、前から思っていたことを聞いてみることにした。
「俺たち、一緒に仕事したことあったっけ?」
アマツカは一瞬驚いた表情を浮かべて、それから嫌らしい笑みに変化させた。
「あんた、顔に似合わず古い口説き文句使うなあ」
「そういう意味(ダブル・ミーニング)は込めてない。ただ、どこかで会ったような気がしたから」
「前世でな。もっと古いわ、それ」
色気の欠片もなく口腔内に食物を詰め込む姿を見て、こちらにだって選ぶ権利はあるとテツローは思ったが、肩を竦めるだけに留めた。
「あんたは見たことあるんかもしれん。自分で言うのも何やけど、うち、ちょっと有名やったから。でもうちは、アオキさんから紹介されるまで、あんたのことは知らんかったよ」
「そうか」
暫し二人で弁当を突いた。
「ご馳走様でした」
アマツカが律儀に両手を合わせる。テツローも久々にやってみた。
「こっちの方に住んでたこと、あったのか?」
「いや。友達がおってん。それで覚えた。なんて言うの? ゼンみたいで格好いいやん」
「達磨大師とは関係ないけどな」
「お祈りはな、あかん。こんな世界になってもうたら、尚更や。辛気臭くなる。滅びるのを……ただ待ってるだけの気分になる」
言われてみれば成程、とテツローには思えた。食べられる事への感謝の気持ちを表す、という意味合いでは同じだが、その対象が若干違う。そんな感触だろうか。
「面白いな」
「そうやろ?」
二人で笑いあった。絶望はすぐ傍に潜んで、気を抜けばいつだって襲い掛かろうと爪と牙を研いでいる。今、大事なのは。その存在にあえて気付かぬ振りをしてでも、目の前の希望を追いかけることだ。いつかその絶望を、振り切れることを願って。
テツローとアマツカは、他愛もないことを言い合い、そうして暫く笑っていた。
その様子を、仕事から帰って来たばかりの三姉妹が、暗い表情で見ていた。
(C)Chabayashi Shouichi 2009.