■ バブルダイバー DIVE:14 問われる場所(ランドリー・トーク)

 アマツカと別れ、テツローが船内へ降りていくと、薄暗い通路の先に三姉妹の長女、マニが立っていた。
「どうしたんだよ、こんなとこで」
 様子がおかしい、と思いつつも、両手をポケットに突っ込んだまま、明るい口調で声をかける。踊り場は波音も届かず静謐で、声がやけに反響して聞こえる。
「お話があります」
 返答は、テツローのそれとは対照的だった。
 マニが首を動かす。奥へ来いという仕草だ。通路の先には、風呂場と共用になった洗濯室がある。今の時間なら、内緒話をするには打ってつけだ。
 テツローが小さく頷くと、マニは背を向けて歩き出した。肩口まで伸ばした髪と、白い民族衣装の裾を、殆ど揺らさずに歩く。歩き方を見れば、どのような環境で生きてきたかが、わかる。すべてではないが、確かにその一端は表している。そう思えた。
 気にしない風を装って、開かれたドアを潜る。マニは後ろ手にドアを閉めた。
「で?」
 船舶用の圧縮洗濯機にもたれ掛かった格好で聞く。銀色の筐体に浮いた赤錆が気になったが、今はそれよりも、目の前の長女だ。
 マニは後ろ腰に隠していた両手を前に回した。左手には黒鞘に金を散らした懐剣が握られている。
「穏やかじゃないな」
「はい。まったく穏やかではありません。少なくとも、私は」
「そんな二面性も魅力的だ」
「冗談を言わないで。こんなときに」
 鞘が払われる。磨かれた刀身が露になった。刃がテツローに向けて突き出される。マニは無表情だ。
 テツローは両手をポケットから出し、降参のポーズを取った。
「で?」
 もう一度聞く。
「テツロー。あなたは、ナイをどうするつもりですか?」
 テツローは溜息を一つ零した。
 おそらくアワかナイのことだろうと見当はついていた。見当はついていたが、マニが何を知りたいのか、どんな答えを求めているのかがわからない。
「どうするつもりかってのは?」
「惚けるおつもりですか」
「そうじゃない。本当にわからないから聞いているんだ。マニが何で怒っているのかも」
 マニが母国語で何か吐き捨てた。わからないのは、きっと幸運なことだろう。
「あなたは」
 剣先が震えている。今なら容易く奪えるかもしれない。
「あの子を絶望から救い上げて……掬い上げるだけ掬い上げて、希望の光を見せておいてから、手を離すつもりですか」
 マニの瞳の奥。そこにあるのは憎悪だ。
「もう一度、あの子を。絶望の闇の中へ、突き落とすつもりですか」
「ちょっと待てよ、俺は」
「動かないで」
 踏み出しかけた一歩を、テツローは戻した。マニが何を言いたいのか。少しわかってきたような気がする。
「……手を離したり、しないよ」
 マニの瞳をまっすぐ見つめる。
「俺にとっても、ナイは大切な子だ。大切な仲間だ。それから……そう。君が思っている意味での、特別だ」
 マニは無言で懐剣を構えている。テツローは言葉を継ぐ。
「あのままじゃいけないと思ったんだ。俺だけじゃない。トーゴーも、姉御も、君たちだってそう思っていたはずだ。マニや、アワのように、ひとりで立ち上がってくれればよかった。でも、立てそうになかった」
 ゆっくりと両腕を下ろす。マニは何も言わない。
「だから、手を差し伸べたんだ。それは、悪いことかい?」
「そのことには、感謝しています」
 緊張が少し、和らいだ気がした。
「私たちだって、手を差し伸べた。あの子を救い出そうと、努力した。毎日です。でも、できなかった。あの子は、心を開かなかった。この世界そのものに、絶望していたから」
 マニがテツローを睨みつける。
「私たちができなかったことを、あなたはやった。そのことには、感謝している」
「感謝しているって顔じゃないぜ、それ」
「でも」
 下がっていた剣先が戻った。
「その代わりに、あの子は……。ナイは、あなたに寄りかからなければ、生きていけなくなった」
 ナイはテツローに依存している。そのことは、テツロー自身も薄々気付いていた。だがテツローも、どう対処すればいいのか、戸惑っているのが実情だ。
 それほど豊富な女性関係を、今までにも築いてきたわけではない。むしろ学生時代は奥手な方だった。耐性がついたのも、機関に出向して、飛び交うジョークや猥談に揉まれてからのことだ。このようなとき、どうすればいいか。その経験が、決定的に足りない。
「あの子は今、あなたを通して、世界に希望を見出している。あなたを通してしか、希望を見出せない。そんな状態なんです」
 軽く首を振る。艶のある黒髪が流れる。
「今あなたが手を離せば。きっとどこまでも、沈んでいってしまう。そしてもう、浮き上がってくることはない」
「だから。俺は手を離す気はない」
「だったら! どうしてナイを放っておくんです!」
 マニが踏み出す。一メートルほどの距離に剣先が迫った。
 テツローは頭を掻いた。思い当たる節は、ある。
 海豹事件からこちら、テツローはずっと慌しかった。自分のことや船のこと、着繰身(シェラフ)の整備で頭がいっぱいだった。正直、ナイのことまでは気が回らなかった。
 その間に、ナイがいったいどんな気持ちを溜め込んでいったか。それくらいは、テツローにも想像できる。
「……悪かったよ」
「私にじゃない。あの子に言って」
 硬い音が二度した。マニが驚いて振り向く。
「そろそろいいかな、おふたりさん。シャワーを使いたいんだが」
 薄く開いたドアから、トーゴーが顔を出していた。
「艇長(ボス)!」
「トーゴー……」
 マニが慌てて懐剣を鞘に戻す。トーゴーは何も言わず、隙間からゆっくり身体を差し入れてきた。マニの両肩に手を置く。
「悪いな。邪魔する気はなかったんだが」
「いえ。もう、済みましたから」
「おしまいにしていいことと悪いことがある。マニの言いたいことは、概ね正しい。けどな。そいつをマニが言っちゃいけない。そいつは、ナイが自分で言わなきゃいけないことだ。ナイが、自分で気付かなきゃいけないことだ。わかるな」
「……はい」
 そのままマニの身体を半回転させた。
「お姉ちゃん(シスター)の仕事は、見守ることと、お祈りすることだ。そうだろう?」
「ええ。ごめんなさい、テツロー。取り乱して」
「意外な一面が見られたよ」
 マニの肩から力が抜ける。トーゴーはようやく手を離した。
「お願い。あの子を、大事にしてあげて」
「努力する」
 断言しなかったテツローの返答に眉根を寄せたが、一つ礼をして、ドアから出て行った。
 靴音が遠ざかっていく。トーゴーが部屋を横切って、上着を籠に放り込んだ。
「どこから聞いてたんだよ」
「意味のない質問だな、テツロー。一つ二つ聞きゃ、すべてわかるさ」
「ごもっとも」
 シャツ一枚の背中と会話しながら、テツローはようやく一息吐いた。
「災難だったな」
「いや。でも、頷くべき部分もあったから」
「そいつがわかってりゃ、上出来だ」
 洗濯槽(ランドリー)を開け、脱いだシャツを放り込む。肌には小さな傷跡や銃創が、溶け込むようにあちらこちらに走っている。
「大切にすると、嘘でもいいから一言、言ってやりゃよかったんだ。そうすりゃ彼女も安心する」
「そこまで優しくないよ、俺は」
 トーゴーが肩を竦めた。
「嫉妬したんだよ、彼女は。血を分けた肉親である自分たちができなかったことを、テツロー。お前がやっちまった。そいつが、悔しかったのさ」
「わかるよ。だが俺だって、運がよかっただけだ」
「男と女の違いってのもあるがね。まあともかく、マニの気持ちの幾分かは、そういうものが支配してる。いや、かなり前からしていたのさ」
 首と腕を回しながらトーゴーが向き直る。表情は意外に真剣だった。
「厄介事(トラブル)ってのはな。上手くいっているときには、なかなか表に出てこない。何かに躓いたときとか、色々なことが上手くいかないときに、溜まっていた不満が噴出したり……爆発したり、するわけだ」
「つまり、まだまだ出てくるってこと?」
「下手をすればな。止められるかどうかは、大抵最初の一手で決まることが多い」
 トーゴーは片目を瞑ってみせた。
「まあ、初手が痴話喧嘩でよかった。まだしもましな解決だった、とついでに言っておこうか」
「そりゃどうも」
「惜しむらくは、淑女(レディ)のああいった部分も受け入れるだけの度量が欲しいところだな。紳士(ジェントル)としては」
「艇長(ボス)は受け入れてるのかよ」
「半分くらいはな」
 その余裕がむしろ憎らしいとテツローは思った。
「努力だけはしてみるよ」
「三姉妹を渡り歩くのも、オツなモンかも知れんぜ?」
「アンタ、俺を何だと思ってるんだよ!」
 手近に吊られていたタオルをもぎ取り、投げつけた。笑いながらトーゴーが受け取る。
 そのまま踵を返し、出て行くつもりだった。だがその背に声がかかった。
「テツロー。今俺が何をやっているのか、知りたいか?」
 テツローは少し考えてから、答えた。
「知りたい」
 暫くの沈黙。
「あとで艇長室に来な。そうだな、三十分後くらいに」
 首から上だけで振り向くと、トーゴーの姿は風呂場に消えていた。
 トーゴーの言葉を反芻した。いったい何を教えてくれるのか。わからない。
 ただ自分が、次の段階へと導かれつつあることには。微かにだが、気付いていた。

   
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(C)Chabayashi Shouichi 2009.