■ バブルダイバー DIVE:16 新しい朝(デイブレイク)

 火を入れられたエンジンが唸りを上げ、隠れ家の岩壁を振動させる。ミハエルは弄んでいたハモニカを懐に仕舞い、立ち上がった。
 真っ黒になった布切れをつまみ上げて、傍らのバケツに放り込み、爪先で端へ押しやる。タラップから長靴の音が響き、漆黒のスリップドレスを纏った、金髪の女が甲板に登ってきた。
「お茶会(ティーパーティ)の準備は済んでるかい? ミハエル」
「もちろんでございます、お嬢様(セニョリータ)」
「絶滅危惧種(レッドデータ)を飛び越えて、今や過去の遺物だ。乙女(メイデン)も、お嬢様(セニョリータ)もな。自分の役割はわかってるな? 坊や(キッド)」
 長身な部類に属するはずのミハエルとほぼ同じ高さの目線が、鋭い睨みを寄越す。視線をかわすため、恭しく一礼してみせた。
「今度こそ、見事くろしおを捕獲してご覧に入れましょう」
「そう願いたいものだね。アタシのためにも。そして、お前のためにもだ」
 これが最後のチャンス。そういうことだろう。
「近付くまではお前が歩哨だ。三キロまで近付いたら乗り込みな。遅れるんじゃないよ」
「了解(ヤー)」
 腹心のバイアンを呼び付け、操縦室(デッキ)へ降りて行く。船には彼女の旧時代の仲間が五名ほど乗り込んでいるが、彼と熊(ベーレン)と呼ばれる二名だけは、特別らしかった。
 どちらにせよ、ミハエルには関係のないことだ。
 着繰身(シェラフ)の格納庫に近い後部甲板まで行き、歩哨を交代する。出撃までの時間、こうして独りになれるのはありがたかった。
 そろそろ潮時か、とミハエルは考える。
 ミハエルが乗船を請うてからこちら、この海賊たちは羽振りがよかった。おかげでミハエルも、食糧その他に不自由することはなく、そういった意味では快適な居場所だった。
 だが、前回の方舟(ノア)の輸送船を襲う作戦からこちら、旗色が急激に悪くなっているように思われる。おそらく街の者たちが、本格的に討伐と締め出しに乗り出したのだろう。ミハエルはそう予想している。
 もちろん、双頭の海豹(ダブルシール)と呼ばれるあの女も、そのことは感じているだろう。彼女の計画では、組織的な抵抗がはじまるまでに大量の物資を溜め込み、それを抱えて三年ほど蓄電するつもりだった。そうしてほとぼりが冷めた頃に、また海賊行為を再開する。
 そうして今までも生きてきたのだ。あの女は。今回も、そうするつもりだったはずだ。
 今のところ、計画が成功しているとは言い難い。プラントの石油が手に入っていれば、話は別だったろう。だが現実には、三年を遊んで暮らせるだけの物資は、まだ隠れ家の倉庫に積み上がっていない。
 今回の作戦。彼女たちはこいつを、身を隠す前の最後の大仕事だと考えている節がある。だが。
 ミハエルにはどうも、賽(ダイス)の目に裏切られつつある予感がある。今までにない焦りが見えるのも、それに拍車をかけている。
 彼女らは否定するだろう。だが、人の顔色ばかりを窺って今まで生きてきたミハエルには、わかる。
 潮時だ。改めて思った。
 もともと生き残るための一時凌ぎで、シュワルツェンからグリードに鞍替えしたのだ。そもそも、シュワルツェンに潜り込んだのだって一時凌ぎだった。
 逃げ出すなら、今回の作戦中が一番いいだろう。そうしてまたどこかに潜り込み、暫く過ごせばいい。
 俺も海賊どもと同じだ。そう自嘲する。
 考えてみれば。いつもどこかから逃げては、新しい場所に潜り込む。その繰り返しだったように思う。父が亡くなり、母が再婚して、義父に追い出されるようにして家を出たあの日から、ずっと。
 月日を数えることのない放浪生活は、記憶を怪しくする。父の顔も、母の顔も、今となってはおぼろ気だ。母も、あの憎らしい義父も、今は海の底だろう。遺されたのはこの身体と、幼い頃に贈って貰ったハモニカだけだ。
 もとの世界に帰りたいか。そう問うた者がどれほどいるだろう。帰りたい。そう答えた者がどれほどいるだろう。
 だがミハエルは、その問答とは無縁だ。
 なぜなら。今眼前に広がるこの世界こそ、ミハエルが望んだ世界だからだ。
 世界なんて、滅びてしまえばいい。そう思っていたからだ。
 その点だけは、下司な海賊どもとも理解し合える。そう思う。
 振動が規則的になり、岩壁がゆっくりと後ろに流れてゆく。
 次はどうしようか。ミハエルの意識は、もう先の未来へと向いていた。

 射出前の格納庫が慌ただしいのは今にはじまったことではないが、その日のこんごうは、普段以上に刺激的だった。
 脚部の曲面で化粧直しができる水準にまで磨き上げられた三機の着繰身(シェラフ)が、射出されるのを今かと待っている。そのはずだったが、一番機、黒く塗装された着繰身(シェラフ)の搭乗口(コクピット)だけは、未だに気密扉が上げられたままだった。
「だから、どうしてテツローも出撃しなくちゃいけないの?」
 綺麗に整えられた短髪の少女が、黒いドライスーツを着込んだ青年に詰め寄る。テツローは困った表情で両隣の機体を見るが、当然のごとく搭乗口は閉じられたままだ。
「あれを組み上げたので、テツローは十分役目を果たしたんでしょ? なのに、何でそんな危険なことをしなくちゃいけないの?」
 三姉妹の末っ子、ナイが詰問口調で寄ってくる。右手の指は、隣の着繰身(シェラフ)を指し示していた。
 とりあえず肩を掴んで、身体を引き離す。最近あちらこちらに肉がついて、丸みのある身体になった、とテツローは思った。
「危険だからこそだよ。恐ろしい相手だ。いったい何があるかわからない。そんなときに、戦力の出し惜しみなんかできるかよ」
 使えるモノは何でも使う。それでも最善の結果で終われるかどうかはわからない。
 世界の残酷なところは。どれだけ努力をしたって。最善を尽くしたって、報われるとは限らないところだ。世界の成り立ちが変わったところで、その基本原則は、変わらない。一生を幸福(ハッピー)な気分で過ごせるかどうかということは、詰まるところ、こいつを受け入れられるかどうかだ。
 ナイにも受け入れて欲しい。テツローは心の底からそう思っている。
「それに」
 トーゴーがくれた言葉を思い出す。
 ただ努力をするんじゃなくて、どういう努力をするか。そいつを考えるのさ。
 それは、テツローがこんごうに来て教わった、幾つかの大切なことの一つだ。
「恋敵(ライバル)が待ってるんだ。行かなくちゃ」
 後悔を山ほど背負って進む道の先に、幸福なんてあるわけがない。
「私も、一緒に行きたい……」
 恋敵(ライバル)という単語に含むものがあったのか。そんなことを言って愚図ってみせる。以前までは、感情そのままで、ぶつかってきた。近頃は誰から習うのか、多少の技巧を絡めてくる。
 強情な娘の耳元に、唇を寄せた。
「ナイ。くろしおの席は一つ。君が座れる場所は一箇所だけだ。そこに座ったら」
 彼女のお腹を優しく撫でる。
「戻ってきたときには、三名様になってるぜ」
 ナイの身体を素早く押し退け、気密扉を力任せに下げる。意味に気付いたナイが、顔を真っ赤にして扉に怒鳴る。馬鹿。助平。最低。彼女の母国語は習い始めたばかりだが、これくらいならテツローにもわかる。
 計器を確認。状態は良好。一息ついたところで、通信が入った。
「お別れは済んだかい」
 聞き慣れた姉御の声だ。笑いを噛み殺しているのが、雑音越しにもわかる。
「……姉御にも、あんな時期があったんだよな」
「もっと奥手だったさ。信じられないかい?」
「物事には物証ってのが必要なんだぜ、姉御」
「写真がないのが残念だ」
「新しい朝に相応しい、素晴らしい言い訳だね」
 長女の声が割り込んできた。
「皆さん、準備はよろしいですか。今から開きます。先生(ドク)が仰るには、獲物は間違いなく食いついたそうです。油断なさらずに。カウントします。十秒前。九、八、七……」
 目の前が黒く染まる。アイライトのスイッチを捻る。
 三機の着繰身(シェラフ)が、こんごうの腹から勢いよく飛び出した。

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