起伏の激しい岩肌を、暗紅色の着繰身(シェラフ)が、表層を舐めるように泳いでいく。大型のスクリュー四基から吐き出される泡が帯をつくり、曳航線を引く。線をなぞるように、黒色の、細身の着繰身(シェラフ)が後に続く。翼のような大型の鰭(フィン)と、鋭角的な機影。その姿形(フォルム)は、翼を広げた鴉のようにも見える。
高速回転刃(チェーンブレード)の唸りを上げて、漆黒の着繰身(シェラフ)が肉薄する。だが、しゃっこうの操縦士(パイロット)は地形を上手く使い、速度で勝る双頭の海豹(ダブルシール)の動きを阻害し、距離を容易に詰めさせない。
黒鴉の一撃が、突き出た岩の棘を易々と裁断する。背中からAPS(水中アサルトライフル)をスライドさせ、射つ。だがそれを、流麗な旋回(ロール)で避けてみせる。
「相変わらず、ふざけた腕前だ!」
引き金をそのまま銃身を振るが、追い切れない速度で射程外へ逃げる。そのまま距離を取ろうとしたが、瞬間、相手の姿が視界から消える。
上から来る。そう気付いて重し(バラスト)に注水する。機体が沈んだのと、鋭い刃が頭部のあった部分を通り過ぎたのは、ほぼ同時だった。
銃弾をばら撒きながら、岩壁を盾にし、後退を図る。途切れる視界。見つければいつも、しゃっこうの右側か左側に回り込んでいる。一瞬でも気を抜けばやられる。必死で機体を制御し、追撃を振り切る。
まだか。気が付けば、声に出していた。
運動性能を限界まで引き上げたしゃっこうとはいえ、規格外の化け物から逃げ回るには限度がある。このままでは、遅かれ早かれ、射程に捉えられるだろう。
あの悪魔を自由にさせないためだけに、この場所を選んだのではない。この場所を選んだのにはもう一つ、大きな理由があった。
もう少し。もう少し粘れば、「それ」はやって来るはずだ。
これだけ大きな音を立て続けていれば、必ず。
「来い……」
双頭の海豹(ダブルシール)が突進してくる。高速回転刃(チェーンブレード)が突き出される。僅かに肩口を掠め、海中に火花が散る。ハイドロジェットを全力で噴射し、追撃を逃れた。
息が上がる。身体中から汗が噴き出す。支配しているのが恐怖か、興奮か。それすらも、すでに自分ではわからない。
突如。ソナーに乱反射が起こった。
「来た!」
耳障りな反射音が断続的に鳴り、搭乗席(コクピット)内部を満たす。叶うなら耳を塞ぎたいところだ。が、今回ばかりは、その騒音も天使の吹奏楽(ファンファーレ)に聞こえた。
手近の岩に、背面部を守るようにしゃっこうを貼り付かせる。スクリューとジェットを切り、ライトを最小まで落す。
小さくなった光源の中を、影が過ぎった。
悪夢といっていい光景かもしれなかった。
流線型の、魚のような姿が、しゃっこうの前を高速で通り過ぎていく。巨大な眼一つだけが頭部に鎮座しているもの。下顎から体長ほどもの長い牙が伸びているもの。八つの長い尾を波打たせて泳いでゆくもの。形こそ魚のようであっても、それは完全に、別種の生き物だった。
魚類型変異種(ディープワンズ)。それは、自らが望まぬまま、魚であることを捨てざるを得なかった生物たちだ。
ドーリンが待っていたのは、この群れだった。
海賊(パイレーツ)と潜行者(ダイバー)。どちらも海と共に生きる者たちだが、彼らには一つ、大きな差異がある。
海賊(パイレーツ)は、海を知っている。だが、潜行者(ダイバー)は、海の中をも熟知している。
潜行者(ダイバー)は知っている。魚類型変異種(ディープワンズ)は、起伏の激しい、複雑な地形を好むことを。
潜行者(ダイバー)は知っている。そういう場所には大抵、魚類型変異種(ディープワンズ)の巣があることを。
そして、熟練の潜行者(ダイバー)は、知っている。
この場所は、海面付近まで魚類型変異種(ディープワンズ)が昇ってくることがある、良識ある潜行者(ダイバー)ならば決して近付かない危険な場所であることを。
金属と肉が衝突する音。スクリューが肉を巻き込む音。雑音(オーケストラ)の中では定かではない。だが確かに、聞いたような気がした。
どれくらいそうしていただろう。
反射音が完全に消えたのを見計らって、ドーリンはスクリューをゆっくり始動させた。
ライトを戻し、上昇を開始する。幾らか魚類型変異種(ディープワンズ)にぶつかられたが、動作に支障はないようだった。
目標を捉えた。
角の多い装甲のあちこちに、肉片が絡まり、貼り付き、水流に合わせて揺れている。機体の各部から発する異音が、気密扉を通してしゃっこうの操縦席(コクピット)まで届く。
どうやら群れと、真正面から衝突したらしい。くろしおならともかく、並みの着繰身(シェラフ)では、勢いに乗った魚類型変異種(ディープワンズ)と激突して、無事で済むわけはない。装甲は傷つき、運が悪ければ骨格(フレーム)だって歪む。スクリューにも肉が詰まり、使い物にならなくなる。
勝負はついた。そういうことだ。
APS(水中アサルトライフル)を構えたまま、五メートルまで近付く。悪魔は爪を振り上げるが、動作は緩慢だ。
引き金(トリガー)を絞った。
悪魔の右腕が弾け飛ぶ。もとより運動性重視で、防御性能の薄い機体だ。次いで左腕、それから鰭(フィン)。静止している状態のそれを破壊するのは、難しいことではない。
右肩の装甲が展開した。魚雷管が覗く。素早くしゃっこうを前進させて、左腕からダイバーズナイフを飛び出させる。
肩口を、抉るように切り裂いた。
鴉に似た頭部を銃で押さえつける。脚と胴体を回して離れようとするが、力比べなら圧倒的にこちらが勝った。
引き金から指を外し、計器に手を伸ばす。通信機の摘みを弄り、通信帯域を最大限まで広げた。
「よう。聞こえるかい? 双頭の海豹(ダブルシール)」
砂嵐と呼ばれる雑音が耳に障る。しばらく待った。
「……そちらも女だったとはね。驚きだ」
返事があった。女の声色だった。
「お互い様さ。勝負はついただろ。大人しくするつもりはないかい?」
「ないねぇ」
雑音に混じって低い笑い声。ああ。ドーリンは嘆息した。初めて戦ったときにも感じた。確かにこいつは、同類だ。
「海賊を辞めるつもりは?」
「ないねぇ」
「あたしたちを、つけ回すのを辞めるつもりも?」
「聞くまでもないだろ。こいつは、アタシの楽しみさ。一番のな」
「だったらここで死ぬしかないがね」
また笑い声が雑音に混じった。
「周りを見てみな。これは何だ? これが、生きているものの棲む世界か? 違うだろう。よく見ろ。こういう世界をな。地獄(アビス)っていうのさ。アタシたちゃね」
低い、地の底を這うような呻き。
「死んでるんだよ。とっくの昔に」
ドーリンは操縦桿(ハンドル)を握り締めた。金属音と、火打石の音。操縦席(コクピット)の中で煙草。それがいったいどういう意味を持つか、ドーリンはもちろん知っている。
「別に世界がこうなったから、言ってるんじゃねえ。世界が変わったからって、生き方を変えたわけじゃねえ。少なくとも、アタシはな」
「変えようとは、思わなかったのかい?」
「御免だね。意識して変えるものかよ。気付いたら、変わってるもんだ。自分なんてのは。そうだろうが」
「時と場合によると思うがね」
「じゃあ、そのどちらにも縁がなかったんだろうさ」
言葉が一旦途切れた。
「生まれたときにゃあ、アタシは死んでた。肉体的なことじゃなくてな。アタシが面白いと思うこと、やってみたいと思うこと。それらは悉く、アタシを取り巻く世界にとっては、やっちゃいけないことだった。オーケー、世の中にとっちゃそれでいいだろうさ。だけど、アタシはどうなる? 世界はアタシに、何を与えてくれる? 答えはなかった。誰も、答えなかった。だから、アタシは決めたのさ。アタシはアタシの、楽しいと思ったことをやる、ってな」
「よくある話だ」
何度目かの笑声に、咳が混じった。
「わかってるじゃねえか。そうだ。よくある話さ。こんなのはな。ちょっとした、よくある、身の上話だ」
それで、楽しかったのか。聞いてみたかった。だが、その衝動を打ち消した。
それを問う資格があるのは、彼女自身だけだ。
「で、どうする」
「足掻くさ。地獄(アビス)の底でな。そうして、叫んでやるのさ」
女が笑みを浮かべたのが、見えたような気がした。
「この世界は素晴らしい(イッツ・ア・ワンダフルワールド)ってなぁ!」
双頭の海豹(ダブルシール)がしゃっこうの腹を蹴りつけた。機体を回転させ、右肩の棘(スパイク)で突撃を掛ける。
ドーリンは機を沈ませた。下側から、双頭の海豹(ダブルシール)の開いた右脇にナイフを押し込む。
そのまま斜め下に。火花を散らせながら、切り払った。
ナイフを抜き、上昇する。地獄(アビス)の底へ、漆黒の悪魔が堕ちてゆく。スクリューを回して海域を離脱した。
振り向かなかった。
ドーリンは空想する。もしも。もしも誰かが。
彼女と、彼女を取り巻く世界とを取り結び、橋を架ける誰かがいたなら。そういう存在と出会っていたなら。
彼女の生涯は、違ったものになっていただろうか。
そうかもしれない。そうではないかもしれない。すべては想像だ。それを考えたからといって、何が変わるというわけでもない。
だがそれでも。ドーリンは想像してしまうのだ。
なぜなら彼女の姿は。もしかすると、どこかで道を違えた自らの姿であったかもしれないのだから。
頭を二度振る。
自分の仕事は終わっていない。そう言い聞かせて、機体を駆る。
肉体は疲労している。だがそれは想定していたことだ。こちらに黒い悪魔がぶち当たったということは、テツローたちの側には単眼巨人(キュクロプス)が相対しているはずだ。ここまでは、こちらの筋書き通り進んでいる。ここに来て珍しく、先生(ドク)の玩具(オモチャ)が役に立った。性根を叩き直されて、少しは趣味より実益を考えるようになった、ということであればいいのだが。
こんごうから相当離れたため、通信はできない。テツローたちとも、方向を分けてからは途絶している。普段の仕事なら絶対にしない、完全な単独行動だ。
これからの行動そのものが、合図になる。そういうことだった。
「あの辺りだな」
先生(ドク)から最後に送られて来た表示(マーク)から逆算し、凡その位置を予想する。その方向に集中して、ソナーを発してみた。
反応があった。
十五メートルまで上昇し、アイライトを最大にする。遠く微かに、船底のような形が確認できる。
「いた」
元シュワルツェンの探査攻撃艇、クラーケン。軍用に建造された、堅牢さと、速度、打撃力を併せ持つ艦艇。内部に備えられている贅沢な機構は、今では入手不可能(オーバーテクノロジー)だろう。
潜行者(ダイバー)ならば、沈めるよりも奪取することを最優先する。それだけの価値がある船だ。
だが。
「運が悪かったな」
搭乗席(コクピット)右側にある、大きな赤いレバーを、全力で押し下げる。しゃっこうの外観でもっとも特徴的な、突き出した二本の鰭(フィン)。立方体であったそれの前面と側面が、一動作で展開した。
鰭(フィン)がしゃっこうの背面に広がり、巨大な扇(ファン)となる。そこに並んでいるのは、全部で八基もの魚雷管だった。
「戦闘艦だろうがね」
凶悪な笑みが零れる。
「これだけ突っ込まれりゃ、イケるだろうさ!」
叩きつけるように、発射スイッチを押す。
四対八基のマイクロ魚雷が線を曳いて、黒い船底へ向かう。海洋哺乳類型変異種(ダゴン)の腹を噛み破るために這い寄る八体の魚類型変異種(ディープワンズ)。一瞬、そんな像が重なった。
ドーリンは後退し、機体の両腕を前面で交差させた。
火花。爆炎。轟音。激流。
ドーリンは必死で、衝撃に耐えた。
(C)Chabayashi Shouichi 2010.