■ バブルダイバー DIVE:19 長いお別れ(ザ・ロング・グッバイ)

 逃げ出すには絶好の機会だった。
 身体に馴染んだ機体、単眼巨人(キュクロプス)と共に、ミハエルは海中にあった。船からも、あの女からも離れた。今逃亡しても、追われる危険はない。どこへ逃げるか、というのは確かに問題だが、何とかなるだろうと思っているし、大抵のことなら何とかする自信はあった。
 地形が複雑になってくる。なるほど、誘い込むには絶好の場所だ。この場所なら、運動性能の差を多少なりとも補える。
 だが、操縦技術の差はどうかな。ミハエルはほくそ笑んだ。確かに、上手くはなっていた。だが、あいつが上達したのと同じぶんだけ、こちらも上達していた。
 差は埋まっていない。そう感じた。
「今のうちに、叩き潰しておかねえとな」
 この先もしつこくつきまとわれては、厄介だ。この機会に、息の根を止めておくべきだろう。
「永遠にさよならだ、テツロー」
 光源が見えた。指令どおり、捕獲などするつもりはない。
 沈めてやる。表情に悪意が滲む。本人は、もちろん気付いていないが。
 キュクロプスに銃を構えさせた。単眼が反射光を受け、怪しく輝いた。

 ソナーの音を確認してから、テツローは近くの岩壁に身を寄せた。
 ライトでアワに合図を送る。しらなみがくろしおの後方で、同じように身を隠した。
 灯りを最小限にまで絞る。岩影から覗くようにして、前方を確認する。
 同じく小さく絞られた光源が一つ、揺れながら近寄ってくる。単眼巨人(キュクロプス)に間違いなかった。
 どう動くかは、すでにアワと決めてある。問題は、計画通りに動けるかどうかだ。こればかりは、やってみなければわからない。
 くろしおのAPS(水中アサルトライフル)を前方にスライドさせた。
 アワを信じること。自分を信じること。今求められるのは、そういうことだろう。
 意を決して、飛び出した。ジェットを駆使して、機体を左右に振りながら、突進する。
 ミハエルは気付いていた。慌てる素振りもなく、APS(水中アサルトライフル)を連射して接近を遮ろうとする。機体を横滑りさせ、岩を盾にする。その隙にミハエルも岩山のどこかへ姿を消す。
 今回の作戦に合わせて、くろしおとしらなみにも、若干の改修を施していた。以前に比べ、僅かだが運動性能が向上し、瞬間的には速度も出せるようになっている。キュクロプスの性能に及ぶものではない。だが、幾らかの保険にはなるはずだった。
 ソナーのピンが跳ねた。マイクロ魚雷だ。
 肩口の魚雷管を開いた。くろしおからも二基一対の魚雷が射出される。
 前方で爆音と閃光が重なった。
 衝撃を受けた岩塊が飛散し、海中を駆け回る。小さな破片の幾つかがくろしおの外装を叩き、耳障りな音を立てる。
 水泡の渦を突っ切り、新しく隠れる岩壁を捜す。視界に、泡立つ海水を破って光の帯が突き進んできた。
 キュクロプスだ。
 弾丸をばら撒いて後退をかける。だが相手の方が速い。キュクロプスが左腕を突き出す。以前に破壊したはずの電撃銛(ショックアンカー)が、完全な形でそこにあった。
「予備があったのか!」
 機体を半身にする。電撃銛(ショックアンカー)が鋼線(ワイヤー)を伸ばしてくろしおに迫る。APS(水中アサルトライフル)の銃身(バレル)に銛が絡んだ。慌てて銃を離脱(パージ)する。
 煙を上げて、APS(水中アサルトライフル)は二つに溶け折れた。
 ソナーがけたたましい声を上げている。漂流物(デブリ)の反射に加えて、数多くの、動的な反射。
 キュクロプスに背中を向け、スクリューを全力で回した。
 今後ろから撃たれたら、おしまいだ。だが、ヤツは撃たないだろう。
 なぜならミハエルは、テツローと同じ程度には、海のことを知っている。
 起伏の激しい、全方位を防御できそうな場所を見つけ、そこに機体を沈めた。
 海の底から、黒い竜巻のように、それは沸き上がってくる。地獄(アビス)に棲み、その姿を変質させてしまった者たち。怒れる魚類型変異種(ディープワンズ)の群れが、獲物を求めて岩の狭間を回遊する。
 ただひたすらに、息を殺した。くろしおの前を、やたらと頭部だけが肥大した魚類型変異種(ディープワンズ)が、通り過ぎてゆく。
 数度。突き上げるような衝撃があった。だが、それだけだった。
 どれくらいそうしていたか。息を止めていたのに気付いて、大きく二度、深呼吸した。
 ここからだ。慌てるな。自らに言い聞かせる。
 黒い魚群が周囲に見当たらないのを念入りに確認してから、テツローは動き始めた。
 穴を出て、ライトで周囲を見回す。魚影はない。上手くやり過ごせたようだった。機体の不調も、感じられない。
 しらなみは無事だろうか、と心配になった。打ち合わせの通り、岩穴に隠れていたなら、大丈夫のはずだ。今、相棒を捜し回るわけにはいかない。計画通りに動いてくれているのを祈るばかりだ。
 上から光が照射された。くろしおより三メートルほど上方。そこにキュクロプスが、銃口を向けて静止していた。
 咄嗟に、足下の岩を蹴った。スクリューを回し、ジェットを噴出する。くろしおの持つ力すべてで、上昇した。
 肉体に負荷がかかり、目の前が泡立つ。気絶するわけにはいかない。操縦桿を、握りしめた。
 APS(水中アサルトライフル)の弾丸がくろしおの装甲を叩く。構わず上昇を続けた。
 キュクロプスが左腕を突き出す。この距離では、避けられない。だが、テツローは、上昇することを止めない。
 信じていた。だから。
 キュクロプスが体勢を崩した。真横から。銃を構えたしらなみが、銃弾を撒きながら飛び出してきた。
 ほんの僅かな時間。僅かな隙。だが、それで充分だった。
 くろしおのカメラと、キュクロプスのカメラが、向き合う。
 くろしおの機体は、頭上にあった。
 左手側のスイッチを弾く。唸りを上げて、くろしおの穿孔腕(ドリルアーム)が回転を始める。
 この音を。果たしてミハエルは、どんな思いで聞いているだろうか。
 突然に。テツローの脳裏に、一つの光景(シーン)が浮かんだ。
 トーゴーやドーリンたちと出会った、すぐ後のことだ。
 海底シェルターに戻ったテツローは、ジュリアをはじめとしたスタッフたちに、経緯を説明した。
 トーゴーたちとの出会いと、ミハエルの裏切り。そして、ジェフリーとバラードの死。
 すべてを、思うままに、包み隠さず話した。
 語り終えたとき、部屋は沈黙に包まれていた。それを破ったのは、何だったか。
 そうだ。女性の、啜り泣く声。
 部屋の片隅。四方に広がった、明らかに手入れされていない髪の少女が、床に膝を突き、嗚咽していた。
 何度も名を呼びながら。どうして、と答えのない問いを繰り返しながら。
 ああ、そうか。あれが、アマツカだったのか。
 くろしおから、キュクロプスを見下ろす。
 なあ、ミハエル。お前は知らないだろうけどさ。
 あの子、泣いていたんだぜ。お前のために、泣いていたんだぜ。
 理由もあるだろう。お前なりの言い訳だって、あるだろうさ。
 だけどな、ミハエル。それでもついちゃいけない嘘って、あるよな。
 ついちゃいけない相手って、いるよな。
 俺だってさそうさ。ミハエル。
 短い間だったけどな。それでも俺は、友達になれるって。そう、思っていたんだぜ。
 もう一つ。お前に言っておきたいことがあるんだ。
 なあ。知っているか、クソ野郎。
 さよなら(グッバイ)という言葉はな。辛くて、悲しくて、寂しくて。心がどうしようもなくなったときに使う言葉だ。他に使うべき言葉がないときに使う、最後の別れの挨拶だ。
 本当の友との間にだけ、使っていい。
 そんな、言葉なんだ。
 だからミハエル。俺はお前に、さよなら(グッバイ)は言わない。
「くたばりやがれ(ソーロング・アミーゴ)」
 回転する左腕が、単眼を貫いた。チタンとタングステン複合鋼のドリルがキュクロプスの装甲を容易く裁断し、穿つ。勢いは止まらない。頭部を抜け、胴体部を両断し。
 上から下へと、突き破った。
 スイッチを弾いて、回転を止める。
 泡が密度を増し、視界を黒く染めていく。
 操縦しなければ、と思うが、腕も、脚も動かない。
 くろしおと一緒に、落ちてゆく。深く、暗い場所へ落ちていく。
 誰かに、抱き留められたような気がした。
 その感覚を最後に、テツローは闇に塗り潰された。

 原形を留めない金属の塊が、暗い海の底へと沈んでゆく。辛うじて腕と、脚と。特徴的な、大きな単眼。どれもが破砕し、僅かずつ欠片を撒き散らす。
 最も大きな塊。その歪んだ鋼片の隙間から、何かが零れ落ちた。
 小さな傷に覆われた、古びたハモニカ。情景に似つかわしくないその楽器が、真っ直ぐに落ちていく。
 群れを逸れた一匹の魚類型変異種(ディープワンズ)。回遊する先で偶然それを見つけた怪物は、顎を大きく持ち上げ。
 それを、飲み込んだ。

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