■ バブルダイバー 3rd EPILOGUE

 船体が一度大きく揺れて、テツローは今に意識を戻した。
「陸が見えてきたね」
 長椅子に寝そべったままの格好でドーリンが言う。テツローは水平線に目を凝らした。中心に点描のようなものが確かに見える。
 ドーリンが長椅子に座り直して、隣の位置を軽く叩く。テツローは歩いていって、そこに腰掛けた。
「ここまで一年」
 ドーリンが笑みを浮かべてテツローを見る。
「こうして座って、肩肘張らずにさ。対等に喋れるまで。まあ正確な時間は定かじゃないが、だいたい一年だ。お互いを理解して、間に壁を挟まずに話をしようと思えば、それくらいはかかるさ」
「……けど、その一年の間も、俺たちは生きていかなきゃいけない」
 テツローの返答を聞いて、ドーリンは声を出して笑った。
「そんな返答ができるってことは、アンタもちょっとは成長したってことかねえ。アンタの時と今じゃあ条件が違う。ほんの僅かだけどね。アンタ、運が良かったのさ。水の中から上がってきて、いきなり修羅場(ドンパチ)だ。こりゃもう、変わらなきゃ仕方がなかったって話さね」
 確かにあのときは、まず生きなければならなかった。沈んでいる暇も、落ち込んでいる暇もなかった。動かなければ死んでいた。そんな状況だった。
 自分は変わったのだろうか、とテツローは自問する。少しは成長したとは思う。だがそれは状況に慣れただけじゃないのか、と思うこともある。自分は厳窟王(モンテ・クリスト)になれたのか。それともまだ、お坊ちゃん(エドモン・ダンテス)のままなのか。
 そういえば、とテツローは思う。あのとき逃げたミハエルは、どうなったのだろうか。まだ生きているのか。生きているとすれば、彼もこの世界で変わったのだろうか。
 方舟(ノア)にいるアオキから、ミハエルをシュワルツェンで見かけたと聞いたことがある。もしもそうなら、また出会うこともあるのだろうか。そしてそのとき、自分はいったいどんな行動を採るだろうか。
「なあ、テツロー」
 ドーリンの表情は、真剣なものになっていた。
「アンタが船に乗りたいって来たときは、正直どうしようかと思ったんだよ。こっちも、お守りをしてやれる状況じゃなかったしね。でも、あたしたちは受け入れることにした。切り離してしまえば、それでお終いだからさ。たとえ重荷でも、苦痛でも、多くの者と手を繋いでおく必要がある。そう思った」
 無人島で十五名が取り残されて。それぞれがそれぞれで行動するのと、全員が団結して行動するのと、どちらが助かる確率が高いか。そういう話だ。でもそれだけじゃない。言葉にはできないが、それだけじゃない。打算で手を繋ぎ続けることがどれだけ難しいか、今のテツローはほんの少しだけ、知っている。
「アンタはよくやってるよ。そいつは認めてやっていい。胸を張っていい。でもさ。そいつは自分だけで出来上がったモノじゃないだろう?」
 テツローは素直に頷いた。
「次に渡せ(ペイ・フォワード)。自分が経験したこと。自分が培ってきたこと。そいつを、次に渡していくんだ。拙くてもいい。渡すことが大事だ。そいつが……手を繋ぎ合うってことだ」
 テツローは頷いた。声が出なかった。頷くことしかできなかった。
 不意にドーリンが手を出した。
「……姉御?」
「煙草。トーゴーの上着からくすねたろ。寄越しな(ペイ・フォワード)」
 先ほどまでの暖かく感じられた空気が、一挙に凍り付いた。生き残るべくして生き残った者も確かにいる。テツローは再認識した。そういえばしぶといあの昆虫もこんな色をしていた、と差別的なことを考えながら。
 テツローは渋々ワークパンツのポケットから小箱を取り出した。一本を引き抜き、掌の上に乗せる。
 昆虫女(ミズ・コックローチ)は手を戻さない。
 もう一本乗せる。触角を動かしもしない。
 テツローは溜息を吐く。二本を回収し、小箱を掌に乗せた。悪魔の微笑みをテツローは見た。
「横暴だ」
「情報の価値がわからないヤツは早死にする。あたしが昔叩き込まれた格言さ。アンタも覚えておきな」
 お互いに一本ずつを銜えた。煙草と一緒にくすねたオイルライターで火を点ける。これも今では貴重な品だ。
「……ナイと話をしてみる」
「そうしとくれ」
 不意に足音が響いた。誰かが甲板に上がってくる。
 顔を出したのはアワだった。
「ドーリンさん。テツロー。そろそろ陸が見えてくるはずだって艇長が……あ」
 テツローは慌てて煙草を揉み消したが、ドーリンは気に留めることなく、白い煙を吐き出していた。
 嗚呼無情(ジャン・ヴァルジャン)や厳窟王(モンテ・クリスト)には、まだまだなれそうにない。


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