■ バブルダイバー 序章

 水平線を境に世界が蒼と碧に分断されている。境界線付近には僅かに灰色の雲が堆積しているが、まずまずの快晴といってよかった。甲板に吹き付ける湿り気の少ない風も肌に快い。
 船の上だった。三百六十度が、水平線に囲まれている。陸の影は、一つも見えない。ただ広い空と、広い海があるだけだ。
 海は空の色を映して青く見えるという。だが今では、どこを見ても一面の深緑色だ。この世で一番大きな鏡は、長年手入れもされないせいで曇ってしまった。表面を指で掬ったなら、埃(ヘドロ)が山一つも取れるだろう。
 波音を掻き消していたエンジン音が小さくなる。
 舳先近くに青年が立っていた。黒色の、身体に貼り付くような潜水服(ドライスーツ)を着込んでいる。全体的に痩身だが、肩や二の腕、太股には筋肉が盛り上がりを形成しているのが見て取れる。黒い相貌の上、額に乗せられている銀縁(シルバーフレーム)の眼鏡が格好にはそぐわないが、それなりの海の男の姿に見えた。
「テツロー。もうすぐ到着だって艇長が」
 後ろから声をかけられ、振り向く。浅黒く焼けた顔の上に乗った黒の短髪を掻きながら声の方へと歩いていった。
 操縦室(デッキ)から出てきた姉妹の末っ子、ナイが小走りで近付いてくる。白い肌に大きな瞳。立襟前合わせの、身体の線に貼り付くような衣装。裾は長いが腰骨にかかるくらいの深いスリットが側面に開けられている。下衣には上衣とは逆に直線的な裁断のパンツルック。何でも祖国の民族衣装で、彼女たちの母親と祖母が、手縫いで一つ一つ仕立ててくれたのだそうだ。だがその母と祖母も、今はもういない。
 小脇にはこれもまた民族衣装だという日除けのすげ笠を抱えている。
 テツローの近くに寄ると、まだ十五歳のナイとは頭一つぶん以上の身長差がある。見下ろすテツローには手入れのされていない、テツローのものよりも一段黒いナイの頭髪が気になった。
「ナイ。いい女が台無しだ」
 そう言ってナイの短い髪の毛をかき回す。ナイは抵抗もせず、ふてくされたように視線を落とした。
「別にいいもん。見てくれる人なんて、誰もいないもん」
 テツローは不意に顔を近づけた。
「……俺じゃ不満か?」
 瞬く間に真っ赤になる。荒くれ者たちの際どいジョークには、まだまだ慣れないらしい。
 大笑いして肩を叩き、すれ違う背中へと「テツローのバカーっ!」という罵声が飛ぶ。テツローは片手だけを上げて返事をし、格納庫へと降りていった。

「姉御、調子はどうだ」
「生理の終わった翌日くらいハッピーだよ。カミさんはどうして我らを不完全につくりたもうたかね」
「オヤジの方がカミさんより下だからさ。寝室でもね」
「どういう意味だい?」
「俺の祖国でしか通じないジョークだ。忘れてくれ」
 格納庫へ降りるとドーリンが先に来ていた。テツローと同じくすでに潜水服(ドライスーツ)を着込んでいた。日に焼けたものではない生来のものの褐色の肌とブルネットの髪。豊満な胸部はスーツを大きく押し上げている。ちょっときつめの切れ長の目は惹きつけられる魅力がある。白の護謨衣(ボンデージ)を纏った全身は蠱惑的な曲線を描き、見慣れるまではテツローもつい目でその姿を追ってしまっていたほどだ。本人の申告を信じるなら、当年とって二十九歳。口さえ閉じていれば美人の範疇に入るだろう。
 薄暗い格納庫にはもう一方先客がいた。ナイと同じ格好の、三姉妹の次女アワが、年代物の大きな眼鏡を直し直し機動準備(ハンガーアップ)された機体を見上げている。顔を動かす度に後ろ髪のおさげが揺れた。
「お気に入りの品は見つかりましたか? マドモアゼル」
 声をかけたが機体から目を離さない。見つかったらしい。
「これ……。何だかペンギンみたい」
「いい勘だ、嬢ちゃん。このフォルムはな、ペンギンをモデルに造型されているんだ」
「艇長の真似? 似合わない」
「もう十年もすれば似合うようになるさ」
 アワと一緒に見上げる。視線の先には三機の大きな二足歩行型ロボット、確かに見ようによってはペンギンにも見えるそれが並んでいた。
 高軌道型汎用潜行艇。一般にはそう呼ばれている。だがテツローたちの間では着繰身(シェラフ)と呼ばれることが常だった。失われた世界の、遺された遺産。その集大成であり、残された世界に生きる者たちの最後の希望だった。
「ほらそこ。浸ってないで準備しな」
 ドーリンから叱責が飛ぶ。それを機にアワはようやく機体から目を離し、テツローは己の機体へと歩を進めた。
 黒。白。青。着繰身(シェラフ)は三色に色分けされている。白色の機体にはすでにドーリンが乗り込んでいた。伏臥させてある黒色のハッチを開き、操縦室に乗り込む。顔を出さないが、青色の機も準備は万端のようだ。
「三人とも、無事で帰ってきてね」
 アワが心配そうにこちらを見ている。ドーリンは無言で親指を立て、ハッチを閉めた。
「無事で帰るさ。艦長の物真似が似合うようになるまでは生きたいからな」
 テツローもハッチを閉じた。エンジンキーを捻ると同時に重低音に包まれる。こいつは確かにハッピーだ。テツローは思わず口笛を吹いた。
 操縦室に三姉妹の長女、マニの澄んだ声が響く。
「宜しいですか皆さん。十カウント後にドック開きます。美味しいお料理用意して待ってますから。カウント開始します。十、九、八……」
 ゼロと同時にドックが開き、注水が開始される。それを待って、まずは黒塗りの機体が飛び出した。
「一番機くろしお、先行するぜ。姉御、龍さんバックアップよろしく」
「ここんとこバックばかりでマンネリだけどね。二番機しらなみ、続いて出るよ」
 深緑色の海に、金属製のペンギンたちが潜っていった。

 XXXX年。極地点より撃ち上げられた超巨大移民船団は、疲弊した母星を守り、その再生を掲げていたテロ組織『母星教団』の暗躍により、宇宙圏に出る前の段階で爆破四散した。
 その大規模な爆発は核に匹敵する衝撃波と熱量を極地点に振り撒き、以前より緩やかなる溶解が懸念されていた極地点及びその周辺海域の永久凍土を一瞬にして気体に変えた。
 全星規模の”カミの津波”が地表を完全に洗い流した後、空気中に蓄えられた水分は長期的な、しかも今までに例を見ない豪雨となって平らになった地表に降り注ぎ、そして水没させた。
 かくして大地に表層の三割を許していた母星は、その慈悲を失い、ただその涙のみを宇宙へ晒すことになった。
 彼らはその総数の九割を失い、また多くの頭脳と技術をも失った。それでも生き残った者たちは、僅かに残された山頂の土地や、新たにつくられた土地を巡って争いを続けた。
 その中から、争いに負けた者、乏しい陸地での生活に見切りをつけた者、新しい可能性を求める者たちが、大地に背を向け、海の上で生きることを選択した。
 陸地がないということはまた、資源が手に入らないということでもある。
 それまで彼らが享受していた資源は、すべて海の中にあった。となれば、多くの者が同じ考えを巡らせる。
 ならば、海の中へ資源を採りにゆけばよい。
 幸いにして、幾らかの技術や資材は地上に遺されていた。幸いにして、それらを必要とする絶対数は大きく減少していた。そしてもう一つ、幸いにして。
 生き残った者たちの中にはまだ、冒険心を失わない者たちがいた。
 潜行服や着繰身(シェラフ)一枚を纏って、深海へ潜り、資源を集める。または水没した施設から機材や技術を文字通り拾い上げる。それを生業とする者たちの集団が、今や世界の九割を占める海へと散っていった。
 深海へ潜るとき、その水圧と酸素供給による問題で、潜行者の視界は一時白く、または黒く塗り潰されるのだという。そしてそれは一瞬で起こるのではなく、まるで視界が泡立つように、少しずつ、少しずつ塗り潰されるのだという。
 そのような話と、そういった潜行者たちの寿命が短く、特に一年以内に命を落とす者が半数を超えることから。陸に棲む者たち、そして時には彼ら自身が自嘲を込めて、こう呼ぶのだ。
 − 泡の中を潜る者(バブルダイバー)、と。

   
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(C)Chabayashi Shouichi 2007.