薔薇の小部屋


 その部屋の扉を開けると、一面に咲き誇った薔薇の絵が目に飛び込んで来た。幼い私は、その絵が怖くてどうしても部屋の中に入ることが出来なかった。特に夜。窓ひとつ無い湿った闇に浮かび上がる薔薇の花は、私には不気味以外の何物でも無かった。
何故か、兄はその部屋が好きだった。好きと言うより、魅入られていたと言ったほうが合っていたのかもしれない。
『理生』
兄は私を手招く。
『おいで』
私は後退りしてその場を離れるのだった。

私が八歳の時、私の母は再婚した。兄は新しい父が連れて来た。
すでに中学生だったこの年の離れた兄が、私は怖くて堪らなかった。
『よろしく』
ぎゅっと握ってきた兄の手には棘が生えていた。体の芯まで痺れる痛みに、私は反射的に手を引っ込めた。もちろん本物の棘が生えている訳ではないのだが、見えない棘の痛みはひりひりと、何時までも引かなかった。
『恥ずかしがり屋さんなんだね』
と兄はにこにこ笑っていた。しかし、その柔和な笑顔の中で、瞳だけは笑っていなかった。瞳の奥は、底知れない闇が巣食っていた。多分私だけがその事に気が付いてしまったのだ。
あれは、幾つの年だったろう。梅雨がそろそろ始まり掛けた季節だったのは覚えている。べとべとと蒸し暑い汗が身に纏わり付いて、どうしても眠り付けない夜があった。
用を足し終わって部屋に戻る途中、あの部屋に気配を感じたのだ。怖い物見たさの愚かな好奇心で、私は恐る恐る細く開いた扉から中の闇を覗いた。
いきなり何者かが私を部屋へ引きずり込んだ。私が見たのは、手に何かを掴み仁王立ちした兄だった。
『ようこそ』
そう兄は言った。
『待っていたよ』
そうも言った。
『おまえを喰らうのを待っていた』
恐ろしさに腰が抜けたように動けない私を、見据えたまま兄はゆっくり舌なめずりしてみせた。兄が握り締めていた紐は薔薇の蔓だった。棘があるのも気にせずに握り締めている為、兄の手から血が滴り落ちていた。
その薔薇の鞭をゆっくり振り上げると、兄は私に向かって力任せに振り下ろした。一回・二回・三回…私は、七回まで覚えている。意識が遠のいて行く私が見たのは、恐ろしい程空洞の兄の眼だった。
体の痛みに目を醒ますと、私はベッドに横たわっていた。心配そうに顔を覗き込む母は口を閉ざして何も語らなかった。

高校を出ると共に家も出た私は、それ以来あの家に帰っていない。
今も、夜になると声がするのだ。
『待っているよ』
と。

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