窓から飛び込んできたのはおそらく女だった。
私が暮らしている塩の塔は、この大陸で最も天に近い位置にある。圧縮され、錬鉄以上の硬度に凝固した塩塊を切り出して建立された白亜の尖塔は四方を断崖に囲まれ、灰色とも紫ともつかぬ雲が渦巻く天空に向かってそびえ立っている。雲の合間からは時折光明が注ぎ、塔はその表面を目映く輝かせる。
もとよりこのような場所にあったのではない。大陸の中央に広がる平原、その中心に位置する王都の四方を守る一柱。それがこの尖塔だったのだ。
だが、度重なる地震と、霊峰と謳われていた高山の噴火により、大地はその姿を変えた。紅を引いた女の顔にもとの面影が残らぬに等しいくらい、変わった。騙された。そう口に出してしまうくらいの変貌であった。女の話ではない。大陸の話である。
速度は、棲人が対処するよりも早かった。三日おきに地震または噴火が引き起こされ、二巡りが経過する頃には、人々は復興よりも逃亡を選択した。当然だろう。私だってそうする。そうしたかった。
そうもいかないのは土地を統治し、棲人を守る立場にある者たちだ。そして私もささやかながら、そちらの区分に入っていた。入ってしまっていた。
彼らは彼らなりに手は尽くしたようだが、まあ、何というか大地の暴威には敵わず。今ではおそらくほぼ全員が、暴れ狂った大地と一体化していることだろう。人柱という、大地の怒りを鎮めるために人を地面に埋める風習がこの地にあったと、古の文献に記載されていたのを今更ながらに思い出す。そういえばここ最近は地震も噴火も起きていない。実際的な意味と比喩的な意味の両方で大地の礎となれたのであれば、彼らも本望なのではあるまいか。できればそれを本望と思わぬ者まで巻き込まないで欲しかったが。
それでまあ、なぜかこの塔だけが被害を免れた。見事に免れた。これも私の日頃の行いの賜物だろう。私だけが見事に生き残った。これも私の日頃の行いの賜物だろう、とは思うのだが、今の状況を鑑みるにつけ、これはもしかすると都の者たちを救助すると皆が出かける際に腹が痛いと仮病を使って引き籠もっていた私に対する懲罰なのではないかと思わないでもない。
私がこの塔で一人になって十五巡りほどになるだろうか。数えたわけではないので、もしかしたらもう少し時を経ているかもしれない。もともとは綺麗に清掃整頓されていた塔の内部だが、今ではそう、結構散らかっている。かなり、散らかっている。うん。そんな程度だ。下働きの者たちがいないのでそうなるのだ。もちろん私が下働きどものような仕事をするわけはないので当然だ。ただそれではさすがに不便なので、仕方なく手近に転がっていた死体に防腐処理を施して召使いにしたり、塔の内外を這い回る甲殻虫どもを操って物資探索係にしたりした。使ってはいけない術も幾つか使ったが、咎める者もいないからまあよかろう。それに一度試してみたかったのだ。
そんな形で自活しながら、私はこの塔で助けを待っていた。私には岩壁を降りる術がないし、窓から外を覗けば、翼獣や巨大甲殻虫が回遊しているのが目に入る。さすがにあれは手に負えない。
ここまでになる前には助けを求める機会もあったはずなのだが、おそらく、この地がもともと海であったことも知らぬ無知蒙昧の輩の手を借りることを、私のこの卓越した頭脳が拒否したのではなかったかと思う。今では反省している。済んでしまったことは仕様がない。これからどうするかが肝要なのだ。
女らしき物体が窓から飛び込んできたのは、その窓際で私がここから脱出する方策を思案しているときだった。
窓から飛来した物体は私の顔面に肘打ち、腹部に膝蹴りを同時に叩き込んでから部屋の中に転がり込んだ。私は叩き込まれたと感じた次の瞬間に鼻血のアーチを架けて部屋の隅に倒れ込んだ。
頭の上で過去に床を共にした女たちが手招いたが、何とか意識は保った。上半身を起こして物体を見た。
肩の辺りまでの、まったく手入れされていないブルネット。顔は何のものかわからない汚れで真っ黒で、どうやら笑っているのか覗く歯だけが白い。銅環繋ぎの胴当てに、おそらく空豹のものであると思われる籠手と臑当て付きの長靴を履いている。腰には使い込まれたと見られる山刀、右肩には背丈の半分ほどの長弓と矢筒、左肩には縄が架かっている。
「ご機嫌よう、臆病者(ワイズラッカー)」
声と、胴当ての胸部を大きく押し上げている盛り上がりで女だとわかった。が、わかったところで、状況が、よくわからなかった。
何か言おうと顎を上下だけさせていると。
「どうした? 久々の再開で驚いて声も出ないかい? それとも……アンタはもう、忘れちまったのかい? ま、噂を聞く限りじゃそうかもね。いったい何ヤれば、アレだけ評判悪くなるのさアンタ」
何をって、ナニを、と返そうとしたが声が出ない。鼻血で鼻が詰まって呼気が上手く取り込めないのだ。どうやらこの女、私のことを知っているらしい。いつだ。いつ出会った。先ほど浮かんだ女どもの顔を並べてみたが、こんな女は知らない。顔だけの問題じゃない。声音、言葉遣い。態度。すべてにおいて該当する情報がない。
女が近付いてきた。臭気が酷い。どれほどの間湯浴みをしていないのだ、この女。
髪が掴まれ、顔を上に向けさせられる。女が首の後ろを強く掴むと、鼻血が止まった。
「さて、そろそろ喋れるようになったかい、坊や」
「お前は……いったい誰だ。ここに何をしにきた」
「助けに来てやったに決まっているじゃないか。待っていたんだろ? ワイズラッカー」
髪の毛が解放される。女が立ち上がった。
「村を出たときのことを思いだしな。アンタが今みたいな、馬鹿げた生活をする前の、昔々のお話だ」
その言葉で思い当たった。
もう十数年前になる。土地の半分が水に沈み、畑の不作も重なっていた私の村は、人減らしを兼ねて村の外への出稼ぎを思案していた。
大人たちに混じって一人の少年と一人の少女が、対象として選ばれた。少年は街の学習院で優秀な成績を修めており、導師から士官の誘いがあった。少女は遠当ての大会で、最も優れたものに下賜される梟熊の毛皮二十枚を持ち帰った。ただし、男として。
アタシとアンタで、偉くなってこの村を助けるんだ。兵士に手を引かれて村を去る直前、少女は少年に告げた。少年の手を自らの両手で包みながら、告げた。
言葉を胸に秘めて、少年は励んだ。数年で、王宮への仕官が叶った。
そこには、今までとはまったく違う世界が広がっていた。青年になった少年は、初めて目にした数多の光りに溺れた。胸に仕舞い込んでいた大切なはずの言葉が、日を経るごとに薄れ、細かく、小さくなり、ついには霧散した。
だから、忘れていたのだ。
「……オセロット?」
女が笑みを浮かべた。
「ご名答。褒美をやるよ」
衝撃があった。女が頬を張ったのだ。が、鍛え上げられた肉体の一撃は大男のそれに等しい。私は壁に叩きつけられ、再び塩の床に伸びた。
「村のことはいい。アタシが勝手にした約束さ。忘れちまったなら仕方がない。だけどな」
オセロットの長靴が不気味に響く。
「アンタの根性が歪んじまったことは、許せない」
地面に転がった球を蹴り上げるように。私の身体は比喩でなく宙に浮いた。一瞬の浮遊感。それから床に叩きつけられた。
腹の上にオセロットの脚が乗る。無理矢理呼気が吐き出さされた。
仰向けの眼前に彼女の凶悪な相貌が迫る。金属音が響いたかと思うと、その右手に研ぎ澄まされた山刀が握られていた。
「村にいた頃と比べる方がおかしいかい? ああそうかもしれないね。けど、それがアタシの知ってるアンタだ。そして、アンタはそんなヤツじゃなかった。少なくとも、自分さえよければ他はどうでもいい、なんて思うようなヤツじゃなかったさ」
「……お前に、何がわかる」
「わかるさ。街の噂と。今ここでアンタがこういう状況になって。誰一人助けに来てくれるヤツがいない。それだけで、充分わかるさ。アンタは確かに頑張ったよ。けど、成功したことで満足しちまって、そこから先に何も積み上げてこなかった。それがこの結果だ」
顔を背ける。目の前に傷だらけの山刀が突き立った。
「逃げるなよ。世界は変わった。今までの世界は、終わっちまったんだ。よきに付け、悪しきにつけな。今まで通りにはいかない。だけどな。こいつは、アンタにとっちゃいい機会だ」
顎に冷たい手が添えられる。
「今決めな。ここで死ぬか。もう一度ここから、積み上げていくか。積み上げていくなら、手伝ってやる。アタシは、そのために来た。アンタの最初の石になるために、来た」
「……助けて、ください」
自然と、言葉が洩れていた。胸の裡に築かれていた城塞が、足下から崩れ去っていく。後には、たった一つの石ころ。
「いい選択だ」
衣の首が引っ張られる。足下がふらつくが、何とか立てないことはなかった。
オセロットは窓際まで行くと、弓と縄を外した。部屋に据え付けられてある寝台に縄の端を手早く括り付けると、もう片方に大振りの矢を結びはじめた。鏃には過剰なまでの返しが付けられている。
弓を構え、矢をつがえる。一瞬の静止。
風切り音と共に放たれた。蜷局を巻いていた縄が引き延ばされ、多少の弛みを残して張っている。
「まさか」
「気付くのが遅い。気付いたとこで、逃がさないけどね」
腰を抱きかかえられた。脚が床から離れる。
オセロットは、窓から半身乗り出した。眼下の断崖。行く先の霞んで見えない一本の縄。思わず目を閉じたら、殴られた。
「しっかり開けときな。感じさせてやるよ」
目を開けると精悍な彼女の横顔。こんな女でも、紅を引かせれば変わるのだろうか。ちょっと見てみたい。そう思った。
二つの身体が宙を舞った。
(C)Chabayashi Shouichi 2009.