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暮らしの中で  差別と迷信


以下の記事は、1998年7月31日から佐賀新聞に連載されたものです。

  
 根拠のないものに縛られ

 六曜 手帳からの削除

 県労働金庫が顧客の会員や職員に配っている手帳とカレンダーの本年版から、ある一つの表記が消えた。日付と曜日の下に添えられた、たった二文字のことだから、気づかなかった人も多いかもしれない。だが、この二文字を削除するのに足かけ四、五年かかった。 先勝、友引、先負、大安、赤口−。結婚や葬儀などの日取り決定の際に使われる「六曜」である。 削除のきっかけは労金労組が加盟する全国一般労組の組合員で、人権運動にかかわる佐賀市の小林成利さん(58)の問いかけだった。

 友引の火に葬儀をすれば無くなった人が“友を引いていく”ので、葬儀は避ける。仏滅は“仏さんが滅んでしまう”縁起の悪い日だから結婚式はしない‥。そんな六曜迷信に起因する習わしに対し、小林さんは「根拠のないものに束縛され、友引に葬儀を出したりすると、人間関係にも影響を受ける。何より、意味も考えず迷信を受け入れてしまうことが、いわれのないさまざまな差別を温存させる土壌となっている」。弊害を説き、削除を求めた。

 古代暦が変質

 そもそも六曜とは何か。原型は古代中国の暦注の一種で、中国では早い時期に姿を消したが、鎌倉時代末期から室町時代にかけて、日本に伝来。変質した形で江戸時代以降、広まった。

 元来、仏滅という字句もなく、「空亡」と表記されていた。それが、独自の暦を売りだそうとした暦法家によって、あたかも釈迦の入滅(死)との関係や宗教的意味があるかのような表現に変えられたという。

 文明開化を推進した明治政府にとって当然、否定すべき対象となった。太陰暦から太陽暦に変更した明治五(1872)年、六曜など「日の吉凶」に関する暦を「人知ノ開達ヲ妨クルモノ」と、使用を禁止した。

 だが、110余年たっても六曜迷信は生き続ける。

 労金内部でも賛否両論があった。「そこまで目くじら立てなくても」「外したら顧客から苦情が出る」‥。削除した今も、考えが統一しているわけではない。

 葬儀は友引を避け

 六曜意識を探るデータがある。佐賀市営つくし斎場の使用状況だ。九七年度の使用件数1971件のうち、友引の日は8%弱の156件。これに対し、友引の翌日にあたる先負の日は449件と、3倍近い。友引を避ける意識がくっきり浮かび上がる。

 しかも火葬は身内だけで済ませたり、葬儀の前日にするケースもある。参列者が集まる葬儀そのものは、もっと少ないはずという。

小林さんは労金での内部提起に先立ち、92年5、県民手帳から六曜削除を県に申し入れた。福岡県では既に75年版から削除していたこともあり、翌93年、予想外ともいえる早い対応だった。だが、小林さんには後悔に似た思いが残る。広く県民を交えた論議に至らなかったことだ。

 「六曜イコール差別というわけではなく、また単に外すだけでは意味がない。迷信と差別の因果関係を考え、生活意識を変えていくきっかけにしたかった」。

 そんな提起を受けて、佐賀新聞でも紙面からの六曜削除の論議を続けている。

  ◇ ◇

 「迷信の中には現在の科学知識から見て不合理なものが多いが、そのうちでも社会的に甚だしい実害を及ぼすものを迷信と呼ぶ」ー。『民族学事典』(柳田国男監修)は迷信をこう定義するが、そうした暮らしの中の迷信を人権の視点から見直す動きが出ている。一日から始まる「同和問題啓発強調月間」に合わせ、再考する。




  
死をケガレとする意識

 仏教の教えにはない
  
  「テレビニュースのタイトルが『葬儀に異変』、なんですよ。長い歴史の中で仏の教えから外れてしまった葬儀を、本来の姿に戻そうとしているわけですが、世間の目には逆に、異様に見えるのでしょうねぇ」

 三重県の四日市仏教会(6宗派195寺)が5月の総会で「清め塩」と友引の葬儀を避ける習慣の廃止を決議して、2ヶ月余り。全国からの問い合わせが一段落した会長の伊藤英信さん(65)は、苦笑しながら反響を振り返った。 迷信には「六曜」のように、葬儀にまつわるものが多い。死への恐れが関連していると考えられるが、清め塩も、その一つである。 葬儀に参列すると、会葬御礼に添えて小さな塩の包みを渡される。帰宅したら玄関に入る前に、その塩を体に振りかけるー。ごく当たり前のこととして、そうしている人も多いだろう。

 葬儀は生学ぶ場

 ところが、佛教の葬儀儀礼に本来、清め塩はない。「清めるからには“けがれ”があるわけで、とすると、それは死者しかいない。とんでもないことで、仏教は生と死を一つのものと教えている。葬儀は亡き人を通して自らの生を学ぶ場であり、死を“けがれ”とすることは、決してない」  伊藤さんは、教義に照らして清め塩廃止の理由を語り、「直前まで、父、母、友と、呼び親しんで来た人を亡くなった途端、けがれたものとするのは、何とも無残で、悲しく痛ましい行為」と嘆く。

 死にまつわる迷信は、誤った葬送文化を生むだけではない。こうしたけがれ意識は、中世以降、牛馬の処理など死にかかわる役目を担ってきた被差別部落の人々への差別意識と、重層的に根底でつながっている、とも指摘される。

 清め塩廃止の動きは各地で出始めている。葬儀社「木下」(本社・久留米市)は県内の斎場でも3年前に清め塩を廃止し、代わりにけがれ意識の誤りを説くしおりを入れている佐賀支店長の中村勝義さん(55)は「参列者の中には戸惑う人もおられるがしおりを読むと、みなさん納得されている」と話す。

 根強い抵抗感

 浄土真宗本願寺派の住職約48人でつくる「佐賀真宗伝道懇話会」は、清め塩や友引の慣習を改めようと、門徒に提唱している。世話役の熊谷勝さん(六七)〔佐賀市〕は「若い世代を中心に、とらわれない人も増えてきた」と語る。  しかし、地域全体の意識としては「塩がないと変に思われる」「親せきがうるさい」と、抵抗感も根強い。

 四日市仏教会の廃止決議は、女性週刊誌やスポーツ紙にも取り上げられた。

 「自分に都合の悪いことを遠くへ追いやろうとしている心が、迷信を生み出している。今回の決議が、そうした意識を見直すきっかけになればいい」。伊藤さんは反響に手ごたえも感じている。


  生まれるはずの命が

 ひのえうま 生半可な知識災い

 死と生にまつわる迷信の話を続ける。死亡はもちろん、出生にも、それぞれその時代の社会情勢が大きく影響している。人口の年齢構造(97年10月時点)を下図のようなピラミッドグラフに表すと、顕著に見えてくる。50代の二つの谷間は、日中戦争の動員と敗戦前後の世情不安による出生減である。


 出生率25%減

 だが、その後の平和な時代に、ある年齢だけがぽっかり落ち込んでいる。1966(昭和41)年。いわゆる「丙午(ひのえうま)」の年で、現在、31、2歳の人が生まれた年だ。このとしの出生数は前年に比べ、25%、約46万人も少ない136人。県内でも約3200人、22%減少している。

 丙午年まれの女は気性が激しく、男を食い殺す」などという迷信ゆえに、妊娠を避けた。だが、それだけではない。生まれるべき子どもたちが生まれてこなかった。

 戦争は不幸ながら、現実の出来事である。。しかし、丙午には実体はない。迷信は「社会的に甚だしい実害を与えるもの」と規定されるが、その最たるものに丙午が挙げられるゆえんだ。丙午とはそもそも中国の記号法の「十干」と「十二支」を組み合わせた年号の一つで、60年ごとに巡ってくる。これに、丙と午も「火気」に当たるという中国の万物組成論「五行説」が結びついて、「丙午の女は:」と、女性を差別する迷信に発展していった。

 佐賀市で産婦人科を開く上野茂男さん(72)は、32年前、偏見に耐えられず、わが子を中絶した女性のことを覚えている。「年寄りや親せきから『丙午の子を生んで女やったどうするね』『何で無理して生まないかんね』と責められ、精神的に追いつめらていった。迷信だからと説得してもだめでした」

 次の丙午は28年後の2026年。その時、同じ悲劇が繰り返されないと言えるだろうか。

 昭和で拡大

 気になるデータがある。前々回の丙午は1906(明治39)年だったが、この年の出生数の減少率は4%足らずなのである。それが前回66年には、20ポイントも上昇している。

 文化も教育もずっと進歩したはずの昭和のほうが、丙午迷信の影響が広がったことになる。

 一つには、医療の発達で人工中絶がしやすくなったことがあるだろう。だが、それだけではないという。

 東京・国立教育研究所名誉研究員で、迷信などの認識論を研究する板倉聖宣さん(68)は、進展した情報網の逆作用を指摘する。

 「明治期にはなかった女性刊誌などが、肯定的でないにしろ、丙午迷信の存在を伝え、それを多くの人が気にするようになった。迷信や偏見は無知だからとらわれるというより、なまはんかな知識を持ったためにとらわれやすい」。

 次代への警句である。



 
伝統の下にに排除

 女人禁制 根底に不浄観と家長制度

 男女平等をうたった憲法施行から50周年を迎えた1996年、県内の女性団体が女性ゆえに受けた差別体験を募り、証言集にまとめた。
 その中に、慣習やしきたりに関するものが幾つかある。たとえば「お宮の行事に女の子は参加できない」「お宮の神殿には女性は入れない」。次のような体験もあった


 縁起が悪い

 正月、隣組の同姓の家の年賀状が間違って配達されたので届けようとしたら、「元日に女がよその家行くもんじゃない。年の初めに女が最初に入ってくると、縁起が悪い」父親からとがめられたそうだ。 今でも、正月のしきたりとする地区があるという。大阪人権博物館(大阪市浪速区)の資料展示委員で『女人禁制』(解放出版社)などの著作がある木津譲さん(65)は、これに興味を示す。「正月や月の初めは、区切りの始まりとしてゲンを担ぐことがあるが、その話の根底には女性に対する“けがれ意識”がある」といい、「典型的な女性排除の迷信」と見る。

 けがれは「清め塩」で触れたが、死に接することで「死穢(しえ)」が生じるのと同様、血からは「血穢」が生まれると考えられた。
 それが、出産や月経など血にまつわる女性への忌避感となり、男性を優位とする家父長制と相まって、特定の場所や行事から、女性を閉め出す女人禁制が定着していったとされる。」

 解放めぐり紛糾

 明治政府は迷信打破キャンペーンの一環で、神社仏閣の女人禁制を廃止した。だが時折、マスコミをにぎわすように、工事や祭り、修行の場で残っている。
 代表格が、修験道の山として知られる奈良県吉野郡の「大峰山」である。開山以来1300年にわたって女性の入山を拒んでいる。
 日本で初めての人権博物館として開館した大阪人権博物館は、大峰山の「女人結界石」を現物大で展示している。「日本社会の差別を支えてきた意識の一つに、けがれ観がある」とする木津さんの発案だ。

 その大峰山が昨年秋以降揺れている。5ヶ寺で構成する護持院が「時代の流れ」として、修験道の開祖役行者(えんのぎょうじゃ)の1300回忌に当たる2000年の大祭からの「解禁」に動き出した。

 ところが、これに信徒らが「伝統を守るべき」と反発。紛糾する騒ぎとなった

 護持院の一つ、桜本坊の67代住職巽良仁さん(38)は「けがれや差別ではなく、険しい山中で一心に修行に打ち込むため、男性のみというのが長い伝統になってきた」と話す。

 協議を継続しているためだろう、巽さんは慎重な口調だが、木津さんは論議が始まったことを歓迎する。

 「宗教的なことだから、と言って、物事の本質を考えずに、あいまいにしてこなかったか。伝統には残していくべき伝統と、そうでない伝統があることを考えてほしい」

 大祭まであと二年だ。



  不幸、不運と結び付け

 たたり

 いつの時代も社会は新たな迷信を生んできた。「例えば、三人で写真を撮ると真ん中の人は早死にするという話とか」と。 唐津市在住の民俗学研究者で大学講師の田中丸勝彦さん(52)。

 これは、亡くなった人の棺おけを前後の人が挟んで担ぐことからきているともいわれるが、写真機が普及する前には、当然、なかった迷信だ。

 迷信や俗信には発生と普及のメカニズムがある。

 一つの方程式

 田中丸さんは霊と供養の観点から「岸岳末孫(きしだけばっそん)を研究テーマとするが、その中に発生の一つの方程式を見てとる。

 岸岳末孫とは、唐津市や東松浦郡一帯で今も恐れをもって語られる「たたり(祟り)神」信仰で、戦国時代末期、豊臣秀吉によって汚名を着せられたまま非業の最期を遂げたという波多氏一族の滅亡に起因する。

 「戦後、山で農作業をしていた父親が突然、原因不明の高熱を出した。何日も熱が引かず、祈とう師に見せたら『バッソンサンの墓をむげにあつかったたたり』と言われ、地蔵を立てて祭ったら、治った」。唐津市生まれの男性(六八)の話だ。

 田畑や山林には、落ち武者となった家臣の墓とされる五輪塔が点在し、身体的な災いや事故があったとき、先のように関連づけて語られ、「迷信では片づけられない(先述男性)と、畏怖(いふ)の念は強い。

 ところが、そんなたたりの中に、近年、新たに生まれたものがあるという。

 唐津市内の住宅地に四十数年前、小さな「明神さん」があった。当時はだれも気にとめなかったが、昭和三十年代、近くの子どもが病気になった。しかし、遊びたい盛りで、外に出た時、この明神さんの前で倒れ数日後に他界した。

 以来、近所で体の不調を訴える人が続き、だれからともなく「バッソンサンのたたりでは‥」と噂が立った。それが間もなく、「実はバッソンサンだった」と断定に変わった。 このように、何のために建てられたのか分からなくなった石造物と落人の伝承を結び付け、「バッソンサン」に仕立て上げたものも少なくないというのである。

 「罪も害もない」

 そこには、原因が判然としない不幸や不運に見舞われたとき、何らかの因果関係を求める人々の心理と、そんな不安を取り込んで信じられやすい形で因果を説く民間宗教が介在する。

 田中丸さんは「俗信に御霊信仰と先祖崇拝がむすびついたバッソンサン自体には罪も害もない」としつつ、「他人に何かを強いたり、及ぼしたりしたら、迷信になる」とも。

 「町有地を払い下げようとしたら、庭に草に埋もれた石塔があった。これは具合が悪いということで、近くに町有地を確保して祭った」。ある役場で聞いた、つい十数年前の話だ。今でも、土地の売買や公共事業の際、同様の話が持ち上がるという。



 幽霊話まことしやかに

 
学校の怪談

 昨年10月、県内のある高校で無縁仏の供養があった。放課後近くの寺に校長や教職員が集まり、墓地の一角に葬った無縁仏に、一人ひとり手を合わせた。 数十年前から続く恒例行事で、新任の教職員向けか「無縁仏供養の由来」と題した一枚のコピーが配られた。三つの説があり、一つにはこう書かれていた。

 《昔、図書館建設のため敷地を整地したところ、多くの墓石が出てきた。完成後、図書館担当の教師が次々と病気になったり、思いがけない事故に遭った。たたりだろうと、墓石を寺に移し、手厚く弔ったら、その後、何事もなくなった》

 学校側は「年に一回、先人を悼み、併せて生徒や教職員の無事を祈っているだけ。今はたたりなどとは、一切無関係」と語った。

 校内でお祓い

 ところがその一方で、半年前の3月、校内でお祓い(はらい)をしたことも。通用門周辺で幽霊を見たという生徒が相次いだためだ。

 部活帰りの生徒は「(墓石に立つ)建物の上を歩く人影を見た」と真顔で語り、別の生徒は「授業中、先生が『廊下をだれかが歩いている』と言うので、見てみたらだれもいなかった。みんな気味悪がって、幽霊だとうわさになった」。

 映画や本が子どもたちの間でヒットを続ける『学校の怪談』めいた話だが、学校自らが災厄よけに乗り出したため、幽霊話はまことしやかに学校中に広がっていった。

 ベネッセ教育研究所(岡山市)は、昨年春、全国の高校生約2200人に、生と死や、心霊現象などの超現実世界への感覚を尋ねた。

 その結果、超現実世界については、「神秘体験や心霊現象はある」が53%、「血液型や星座などの占いが気になる」が54%、「たたりで悪いことが起きると思う」も40%に上がった。

 死についても「人間は死んだ後も、心は残っている」が48%で、「人の寿命は運命によって決められている」が47%で、「自分は前世の生まれ変わりだ」と信じる生徒も29%いた。

 社会の情報・科学化が進む中で、逆に、非合理的な超現実世界に傾斜する若者の心理が浮かび上がる。

 見分ける目

 仏教者の立場から迷信と差別の問題に取り組む福岡県若宮町の住職狩野俊猷さん(61)は「広い敷地からは無縁仏が出てもおかしくないことで、思考を練り上げないまま、たたりなどと結び付け、お祓いでふたをしてしまってはいけない。根拠のないものを見分ける確かな目を育てるのが教育のはず」といい、「たたりや幽霊話をたやすく受け入れる土の上には、妙なものがはびこってしまう」と話す。

 先の高校では今年一学期、「幽霊」の出所を調べた。その結果、校内外の関係者数人の「冗談めいた怪談話」が発端だったことが判明。注意を促すとともに、無縁仏供養についても、今後、10年ごとの開校式典の物故者慰霊と一緒に行う方向で検討を始めた。



 誤った「部落説」うのみ

 
慣習への無自覚が土壌

 差別の観点から、迷信とそれを信じる意識構造を再考してきた。最後に『「六曜」・迷信と部落差別』(福岡部落史研究会・94年刊)の共著者で、約20年前から迷信と差別の問題を提起してきた羽江忠彦・熊本学園大学教授の話を聞いた。

 丙午の差別性はわかりやすいが、六曜と差別の関連は見えづらい。 「まず部落差別の特徴を頭に置いてほしい。“しるし”という言葉を使うが、女性差別や黒人差別には、性や肌という目に見えるしるしがある。部落差別もかつては身分制度によって身分が判断できるしるしがあったが、『身分解放令』によってなくなった。地域改善事業も不可視化を進めた。しかし、依然として、部落差別は続いている。

 それはなぜか。『部落の人は人種が違う』、あるいは『けがれているから』などという、誤った伝聞をうのみにし、『昔から、みんなが、そうしてきた』からと、身元調査し、縁を持たないようにする。このように、部落差別には『慣習としての差別』の側面があり、『友引は友を引くから』と、無自覚に従う意識がその土壌となっている。
慣習は地域の文化で、なくなるとギスギスしてくるという声も聞く。「慣習全般を否定しているわけではない。社会生活のためには必要なものだ。

 だがその中に、人と人を結びつけるのではなく、人と人を切り離し、排除するものがある。慣習が逆に人間関係を阻害しているわけで、そんなものは社会の進歩に応じて変えていくべきだ」

 しかし、おかしいとは思っても世間体があり、臆(おく)してしまう。

 「その世間体こそが私たちの生活や行動を縛ってきた最大の習わしだ。物事の本質を考えようとせず、差別する慣習を、世間体を根拠に現在に至っている。

 広島県能美町では十五年前、部落差別をなくす運動として、日常生活の中の慣習や迷信の見直しを始めた。それが生活とともに意識を変え、差別を許さない文化、つまり、新しいしきたりとして根付き始めている。行政がきっかけをつくれば、住民も世間体を気にせず一歩を踏み出せる」

 身近なところからできることが見えてきたようだ。

 「各地の住民意識調査を見ても『部落差別はいけないことだから(私は)しない』という意識は浸透している。しかし差別はなくなっていない。だとすると、差別を『しない』だけては不十分で、『なくす』という段階まで進まなくてはいけないということになる。

 だが、そこで多くの人が『部落に生まれていない自分たちがどうすればいいのか』と自問し立ち止まっている。その答えの一つが先の能美町の取り組みであり、習わしやしきたりを見直すことが、『しない』と『なくす』の間にある格差を埋めることになる。

 「反差別の共同運動」がいわれている。

 「部落差別をなくすということは、だれのものでもない、みんなの人権を守るということだ。それぞれ置かれた立場は違うが、被差別の人々が差別に怒り、立ち上がったように、差別する側にある人も、理不尽なものに行動を起こしていく。互いに手を携え、両側から超えていく営みが求められている。それが少しずつうねりになってきていると感じる」

  おわり
       佐賀新聞社  吉木正彦担当