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連続講座
第3回 2002.3.15     講師:(財)西成労働福祉センター 住田一郎さん
出会い・伝え・つながるために

たたずみ・固まり、排除市合う関係が、日常の差別意識を支えている。
自分を語る事に躊躇するのは、判り合えない現実に出会ってきたから?
少しずつ解きほぐし、つながりあえる糸口を見つけだすために・・・。
 被差別の側が持っている意識の有り様を、その生活実態から明らかにする中で「差別されるかもわからないというあらかじめの不安」についての共通理解を得る。

 今日は30分くらいの問題提起をさせていただいて、その後に皆さんからいろんな意見をお聞きしながら、対話を進めたいと思います。

 過去2回、いろんなお話を聞かせていただきました。特に被差別部落について、私が住む大阪の住吉という大都市における部落差別のありようと、農村部の小規模な被差別部落を取り巻く部落差別のありようとは、たぶん違うんだと思います。そういうことを、また後の議論の中でお聞かせ願えたらありがたいです。

 今日は、前回の私の話の流れにも関わるんですが、全解連(全国部落解放連合会)という組織が来年に水平社創立80周年を迎え、また特措法(同和対策事業特別措置法)が切れるという状況を踏まえて、新しい名称に変更しようという動きがあります。これに関して、今日お配りした『部落差別のありよう・形態』というひとつの図式があります。これが、そのまま部落差別問題のすべてなのかどうか、まだ十分深めていない部分もあると思うのですが。しかし、私は非常によくまとまっていると思いますので、これを持って来ました。

 これは、東京都立大学の峰岸さんが作った図式です。実は、部落差別問題には<格差>の部分と、もう1つは壁、<障壁>の部分、この2つがあるんだと、峰岸さんだけではなく部落問題について多くの人達が考えている事実ですね。

 主に、この<格差>の部分は、ある意味では対策事業によって溝が埋められ、<格差>そのものはなくなってきたということがはっきりしていると思います。それと同時に、昔からのいろいろな因習であるとか、それこそ穢れであるとか、そんな意識も含めてですが、<障壁>の部分が実際に存在してきたことも事実ですし、これはもう100年、200年、それ以上の年月続いてきて、それなりの重みをもっているわけですね。

 この<障壁>が、一体どれだけ改善されてきたのかということも、部落問題の解決を考えるうえで非常に重要な分野、要素だと思うんですね。

 ところが、この<格差>というのは、いわゆる実態的差別と言われる部分で、<障壁>というのは心理的差別。実態的差別がほぼ解決すれば、その心理的な部分も解決に近づくだろうというのが基本的な展望だったんですね。だから、全解連も含めてこれまでの解放運動は、ほとんど実態的差別を解決するためにハード面の改善に力を注いできました。

 33年経って、振り返ってみると、<格差>の部分の解決が確かに見通せるようになりましたが、人と人との関係というか、<障壁>の部分はどうなるかというと、まだ皆さんの実感としても「やはり部落差別というのは、いわゆる貧困の問題に起因する部分は何とか解決したにしても、自由な交流という面では非常に溝が深いのではないか」と、たぶんお考えではないでしょうか。

 峰岸さんは全解連と同じ歩調を取っている方なんですが、それでも<格差>と<障壁>を分けた考え方を持っておられます。が、全解連のひとたちは、そういう問題はほぼ解決したと。特に部落差別の問題は、はっきり<格差>の問題だと。この<格差>が無くなれば、たぶん部落差別はなくなるだろうと言っています。

 私たちとちょっと違うのが、彼はその<格差>の部分がなくなりつつあるとするなら、やはり、若干の歪みがあったとしても、言葉は適切でないかもしれませんが、それは許容範囲だと。この世の中で、例えば100パーセント無菌状態になることは無いんだと言っています。若干の差別的な矛盾があったとしても、それは「それがあるから部落差別が無くなっていない」なんてことは言えないという立場を取るみたいです。

 そういう意味で、「<格差>が大きくなくなってきたわけだから、もう部落問題を主にするような運動は必要ではない、自分たちが掲げている、この全国部落解放連合という名前だって実状に合わないのではないか」と、今年の大会で彼らは次のように提案しています。「私たちは、今後2年以内に名称を『地域人権連合(仮称)』として、全国組織として立ち上げます」と明記しています。

 それは尻尾を巻くということではなくて、彼らなりの「部落問題は大きく解決に近づいている。あるいは、してきた」というひとつの状況認識だと思います。このことについては、もう少し議論される必要があると思いますが。

 確か、1984年だったと思います。非常に早い時期から「部落問題を解決するための四つの指標」について全解連は提起しています。

 1つは、例えば部落差別というような古い考え方が、地域社会で基本的には受け入れられないようになること。そんなことを思っている人がいたとしても、周りから「それはおかしいやないか。そんなことは許されないよ」というようなことを、部落の人も部落外の人も含めて声が上がる、そういう状況。

 2つ目は、いわゆる貧困であるとか、まあ<格差>の問題が解決すること。

 3つ目は、実は、彼らが具体的に一体何を明確にしようとしているのか、私自身も未だに分からないんですが、それ自体は非常に重要な指摘をしていたんです。どんな指摘かと言えば、「部落の我々は、長い間部落差別を受けることによって、結果的に非常に遅れた意識を持っている部分もある。遅れた生活をしている。考え方も非常にいびつになっている部分もある。そういう意味では、その遅れた部分が我々の生活の中にも色濃くあるわけだから、そのことを解決することが必要だ」と言っているんですね。

 この点については、解放同盟がほとんど言っていない中身ですから、84年の段階で彼らが提起していることを、私は高く評価しています。

 しかし、この点について、「実際はどういうことなんですか」と聞いても、具体的な中身が出ないんですよ。「どういうことが弱さなのか。内面的な弱さとは一体どういうことなんですか」と聞いても、答えが返ってこないのですね。指摘はしているんですが、具体的な内容が明らかのされない。

 「<格差>が是正されたとして、必然的にその部分も解決したと言えるのかどうか」ということに関しても論及が無いですね。だから、結局、彼らの言っている一番簡単な、「<格差>がなくなる」ということが、決定的な考え方みたいです。
だから、「部落差別はまったくないとは言いませんが、それくらいのことは社会の中の矛盾として許容範囲だということを言っている」ということです。

 実は、この点から今日の話に入っていきたいと考えたのは、これを見てもらったら大体状況が分かっていただけると思います。<格差>の部分に関しては目に見える差別ですから、水利権とか、入会権とか、いわゆる市民的権利を被差別部落民が享受できなかったということは大分解決しつつあります。過去その権利を要求して争った二つの裁判でも当然勝っています。ただ、職業構成、産業構成も、公務員労働であるとか、一般の企業の中にも就労しているように、大きく変わってきています。

 それで、農地の所有規模も戦前とは違いますから、小作ばっかりということではなくて、狭い範囲の農地だとは思いますが、それでも、それなりの土地を自作しているという状況ですね。

 失業率も昔は非常に高く、今もまた非常に高いんですが、運動の高揚期には解決しました。それから、住宅、衣食などに関しても非常に良くなった。生活保護世帯についても、数としてはそんなに減っていないわけですが、その中身を見ると、実は、独居老人が多く、全体としては子育て真最中の人達の保護率は下がっていると言えると思います。それから、前も言いましたように、道路、下水道、公共施設、これら立地条件のことがいろいろ問題にもなりましたね。「なんで、お前のところばっかり良くなるねん」というようなことですが、住環境は大きく改善されています。それから、疾病。特に、部落の中で大都市に多かったんですが、いわゆる成人病の罹患率が、非常に高かった。

 教育に関しても、就学率、学力も含めて、全体としてはこの間に大きな成果があった。問題は、子どもたちの生活態度という部分ですが、これは指標としては非常につかみにくい。ただ、特に子どもたちの生活のこと、例えば学力の問題なら、学力を伸ばすための環境についても、一定進んだという状況もあるということ。



 特に、この<格差>の部分に関しては、この改善事業、特措法の中で解決に向かいつつあるということは言えると思います。


 問題は、<障壁>の部分ですね。特に、いまも結婚の問題が大きな尺度だと思います。しかし、若い人達の間では10組のうち8組近いカップルがそれなりに解決しつつあるという状況です。お年寄りになるにつれて、部落の人達同士の結婚しかなかった。そういう意味では、やはり時代が進むにつれて、一定程度改善に向かって前進しているということは言えると思います。

 居住地についても、従来のような形で、部落の人がここに住んでいたら困るというような意識があったとしても、それを拒否するということは実際には出来ませんから、そういう意味では、まあ解決していると。

 ただ、私は部落の人達が、部落外の人に対して与えているイメージ、これは非常に強力ではないかと考えています。だから、部落差別が非常に陰湿でどうのこうのと言う気は、私自身には無いんですが、ただ事実として、そのことはそのこととしてふまえておく必要はあると思います。

 この図式では、多くは排除という形で書いています。火を同じくしないとか、食器を同じくしないとかですね。事実、大正時代、昭和初期くらいはそうだっただろうと考えていらっしゃると思いますが、昭和に入って、戦後でもまだ行っていたという地域もあるんですね。家の中に立ち入ったり、部落民と一緒に入浴するとかは、忌み嫌われる。まあ、今は無いと思いますが、神社の祭礼には部落の人達は関れなかったとか、神輿を担げなかったとかいうことがありました。

 私の友人に、愛媛県の西条の人がいます。何年か前の全同教研究大会での話ですが、あの全国的に有名な西条祭りの山車を、ようやく作りましたと。新しく作ったら1億か2億円するそうですから、古いやつを下取りして、それにいろいろな形で装飾すると2000万円くらいで出来たということでした。それまでは祭りに参加できなかったということも聞きました。

 あと、講とか寺ですね。実は、これははっきりしていないんですが、西本願寺なんかは、今はエタではないですが、昔はエタ寺という形で、摂津の本照寺ですか、そこがエタ寺の本家で、西本願寺とは系列が違うんですね。

 学校でも、明治の終わりから大正、昭和初期くらいまでの間、氷上郡からこの辺り一帯だと思いますが、部落学校、部落の子どもしか行かなかった学校がありました。これは、当時、日本の義務教育制度の中に厳然と存在していたということなんですが、奈良にも部落学校は多くありました。兵庫県でも、氷上郡とその北の朝来でもありましたね。お年寄りならそういう事実を体験しているんですね。部落の人が体験しているというだけではなくて、周りの人が体験している。部落の人はそこに行ったということを。

 そういう忌避する、避けるといった事実が持つ意味ですよね。戦後「民主主義の世の中になって、不都合がなくなった」というような意見もありますが、実は、もともと根拠も無く部落を忌避してきた人達にとって、戦後すぐ社会が変わったと言われたからといって、そんなに簡単には、すっと乗れないという問題がたぶんあったと思いますね。侮辱的な言動などもあったし。

 それから、江戸時代末期の有名な渋染一揆。服装、髪型についてのこと。ここにもたぶん波及したと思いますが、明治6年くらいの解放令反対一揆。美作から姫路、それからこの辺りも含めて非常に大きな一揆が起こっていますね。その時にも、部落が襲撃されるというようなことも実際にはあったんですね。そういうことが根っこの部分にあって、その根っこの部分が、私は絶対無くならないとは思いませんが、事実は事実としてちゃんとつかんでおく必要があると思います。

 卑賤感、穢れ、血筋などによる差別意識というのは、特に部落だけに関るんじゃなくて、日本の、ひとつの考え方の中にあるものだと思いますし、それが集約して部落の中にも使われる。

 例えば、穢れについて言えば、清め塩は元々から部落を忌み嫌うためだけにあったのかと言えば、そうじゃないと思いますね。もっと広い形での風習があって、それの1つとして部落にも使われるということだったと思います。だから、ある意味ではお葬式の時の塩を無くす努力もあると思うんですが、私は、ちょっと待ってくれと。あの塩を無くしたからといって穢れが部落と無関係になるとは思えないですね。ただ、いわゆる風習として不必要なものは、やめたらいいというだけであって、あれが敢えて部落を忌み嫌うための作法だとは思えません。

 そういう意味では、お産のあとの、後産ですか、あれは女性が忌み嫌われる原因の1つの象徴ですよね。ところが、これも日本社会の中に当たり前にある様々な穢れについて、そういう形で言っただけですからね。そういう意味では、いわゆる卑賤感とか、忌み嫌うとか、穢れるとかいう問題は、決して部落だけを対象に行われたということではなくて、日本社会にある神道というか、そういうことも含めたひとつの考え方に、やはり組み込まれている。

 それだけに、非常に難しい問題であると思いますね。例えば、部落のことだけなら、「部落のことだけでやめよう」ということも出来ると思うんですが、やはり私たちや部落外の人達の生活に根付いている、その流れの延長であるわけです。そしたら、部落差別を自分の中で克服するということは、自分の中にある穢れ意識であるとか、そういう部分を無くすということが前提ですから、従来のような、同情的な形で「部落の人達は気の毒だなあ。差別したらあかんよ」という形で克服できるような問題ではないんですね。だから、この部分はある意味で、根強く残っているんだと私自身は考えています。

 部落側から言えば、結果としてコミュニケーションが不足している。それで、閉鎖的にならざるをえないということがあります。いわゆる被差別感情、ある意味では過剰反応とも思える、懼れ(おそれ)、戦き(おののき)という問題があります。一部には、残念ながら行き過ぎた糾弾ということも無いわけではなかったわけですから、そういう部分が加味され、ミックスされた中で部落に対するひとつの意識が作られている。そのことはきっちり踏まえておく必要があると思います。

 それが、この33年間の同和対策事業、運動側から言えば80年の歴史のある運動の中で、一体どうなったのか。80年まったく一緒だとは言えないし、当然、どんどん切り崩していることは事実ですが、実際はどうなのか。

 もう1つ複雑なのは、そういう意識は、部落の我々をも支配していると思うんですね。部落の我々だって、封建的な考え方、例えば、私の地域もそうですが、団地の玄関で、その鉄の扉の横に塩を置いている人はいますからね。「なにこれ?」という感じなんですが、そういう形でとらえられている人はいるわけです。それは別に部落だから克服しているわけでもなんでもなくて、自分のその穢れ意識に気付いたら「おかしいやないか」となるんだと思いますが、普通に生活している分には同じように取り込まれています。

だから、そこを無視したらあかんと思うんですね。ある意味では我々は「部落外の人達の持っている差別意識、課題だから、あなたたちが解決するんですよ」ということをよく言っている.それも一理あるんですが、同時に自分にも返ってくるんです。自分たち自身の中にもいろいろ不合理な問題を抱え込んでいるのではないか。

 前回、参加者から「部落のことを、そんなに悪いように言わないで下さい」と言われましたが、私は別に悪いことを言っているつもりはまったく無いんです。しかし、事実として部落差別を受けるということは一体どういうことなのか、受け続けてきた中にある弱さ、その弱さは弱さとして見ないのか、見るのかということですね。

 私は、見なければだめだと思っているんですね。だから、敢えてそのことを問題にしたいと思っています。その上で「いや、そんなことは無いだろう」と自由に論議することが必要だろうと思います。だから、そういう意味で全解連がやっている、それなりの積極的なところも認めますが、彼らの主張にも今日の部落問題を取り上げる点で、やはり抜け落ちている部分があるわけですね。

障壁という部分、自由なコミュニケーションという部分では、部落外の人達が担わなければならない課題、我々自身が担わなければならない課題が、まだ数多くあると私は考えています。その点について指摘せずに『地域人権連合』を提起していいのかという疑問がありますね。

 全解連もすぐに名称変更する気はないみたいです。当初は5年計画だったんですが、今は2年くらいの形で、地域人権連合というような名称に変更しようとしていると。まあ、それに引っ掛けて、今日は部落問題の大枠というか、それを押さえたいということです。

 あと、ちょっとだけ言ってもう終わりますが、これも、私が去年の朝日新聞で、解放同盟の全国大会の基調方針が非常に不満であるということを書いたんですが、それは、先ほども言ったように、この間の変化、動きについてです。

 一体、どういうことがこの33年間で達成されてきたのかを総括していないということ、この点が一番私の中では納得しえない部分であった。同時にそれは、部落の我々にとって一体どういうことだったのかということが、やはり目が届いていないんですね。そこが非常に大きな不満でした。確かに、成果はきっちり書かれるようになっています。特に大阪の場合は2000年の調査がありますから、そのことに関する成果、課題も出されています。ただ、これは私が特異なのかもしれないのですが、「ちょっとしたずれがあるな」と思うのは、部落の我々が持っている(持たされてきた)課題についての指摘や評価がまったく無いというのはなぜなのか。

 例えば、私はカムアウトという、部落の我々を名乗るということによって部落外の人とゆっくり話せる場を持とうという、提起をずっとしてきました。この行動は、非常に重要な課題であると私自身は考えてきました。

 現に、私が提起する以前にも部落の多くの人の中には、既にやっている人だっておるわけですよ。別に裃着けてやっているわけではなく、非常に自然な形で「実は、私は部落なんだよ。こんなことがあるよ」と。例えば、逆差別とか、妬み意識のある人にも「実は、私は部落なんだよ」と話かけている、その話し合いの中で相互に理解を深めていく部分だって大きいと思うんですね。

 そういう意味では、やはり私たち自身が戦いて、それでいつも内部で小さくなっているんじゃなく、もっと打って出る。そういう意味で、カミングアウトしていくということは、私は今後の解放運動にとって大きな意味合いを持っていると思っています。

 全国大会の基調方針には、やはりそういう部分は書かれていません。でも、私はこの前の2回の学習会でも感じたんですが、今外の人達が、部落の我々に対してどんな目を持っているか。差別的な目は無いわけではないでしょうが、同時に、部落とは一体どうなっているかということを知りたいということがあると思うんです。

 「部落の人達は、あれだけ対策事業をやってもらったが、それを一体どう受け止めているのか。差別を受けてきたんやから、その代償として対策事業を受けて当然やと開き直っているのか」「いや、そうではないはずやと思っているのか」「やはり、自分の中でも、この人に対する対策は当然やけれど、こっちの人には、経済的にそんなに必要ではないんちゃう?」というような意見だってあるわけですね。そんな意見が自由に論議しえることがなければ、たぶん、部落外の人にとって、部落との垣根は、やはりそんなに低くはならないと思いますね。

 そういう意味で、今我々が何をしなければならないのかということに関して、まだ焦点が定まっていないと私は思います。

 行政闘争では、まだまだ上を向いていますから、足らないところはいっぱい言えます。しかし、実際に我々自身が対策事業の成果にもとづいて、その上にひとつひとつ何を築いていくかというところには視点が届いていない気がします。

 最後にもう1つは、私は<部落差別の結果>と言う言葉に、2通りの意味を込めているんですね。<部落差別の結果>ということをいつも言うことによって、部落の我々が自分自身を免罪してしまう。自分自身の課題を免罪してしまうという恐れがあるので、私は非常に強調しているんです。

 <部落差別の結果>と言う前に、自分たちがなさねばならないことに関してじっくり考える必要があると。もう1つ、『こぺる』の10月号に私が書いた「部落差別の結果について」というのは、それでも、私自身は部落差別の結果というのはそんなに簡単なものではないと思っているんです。だから、先ほども言ったように、何十年の間に、それこそ100年200年という間、部落差別をずっと受け続けてきて、例えば地域が閉鎖的な形に追い込まれて、その中で生活せざるを得ない、過去の関係で交流も非常に縮めこまれる、縮んでしまう、そういう状況の中で作らなければならなかった共同体が持っている限界ですね、その限界が、やはり<部落差別の結果>だと私は考えていますから、これはもっと声を大にして言う必要があると思うんです。「部落差別というのは、そんな簡単なものとは違うんだよ。我々の人間性をも、ある意味では、崩してしまうんだよ」と、私は提起し続ける必要があると思うんです。

 同時に、そのことに我々が気付いているということなんですね。自分たちは、本来そういう形でやってきたということを気付いているんだと。そのことを課題にしているんだと。だから、部落外の人と自分たちも一緒にその課題を克服しようじゃないかと。

それは、私たちの考えている課題というのは、決して部落の我々だけが持っている課題ではなくて、ひとつひとつの事象からいえば、部落外の人達にも同じ課題を持つ人たちが、いっぱいいるわけです。だから、そういう人達とも一緒の、共通課題なんですね。

 そういう形で、私は、<部落差別の結果>を2つの意味で捉えています。外に向かうことと同時に内に向かうという形で。「部落はこんなんや、こんな悪いんや、あんな悪いんや」と、先週そんな形になったみたいでちょっと恐縮していますが、それは被差別部落を決してあげつらう為に言っているんではない。そうではなく、部落差別というのは事実としてそのような弱さを部落の中に作ってしまったんだよ、作っているんだよと。その一端を我々自身も担うのですが、同時に制度としての部落差別が、やはりそういう状況を作り出したんだと。だからこの課題は、部落の我々の責任ということではなく、部落外の人とも一生に解決していくべき課題であり、必ず解決できる課題だと思います。

 あと1点は、同和教育をやっている先生方がよく使うんですが、一番しんどい子どもに寄り添うという言葉があります。これは、ある意味で全同教が大事にしてきた言葉、手法なんですが、同時に、落とし穴のある言葉だと私は考えていますが。

 一番しんどい子どもに寄り添うということは、言葉を変えると、そういう人達の実態を正しく捉えるということです。それは絶対必要なんです。しかし、正しく捉えるということと、その人達が抱えている課題を全部まるごと先生方や行政が、担う、責任を担うということとは別次元の話だと思います。

 一生懸命、行政の人達や先生方が部落の人達の課題を背負ってしまう。すると、結果的に、部落の我々は自分自身の課題を見失ってしまうということですね。自己責任の問題が曖昧になってしまう。

 同和教育実践で有名な大阪府内の学校で、そこの校長さんが大同教の会長だったんですが、大阪で開催された全同教大会の分科会で、「学校の教師は、学校に来ている間8時間子どもに関って、それで子どもが変わりきらなかったら、子どもを救えなかったら、12時間関ったらいい。12時間でも駄目なら16時間関ったらいい。それであかんかったら24時間関ったらいい」と自信たっぷりに発言した。
発言の終了とともに、会場から拍手喝さいでした。「ええ先生や、ええ先生や」と言っている。私はその時、腹が立って腹が立ってしょうがなかった。「なんちゅうことを言うねん。そんな形で、自分たち自身が負うべき責任を全部あなたに預けたつもりはない、また、預けることもできないだろう」と。

 課題は課題として指摘し、取り組みの援助をしてくれたらいいんであって、それを何もかも全部、さも自分達が出来るかのごとくやってしまう。なぜ私がそんなことを言えるかというと、私は父母の会の会長をずっとやっていましたから、大阪府下の話し合いにも数多く出席しているんですね。当然松原からも出席するのですが、松原の親たちは残念ながらほとんど出席していない。行政職員だけが出席している。親としての共通の課題をどのように克服すればいいのかを真剣に論議する場所なんですね、その会合は。出席しなければ親自身の課題と向き合うこともできず、成長することもできない。松原の親が出席しないのは必要がないからなんですね。親の課題も子ども自身の課題も手っ取り早く、教師が担ってくれるからなんですね。これでほんとうにいいのだろうかと私は良く考えさせられました。

 親は告発していたらいいだけで、「先生、これはあかんやないか、これをやらなあかんやないか、何とかやらんかい」と言えば、先生が「はい、はい」とやっている。親が気をつけなければならないことまで、先生がやってしまう。私は、これがほんとうに解放教育なのかと思いますね。

 足らない部分は当然援助しますが、重要なのは、やはり、その人がどの様な力を付けていくか、その為の援助なんですね。自分自身の力を割かなければその力は付かないにもかかわらず、その場面を全部教師が引き受けてしまっている。これでは、子どもも成長しません。親も成長しない。結局、親の課題もまったく解決しない。子どもは、「自分が勉強出来ないのは、全て部落差別の結果や」というようなことを普通に言ってしまう。自己責任の課題は曖昧になってしまう。そういう問題があるのではないかと思います。

以上です。