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「英霊」と「水子霊」 からの解放
− 自立した「個」を考えるために−
源  淳子

関西大学・立命館大学講師
関西大学人権問題研究室研究員
                                        


 このページは、関西大学 『人権問題研究室紀要』第46号(2003年1月)に掲載されたものの抜粋集から、源淳子氏のご承諾を得て掲載するものです。


はじめに

 人間は生まれ死んでいく。しかし、この自明は、もはや「自然」ではない。医学の分野は、自然ならざる生殖のメカニズムをコントロールする技術開発にしのぎを削っており、死も、延命技術によってコントロールさせることができるようになったと信じられているからだ。
 一方、神話言説は、生死を超自然のごとく説く。しかし、それは、意図した言説でしかない。神権のための言説である。叡山天台における本覚思想(註1)の生死観もその一例であろう。それは徹底した現実肯定の思想として展開し、あげくの果て天皇制国家の秩序に寄与する。つまり、人間の生死は、「自然」ではあり得なくなった。むしろそれは、生成と構築によって支配されている。柄谷行人の言説によるなら、「国家」こそが構築的なものであり、「社会」が生成的なものという意味になる。(註2)

 近代日本における生成と構築は、天皇制国家と資本主義国家によって表象され、戦争、政治、経済、教育、宗教、マスメディアなどに機能し、人間の生死は、この何れかに関わる。それは、日本のみならずアジアの人々の生死のあり方にまで大きな影響を及ぼしてきた。さらに、女性に対しては、その人格を支配抑圧するための性役割や行動様式、外見、さらには、精神文化の装いをもった宗教的な心理コントロールでもって、天皇制国家とその社会を支えるジェンダーを普遍化してきた。そのジェンダーに「霊」が付加された。拙論が取り上げる「英霊」と「水子霊」は、日本における生成と構築から生み出され、女性を支配抑圧し差別する霊である。 現代社会においては、人間の生死が自然でないことは、疑うべきもない。それはまた、生死の意味が、時代社会によって変わるということを含意する。霊も例外ではない。そうであるなら、靖国神社に祀られている「英霊」は、もはや古典的な霊である。戦前、「君のため国のために」死んだとされる戦死者(英霊)への記憶は、いまや色あせたモノクロ写真となっている。ところが、政治家は、靖国神社公式参拝という政治劇を毎年懲りることなく繰り返し、「過去の亡霊どもをよびいだし」(註3)、「英霊」を借りて、「世界史の新しい場面を演じようとする」(註4)のである。右派とそのプロパガンダは、「英霊」が、国家を支えたと高唱するのである。

 確かに、生死を巡る人間の歴史の表象は、多様な丈化の諸相となって現れる。拙論は、その諸相として、「英霊」と「水子霊」から近代以降の日本人、なかでも女性が内面化させられた思想を読み解く。そして、そのなかに天皇制国家と資本主義国家の文化を相対化することなく信奉する精神、アナクロニズムを読みとるだろう。

一 生成される天皇
 現代日本で、妊娠・出産という私的なことをもっともマスメディアに「さらされる」のは皇室である。もとより、「さらされる」という受身の表現は、皇室についていえば正確ないい方とはいえない。多木浩二は「権力の視覚化」として図像から近代天皇制を読み解いたが、近代天皇制は、「御真影」によって、逆に国民に自らを「さらす」ことで、その神権を構築してきたという(註5)。その構築の表象である天皇は、先の戦争直後、「(上略)惟フニ長キニ亘レル戦争ノ敗北ニ終リタル結果、我国民ハ動モスレバ焦燥ニ流レ、失意ノ淵ニ沈淪セントスルノ傾キアリ。詭激ノ風漸ク長ジテ道義ノ念頗ル衰ヘ、為ニ思想混乱ノ兆アルハ洵ニ深憂ニ堪ヘズ。然レドモ朕ハ爾等国民ト共ニ在リ、常ニ利害ヲ同ジウシ休戚ヲ分タント欲ス。朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ依リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現御神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」と「人間宣言」した(1946年1月1目)。しかし、世紀を改めてもマスメディアがもたらすその表象の実体は変わらない。それは、そのわずか数ヶ月前、同じ天皇が発した「終戦の詔書」と読み比べるなら、いよいよこの人間宣言なるものの実体に疑義を抱いても不自然ではなかろう。「終戦の詔書」には、「朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」(1945年8月14日) と読めるのである。ここには 「万世ノ為ニ」と読める。「万世」とは、神話言説による政治イデオロギーである。ジョン・ダワーが「君主の当時の年数で年を数える年号制も、そのまま残った(この『伝統』は19世紀の半ばに始まったにすぎないが)。そのため、1926年、裕仁の即位ではじまった『昭和』は、戦後も中断しなかった。(中略)『昭和』は1989年までつづいたが、このとき、戦前のイデオローグたちにとっての『現御神(人間の姿をした神)』は、89歳でようやく去ったのであった」(註6)と批評する天皇の存続を意味している。そして、その実体は、戦前と変わらず「現御神」として存在してきたということである。マスメディアは、それを「さらす」ことで国民に教化してきた。

 2001年12月1目、皇太子夫妻の長女の出産は、「過去の亡霊ども」を呼びさますにふさわしい「慶事」であった。そして、それは同時に天皇制が生み出してきたジェンダーイデオロギーを再現する新たな幕開けの日でもあった。マスメディアは、すべての国民がその出産を心待ちにしていたと報じた。それは、「万世一系」への信奉であり、皇太子と雅子が結婚した意味と目的であった。つまり、雅子は「万世一系」の継続にかかわる産む性として期待され、男子出産を強要されてきたのである。「あれから8年半。民間から皇室入りした雅子さまにとって、第一子の出産は、想像を超える心理的なプレッシャーがあったに違いない」(『沖縄タイムス』12月2日)という事実であろう。

 結婚から8年が経過していた2001年春の「懐妊報道」に、全国紙は競って号外を出した。この国では、同年9月2日におこったアメリカでの同時多発テロも霞んだ。12月2日から3日、「皇孫殿下御誕生」の一般参賀が皇居及び東宮御所で行われ、町では、提灯行列が繰り出されたところもあった。マスメディアは、国民の歓喜する声を伝え(実際、喜ばないという声は皆無だった)、国会では、女性天皇論が政治課題として語られ出し、「皇太子ご夫妻に女児が誕生したことに関連し二日、与野党から女性の天皇を容認するための皇室典範改正は必要だが、拙速は避けるべきだという趣旨の意見が相次いだ」と『毎日新聞』は、2月2日、「皇室典範改正に前向き発言野中元自民党幹事長」という見出しで、次々に政治家の発言を以下のように報じた。

 自民党の野中広務元幹事長は同日のフジテレビの番組で、「日本も男女共同参画社会を目指している。海外にも(女帝の)例がある。改正は当然あってもいい」と改正に前向きな姿勢を示した。これに関して自民党幹部は「ただ皇位継承者は決まっており、あわてることはない」と述べた。また自由党の小沢一郎党首も兵庫県尼崎市の講演で「女性の皇位継承者がいてもいいと前々から言っている。日本でも女性の天皇は昔からいたが、明治以降の皇室典範で今のようになった」と語った。

 民主党の菅直人幹事長はテレビ朝日の番組で、「女性の天皇という制度はあってもいい」と改正に賛成しつつも、「こういう問題はあまり慌てず、国民的な合意がしっかりしたほうがいい」と時間をかけて検討すべきだとの考えを示した。保守党の野田毅党首は熊本本市で記者会見し、「女性天皇を否定するつもりはないが、時間をかけて議論するべきだ」と慎重に論議する必要性を強調した。

 皇太子妃の出産は、まさに「万世一系」を引き継ぐことの新たな物語の始まりを告げた。
 『大日本帝国憲法』第1条は「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め、明治天皇には、そのために側室を設け、大正天皇は二人目の側室柳原愛子が産んだ子どもであった。皇太子妃に対する男子出産強要は、昭和天皇の時代から始まった。昭和天皇と結婚した良子は男子出産が容易にかなわず、四人の女子のあとに男子を産む。その「慶事」にサイレンが国中に鳴り響いたというのだ。

 戦後も「万世一系」の論理は、『日本国憲法』にそのまま引き継がれている。その第1条は、天皇の地位・国民主権を定め、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」としながら、第2条の皇位の世襲と継承は、「皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と定めた。また、『皇室典範』第1章は、皇位継承を定め、その第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とあり、第2条には、「皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える」として、一.皇長子、二.皇長孫、三.その他の皇長子の子孫、四.皇次子及びその子孫(以下略)と、戦前同様男子が継承する。天皇の生成とは、この継承イコール 「万世一系」を拠り所とする。そしていま、そのための女性天皇論まで語り始められ、天皇の生成があたかも国民の願望であるかのようにマスメディアは報じて
いる。

二 靖国神社と「英霊」
 (1) 靖国神社
 戦前、皇室以外、つまり一般の女性も男子を産む性であることを強要された。そして、運良く産まれた男子は、富国強兵策に殉じ天皇に「忠勤」を果たした。また、家父長制のもとに「家」制度を担うことで「万世一系」にまつろう土壌を形成した。そこで生まれた男子は、アジア太平洋戦争に限っても、230万余人が戦死し、「英霊」として靖国神社に祀られることになった。そして、女性たちは、「英霊」の信奉者になることを強要されるとともに、戦後の保守政治の一翼を支えてきた。

 靖国神社は1869(明治11)年、東京招魂社を始まりとする。抑魂杜は戊辰戦争で天皇方について戦死した者の「霊を慰める」目的で創建された。天皇に敵対する側を賊軍とし、その戦いで「君のため国のために」死んだ者を祀る宗教施設である。1879(明治12)年、東京招魂社は別格官弊社靖国神社となる。別格官弊社とは、社格制度を規定するなかで制定された。神宮を頂点として官弊社(大・中・小の格づけ)、国弊社(大・中・小の格づけ)、地方社(府県社・郷社・村社・無格社)の順に格づけが行われ、伊勢神宮をトップとしたピラミッド型の序列化が図られた。1872(明治5)年、官弊社に新たに「別格」がつけられ、まず湊川神社が別格となった。湊川神社は楠木正成を祭神としている。その後、日光東照宮(1873年、祭神は徳川家康)、豊国神社(1873年、祭神は豊臣秀吉)、談山神社(1874年、祭神は藤原鎌足)、護王神社(1874年、和気清麻呂)、建勲神社(1875年、祭神は織田信長)などが次々に創建され、その10社目が靖国神社である。

 靖国神社の特色は、「他の別格官弊社は、各社ともすでに歴史上の人物となった特定の個人を神として祀る神社である。複数の祭神がある場合でも、主神は一人であり、主神の同族・従者などで主神とともに天皇に忠勤を尽くした者が配祀されるというかたちである。靖国神社の場合は、(中略)多数の祭神がすべて主神である。靖国神社は、その祭神がすでに過去の歴史上の人物であると限られることなく、むしろ将来にわたって祭神が増加することを予定した神社」(註7)であるということに尽きる。つまり、靖国神社は、天皇に「忠勤」を尽くした戦死者を主神に祭り上げ、次々に神が生産される神社なのである。

 こうした仕組みには、靖国神社を国家神道の中核としての役割を担わせる目的があった。1877(明治10)年、内務省社寺局が設置され、1900(明治33)年には神社局と宗教局を分離し、1913(大正2)年に宗教局を文部省に移管する。1882(明治15)年、神官は葬儀に関与しないことが定められ、教派神道の独立が認められる。1884(明治17)年には神社神道の祭祀と宗教の分離が行われ、神官は国家の祭祀に従事することができ、国家祭祀が宗教から切り離される。つまり、このことによって、靖国神社の祭祀が国家祭祀と位置づけられることになり、「戦死者」をすべて神とする特異な宗教形態をもった国家神道が可能となったのである。こうした宗教形態は日本の歴史でも他にみることはできないが、日本人の宗教観に通底するところも否定できない。「死んだ人はホトケ(仏)になる」という宗教観に潜む仏と神の明確な区別のなさがそこにはある。さらに浄土教的には、浄土往生したものが、もう一度、この世に還って人々を救うという考えもあり、「英霊」に付置された意味に通じなくもない。

 天皇の権威と靖国神社を結びつける工作が具体化するのは日清戦争以後である。まず天皇は、戦没者合祀のために二度の臨時大祭に「親拝」する。日清戦争以前の戦没者合祀は基本的に戦闘死者、戦傷死者が中心であったが、このときから合祀対象者の見直しが行われた。日清戦争時の戦没者は1万3267名だったが、そのうちの1万1427名が戦病死だったという理由からである。旧来の合祀方法では1840名しか合祀できない。そこで、「来るべき日露戦争を想定しての陸軍の軍備大拡張」(註8)が、戦病死も合祀する理由になったというのだ。日露戦争後、戦病死者を含む8万8133名が主神として合祀された。その数は日清戦争の戦死者を大幅に超えている。当然、遺族の数も増している。しかし、このときには、まだ兵士の意識に靖国神社は強く結びついていなかったという。靖国神社は、多くの日本人にとってまだまだ遠い存在だったのである。

 では、戦争・戦死と靖国神社が兵士の意識に直結するようになるのはいつなのか。大江志乃夫によると、昭和に入ってからだという。「天皇の『親拝』が、昭和になってから急激にふえていることは見逃すことができない。明治の約45年間に7回、大正の約15年間に摂政の参拝をも含めて3回にたいして、昭和の敗戦直後までの20年たらずの間に実に20回の『親拝』がおこなわれ」(註9)という。それは、天皇と靖国神社と戦死を一つの文脈として国民に徹底することが急務となる時代となったからである。

 ちなみに「親拝」とは、「大臣以下供奉の全員はすべて本殿の廊下にとどまり、天皇は侍従長だけを随えて本殿の御座につき、『御拝』をするという。天皇の玉串は、宮司がこれを侍従長に捧呈し、侍従長はそれを天皇に奉り、天皇はその玉串を暫し手にしてもっとも鄭重な『御拝』をする。相当に長い時間の『御拝』であるという。そののち、玉串を侍従長に手渡し、侍従長はそれを捧げて宮司に手交し、宮司はそれを頂戴して階段を上り、神前に捧げる」(註10)という儀式である。まさにそれは天皇だけが行うことのできる宗教儀式であり国家祭祀である。「英霊」が祀られることの意味は、この親拝によって明らかである。天皇制ファツシズムの先兵とされた兵力へ天皇自ら「御拝」するのである。それは、臣民と現御神との交合ともいえるだろう。臣民と現御神が交合する場が靖国神社であり、「英霊」とならなかった生き残りが、今なお靖国神社で、天皇との交合を夢想しているのであろう。また、「靖国の母」たちは、「英霊」を「鏡」の擬態として信奉させられたのである。その鏡とは、「カガミは影見(カゲミ)であるということにおいて、それは遠い世の人の影を内に含み、いわばそれを吸いこんでいる。遠い世との距離を絶滅しながらそれを保有するという鏡の呪術的性質がここに由来する」(註11)というものであった。

 「英霊」たちは、『軍人勅諭』によって教育された。『軍人勅諭』は、『教育勅語』の発布より早く、1882(明治15)年に公布され、その『軍人勅諭』について、多木浩二は次のように指摘する。

 軍人教育の頂点は、明治6年に近衛兵を率いて野営演習をおこなったことであろう。天皇も風雨のなかで野営し、翌日、対抗演習を実施し、それを指揮している。こうして次第に軍隊を統率する能力をもつ天皇というイメージが定着し、やがて明治15年1月4日に発布された『軍人勅諭』の冒頭で、「我が国の軍隊は世々天皇の統率し給うところにこそある」と言語化されるにいたる。(註12)

 徴兵制度(1872年)以後、天皇は軍隊の演習に直接参加し指揮した。『軍人勅諭』は、多木が指摘するように、天皇が統率する軍隊であることの言語化である。その『軍人勅諭』には次のような言説を読むことができる。

朕は汝等軍人の大元帥なるぞ。されば朕は汝等を股肱と頼み、汝等は朕を頭首と仰ぎてぞ、其親は特に深かるべき。朕が国家を保護して、上天の恵に応じ祖宗の恩に報いまゐらする事を得るも得ざるも、汝等軍人が其職を尽すと尽さゞるとに由るぞかし。(中略)
一、軍人は忠節を尽すを本分とすべし。
一、軍人は礼義を正くすべし。
一、軍人は武勇を尚ぶべし。
一、軍人は信義を重んずべし。
一、軍人は質素を旨とすべし。
 右の五ケ条は、軍人たらんもの暫も忽にすべからず。(中略)此五ケ条は、天地の公道人倫の常経なり。行ひ易く守り易し。汝等軍人能く朕が訓に遵ひて、此道を守り行ひ、国に報ゆるの務を尽さば、日本国の蒼生挙りて之を悦びなん。朕一人の懌のみならんや。

 歴史は、「天地の公道人倫の常経」をもっていかに非人道的な歴史を刻んできたかを明らかにしている。その「五ケ条」の常経が、「現御神」のために定められていたという理解は、「国体」護持のために敗戦を遅らせたという先の戦争終結に至る歴史が、そのことを物語っている。「英霊」は、「国体」そのものであった天皇の擬態となって、身近な人々の心に天皇の 「股肱」となる精神を植え付ける機能を果たした。父・夫・息子が、天皇とともにあるという幻想であろう。絶対君主制に従属させる宗教言説である。1890(明治23)年に公布された『教育勅語』には、「我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々蕨ノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ(中略)一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と読めるが、『教育勅語』で課された人間関係は、「和」の精神に基づく上下関係であった。(註13)こうした『軍人勅諭』や『教育勅語』によって明らかになっていく天皇像は、いかにも臣民に親しい存在であり、天皇に尽くすことをあたりまえととるイデオロギーを形成していった。臣民はそうした天皇像を内面化させられていったのである。もとより、そこに読めるナショナリティは、アジア太平洋戦争には、天皇制及び天皇個人の地位を護持するという 「国体」という形でさらに強化された。また戦後、それを「現御神」の否定という形で「人間宣言」した天皇にジョン・ダワーの天皇批評を読むことができるであろう。

 翻って、国の戦争で戦死し、それを国民が悼む行為は、どこの国でも行われている。しかし、靖国神社に祀られた「英霊」は、それとは趣が違いすぎる。それは、何よりも、「英霊」が過去にとどまらず、現在も天皇と交合する主神として現存させられていることである。つまり、生成を天皇とともに繰り返しているのである。しかもその生成が「霊」という領域によって無限拡大的になされているところに、その特異な性格を読みとれるだろう。それは、論理の飛躍ではない。人間の生死を神が支配したことによる結果である。しかも、ここではまだ立ち入らないが、そうした神々がつくり出したジェンダーに女性は閉じこめられてきたのである。

 靖国神社とは「日本国民の、たんに信教の自由のみならず、思想の自由をも拘束することを明白な目的とする国家施設として維持され、これにたいする信仰が国民に強制されてきた。靖国神社は、明治以来の日本の国家宗教である国家神道のうえでも特別に重要な地位をしめ、帝国憲法第28条にいう『臣民たるの義務』の名において国民の思想・信教の自由を制約ないしは抑圧する最大の宗教施設のひとつとして、存在しつづけた」(註14)とまとめることもできる。その「英霊」から解放されることのない思想的拘束は戦後も続き、それは現在にも及んでいるのである。

 毎年8月15日、靖国神社に集う元兵士は、「英霊」に会いに行くという。そこには生き残ったもののつらさと戦死した友への追悼が重層するかのようにみることもできる。靖国神社に集うことによって、「救い」や「癒し」になっているともみえる。しかし、靖国神社に集う「生き残った」兵士には、「アウシュヴィッツのあとではまだ生きることができるのかという問題である」(註15)というアドルノの問いかけの対象にはならない。それは、「殺戮を免れた者につきまとう激烈な罪科である」(註16)という悪夢に彼らは襲われることがないからである。もしあるならば、軍服姿で靖国神社に行ったり、「同期の桜」を歌うことはできないだろう。「人間宣言」で国民を欺き、「東京裁判」で免罪となり、国民からの責任も免れた天皇と同じように、彼らには、戦争への加害者意識がないからである。それは、丸山眞男が追究した天皇制の特色である「無責任の体制」に支配されたものの姿でもある。靖国神社に祀られた「英霊」の数は、アジア太平洋戦争では233万人に及び、現在は、246万人が祀られているという。さらに驚くべき事実は、アジア太平洋戦争で死亡した日本軍軍人・軍属323万人のうち、約6割が栄養失調による病気や餓えだったのである。(註17)

 (二) 靖国の母
 「国体」のイデオロギーは、教科書が、その効果をあげるのに役立った。それには家庭教育をも含む。大江志乃夫が紹介している第三期国定修身教科書の一節は、次のような文書が綴られている。(註18)

靖国神社は東京の九段坂の上にあります。この社には君のため国のために死んだ人々をまつってあります。春(4月30日)と秋(10月23日 の祭日には、勅使をつかはされ、臨時大災には天皇・皇后両陛下の行幸啓になることもございます。

 君のため国のためにつくした人々をかやうに社にまつり、又ていねいなお祭りをするのは天皇陛下のおぼしめしによるのでございます。わたくしどもは陛下の御めぐみの深いことを思ひ、ここにまつってある人々にならって、君のため国のためにつくさなければなりません。
 こうした学校教育の結果、「君のため国のために」 尽くすことを内面化したのは男性ばかりではなかった。

1901(明治34)年、奥村五百子は「愛国婦人会」を結成した。奥村が「愛国婦人会」の設立に援助を依頼した公爵近衛篤麿は、「愛国婦人会趣意書」に次のように記している。

 (奥村五百子は)親しく戦地の実況と、軍隊の労苦とを観察し、帰るに及びて、切に其の遺族救護の良法を講じ、軍人達に後顧の憂なからしめ、愈々皇国の光輝を放たしめむとす。女史曰く「願くは君達が、半襟一掛の用を節し、其の資を積みて之に充てよ」と、真に適切の言といふべし。(註19)

 日清戦争後、「軍人達に後顧の憂なからしめ、愈々皇国の光輝を放たしめむ」ことを願って結成された「愛国婦人会」は、「君のため国のために」戦う出征兵士の銃後を守る目的のために設立された。もっとも、そこに集まった女性指導者は、「半襟一掛の用」を節約することができるハイクラスの女性たちである。そして、「愛国婦人会」は、「国体」を信奉する女性を養成した。日本が中国へ侵略をした明くる年、1932(昭和7)年には、大阪の安田せいが中心となって「大日本国防婦人会」を設立している。それは、庶民と呼ばれる一般女性が率先してつくった会だった。「愛国婦人会」から31年、「国体」が一般女性にまでいかに浸透したかを証明する。「国体」を内面化し、出征軍人を見送り、千人針を戦地に送った。その作業に着用した「白いかっぽう着」の装いは、「母」と「奉仕」の象徴であった。出征兵士と「母」を結びつける衣装だった。「白いかつばう着の母 こそ「日本の母」であり、天皇制国家が求めた女性の姿であった。

 1942(昭和17)年、上記の二つの婦人会が政府によって「大日本婦人会」に統合され、20歳以上の女性が組織された。一般女性自らが「国体」イデオロギーを内面化し「日本の母」となり、近隣の人を取り込み、女性集団を生み出していった。「日本の母」は、まず産む性を女の使命とした。多くの子ども、特に家を継ぐことと兵士になる男子を産むことだった。それが「家」制度と国家を支える女性の重大な役割であった。

 「君のため国のために」尽くし、命を落とした男子を産んだ「母」は、「靖国の母」と呼ばれるようになり、「靖国の母」は、父・夫・息子が出征したことを誇りとし、戦死しても嘆き悲しまない女性であることを強要された。ではなぜ泣くことが許されなかったのか。それは、「日本の国家構造そのものに内在していた。従って私的なものは、即ち悪であるか、もしくは悪に近いものとして、何程かのうしろめたさを絶えず伴っていた。営利とか恋愛とかの場合は、特にそうである。そうして私事の私的性格が端的に認められない結果は、それに国家的意義を何とかして結びつけ、それによって後ろめたさの感じから救われようとするのである」(註20)という丸山眞男の言説でもって理解できるだろう。国家的意義として存在する靖国神社とは、国家の「後ろめたさ」でもあるのだ。その国家によって「私」を奪われたとき、「靖国の母」は、悲しみを「悪」 と内面化するほかなかったのである。「国体」イデオロギーは、このように、国民の私的領域に浸透していたのである。

 聞き書きの事例によると、「『軍国の母は泣きを見するな』といって、個人的な悲しみのために泣くことは恥ずかしいことだとされ、(中略)合同葬のときに一度も泣かなかった英霊の妻が、『立派だった』と褒められた」(註21)という。そして、戦死した夫や息子は靖国神社に「英霊」として祀られ、「日本の母」はまさに「靖国の母」となった。

 戦死の公報が入ると、これまでとは異なる葬儀が執り行われたという。葬儀の場所が個人の家から公共の場に変わり、「参列者が増え、血縁、地縁者に加えて教員や生徒、役場の職員、婦人会、在郷軍人会などの他人までが参加し、逆縁であっても、父母、祖父母が参列したこと。それに大きく引き伸ばされた遺影を持つこと。喪装の範囲が一般の人にも広がったこと。弔辞や弔電、祭壇の形式など」(註22)のセレモニーが用意され、護国の神となる「英霊」として靖国神社に祀られた。

 こうした葬儀は、「靖国の母」にとってどんな意味をもったのであろうか。ほんとうに悲しみをのり超える役割を果たしただろうか。「名誉の戦死」と鼓舞され、「靖国の母」たちは、戦争の真実に向き合うことも奪われてきたのではないだろうか。その結果、「靖国の母」は、天皇の「御拝」を喜び、戦争の真実と向き合わないまま、戦後にまで引き継がれていくことになったのではないだろうか。それが、国家神道の救済であり、主神(英霊)は、天皇の呪縛から解放される術を「靖国の母」からも奪ったといえるだろう。

 こうした非人間的側面を内面化することは、そのまま天皇制につながる心性の表象でもあった。こうした心性は、「靖国の母」の戦争責任にも通底する。そこには、天皇の権威と権力を「市民的主観性の根本原理」(註23)とする国民の姿をみることができるだろう。もとより、その主観性とは、決して「個」の主体性から生まれるものではない。天皇にまつろう心性である。それは、「個」の自立を奪うのである。それが天皇制国家を構築することのできる根本原理でもあるのだ。

 (三)戦後の靖国の母
 1945五年12月、日本を占領した連合国総司令部(GHQ)が出した「神道指令」は、国家神道の解体、政教分離を行った。その命を受けてできた「宗教法人法」により1952年1月、靖国神社は単位宗教法人となった。

 1947年、早くも後の「日本遺族会」となる「日本遺族厚生連盟」が発足する。その「日本遺族会」は、政府との結びつきを強くし、衆参両議院に国会議員を送って靖国神社の国家護持を実現しようとする。1953年には軍人恩給が復活する。60年代に入ると各種の戦後補償が成立していく。この間、旧植民地下の元軍人はまったく除外された。1963年には「全国戦没者追悼式」が始まり、天皇・皇后を迎えて、靖国神社に祀られている「英霊」の関係者が全国から出席して行われることになった。

 そうしたなかで、1969年、自民党は靖国神社を国家管理する法案を提出する。その後何度も提出するが、いずれも廃案になる。そして、自民党総裁・首相の靖国神社参拝が公然と行われるようになるのは、1975年の三木武夫からである。1978年には、靖国神社にA級戦犯の合祀が秘密裏になされ、その後、首相の参拝が「私人」「公人」の問題として取りざたされる。1985年、中曽根康弘が首相として公式参拝であると公言する。結果、中国、韓国をはじめ内外からの猛烈な反発を招く。その後、首相の8月15日の公式参拝は沈静する。

 その沈静を破ったのは、小泉純一郎である。2001年、小泉は公約した靖国神社参拝を内外の批判をものともしない無知と倣慢さで行うことになる。しかし、8月15日が近づくにつれてその批判は大きくなり、それをくぐり抜けるかのように、小泉は姑息にも、8月13日に参拝した。同年4月、文部省の検定を得た「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書問題と併せて、内外からの厳しい批判にさらされる。その次の参拝は、翌年の4月21日、靖国神社の春の大祭の目だった。あまりにも急な参拝だったため、マスコミが到着するまでの一時間、小泉は靖国神社で報道陣の到着を待っていたという。こうした右派・政府の動きに反対する動きが、靖国神社問題のもう一方の極にある。そのもっとも新しい動きは、小泉首相の靖国神社参拝を憲法違反として告訴する運動である。

 では戦後の「靖国の母」はどうなったのだろうか。「靖国の母」も、すでに戦後に生きるほうが長くなった。結論からいえば、戦争を加害から捉える視点を見失ったまま生きてきた人で占められる。首相の靖国神社参拝も両手をあげて賛成である。1952年「戦没者遺族等援護法」が制定され、翌53年には軍人恩給が復活し、高度経済成長とともに戦没者の遺族年金を「靖国の母」たちは受け取ることになったが、それと引き替えに、彼女たちは最愛の関係者を失った理由を問う時間と場を奪われた。

 最愛の人を亡くした悲しみをどのようにのり超えるかは大きな問題である。その方法には、先ず第一にその事実を知ることが大事だとされる。どんなに残虐で悲惨な事実であろうと、その事実を知ることから始まるという。つまり、「靖国の母」にとっての戦後の試練とは、戦争責任・戦後責任にいかに向きあい、そして、それを内面化したかということであろう。しかし、その結果は、無惨であった。なにもできなかったのである。もとより、多くの日本人が、自ら戦争責任を問うこともなかった。日本人自らが、誰が加害者であるかを認識し、その加害者を処罰することもなかった。加害者処罰とは責任者処罰であるが、その営みを日本人はしなかった。ヤスパースの『責罪論』は、その意味で日本人の戦争責任意識と対処的な問題を提起しているといえる。

 戦死の状況がどれだけ正確に遺族に知らされたかも定かではない。例えば、戦病死が実は餓死だったと知らされた場合の遺族の気持ちは計り知れない。戦死は、それぞれ個人の死が同じではないのに等しい。しかし、その死は、ヒトシナミに「名誉の戦死」に帰された可能性が高い。そして、靖国神社の「英霊」となることで、そのすべての責任は回避されたのである。それ故に、「靖国の母」は、戦死の実態を通して、悲しみや苦しみをのり越える術もなかったといえる。そうしたものをすべて捨象して、戦後、「靖国の母」の前に提示されたのが遺族年金だった。彼女たちから戦死の真実、戦争の真実、戦争の責任と向き合うことを奪ったのが、遺族年金だったともいえるだろう。

 カントは『永遠平和のために』において「人を殺したり人に殺されたりするために雇われることは、人間がたんなる機械や道具としてほかのものの(国家の)手で使用されることを含んでいると思われるが、こうした使用は、われわれ自身の人格における人間性の権利とおよそ調和しないであろう」(註24)と論じているが、ここに読める近代理性に基づいた人間性を、「英霊」にはのぞむべきもない。先述してきたように、「英霊」には、カントが指摘している人間性が、国家(神権)によって奪われたのみならず、その奪われた人間性が、主神という神になったのである。それが「英霊」の非人間的性格の特色である。そして、「靖国の母」は、その非人間性としてある「英霊」を信奉する者として位置づけられたのである。それは、「機械や道具」以上に臣民が別な意味での有機的な存在であるということかもしれない。

 「靖国の母」にとって、働き手を戦争で失い、生活が困窮するなかでの年金はありがたいものだっただろう。しかし、そのことによって、多くの「靖国の母」は、被害者意識のままに靖国神社の「英霊」を拠り所とするに止まってしまった。それは国家を拠り所とする生き方である。

 こうした背景には、戦中における「国体」のプロパガンダの役割を果たした知識人女性の責任も重い(ここでは女性知識人を問題にするが、数の上でも当然多い男性知識人、さらには国家の責任者が不問にされてはならない)。壷井栄は、日本文学報国会が編集した『日本の母』(1943年発行)に、全国各地の「日本の母」を紹介し、「靖国の母」を賛美した。(註25)戦後、壷井栄は自身のこうした翼賛の行為についてなんら告白していない。また、1918年に始まった母性保護論争の当事者であった平塚らいてうは、「日本の母」を「生命の源泉」とする「国家的な存在」と説いた。戦中、彼女の言葉は少なくなるが、戦争協力の立場は否定できない。その彼女が戦後、母性の大切さを強調して平和論者になったが、自身の戦争責任を明確にしたうえで平和論を唱えたわけではない。ここにも戦争責任を放棄した知識人女性の姿をみることができる。戦後になって日本の加害責任と自身の戦争協力を反省した知識人女性を、私は知らない。知識人女性の加害責任のなさは、一般女性にも当然及んだのである。

 「靖国の母」が拠り所としていたのは、神となった「英霊」である。しかし、彼女たちは、アジア太平洋戦争で亡くなったアジアをはじめとする2000万人と、その遺された関係者への想いは希薄である。女性への戦争犯罪は、極悪である。侵略地での人権侵害、殺害、レイプ、そして「慰安婦」制度による女性への性暴力等々。そして、生き残ったけれども、身を潜め、苦しい戦後を生きてきた同性である女性の事実を「靖国の母」は知らなかったといえるだろうか。多くのアジアの女性(オランダなどの女性も含まれる)が日本兵の性欲処理の「機械や道具」にされ、性奴隷にされた。その時、「銃後の妻」「日本の母」や「靖国の母」は、ほんとうにこの事実を知らなかったのだろうか。これは架空の物語ではない1938年(昭和13)、石川達三は『中央公論』3月号に「生きている兵隊」を執筆する。3月号は発売と同時に発売禁止処分となるが、同書のなかで、石川は「慰安婦」について次のように書いている。

 彼等は酒保へ寄って一本のビールを飲み、それから南部慰安所へ出かけて行った。百人ばかりの兵が二列に道に並んでわいわいと笑いあっている。路地の入口に鉄格子をして三人の支那人が立っている。そこの小窓が開いていて、切符売場である。
 一、発売時間 日本時間 正午より6時
 二、価額  桜花部 一円五十銭 但し軍票を用う。
 三、心得  各自望みの家屋に至り切符を交付し案内を待つ。

 彼等は窓口で切符を買い長い列の間に入って待った。一人が鉄格子の間から出て来ると次の一人を入れる。出て来た男はバンドを締め直しながら行列に向かつてにやりと笑い、肩を振りふり帰って行く。それが慰安された 表情であった。(註26)

 これは南京市内に設置された慰安所の描写である。「彼等壮健なしかも無聊に苦しむ肉体の欲情を慰める」(註27)ためにそれは設置されていた。こうした慰安所の情報は、おそらく兵士の口から口に「銃後の妻」たちにも知られていたのではないだろうか。少なくとも、そう考えても不自然ではなかろう。同書(新潮文庫版)の解説には、宮本百合子が2年後に『都新聞』に『生きている兵隊』の批評を書いていると書かれている。こういうことからも、慰安所の存在は十分、知られていたはずである。

 天皇制国家が行った性奴隷制である「慰安婦」の存在と「銃後の妻」、「靖国の母」との構造的な関係も看過できない。天皇制国家に卑しめられた性と良妻や貞節という言説に粉飾された「銃後の妻」と「靖国の母」の性との関係である。しかし、多くの「靖国の母」は、日本政府と同じまなざしで、彼女らの存在を非在とし、自分たちには関係ないものとみてきたのではないだろうか。「靖国の母」は靖国神社に祀られている「英霊」をそのまま受け入れることによって、首相の公式参拝を喜び、「新しい教科書をつくる会」の歴史認識を歓迎し、アジアの人々との新しい関係を創ることのできない右派・政府の動きとともにあるのではないか。

 韓国人の李熙子(イヒジヤ)は、父を1944年六月に戦死で失った。靖国神社に合祀されていることを知るのは、1996年ごろだという。「この事実に対して言葉では表わせない怒りが目の前を覆い、血が逆流しほとばしり出るような、裏切られたという感情…このときの心情を全て説明することはできません」(『ころさない ころされない ころさせない』小泉首相靖国参拝違憲アジア訴訟団、ニューズレター第6号、2002、8)と言い表している。そしてその後、靖国神社に合祀取り下げを求め拒否されている。

 浄土真宗僧侶である菅原龍憲は父の 「英霊」を靖国神社から取り下げることを要求している。「『龍音命』という文字をみまして、私の父は僧侶でありました。それが『命』という神として祀られてあるということを、あらためて屈辱的な思いで身体が熱くなりました」(前記のニューズレターと同じ、第2号、21001、2)と訴える。しかし、一度主神となった「英霊」の取り下げを靖国神社は、一切拒否する。

 「靖国の母」を「英霊」から解放する、そのことが天皇制のみならず、そこで生み出されたジェンダーからの解放であるという指摘は、まだ少数のものである。菅原ら一部の宗教者や反戦団体の人々は、「信教と思想の自由を侵害する」として運動を行ってきていることの意義は大きいが、天皇制国家がつくり出したジェンダーの視点を採り入れるべきである。逆に戦後、政府は、「靖国の母」の主体性を遺族年金で奪ってきたといえるだろう。寝たきりの老人になった「靖国の母」を「遺族年金」が入るから看病しているという長男の妻(「嫁」)の話を聞いたことがある。息子である夫は、遺族年金に依存している。こうした事例は、「靖国の母」の高齢化に伴い数多くなっているに違いない。

 「靖国の母」を支えてきたのは、まぎれもなく国家である。そこには、天皇の存在があり、その天皇の存在を支える右派政治や、その存在を「さらす」ことに貢献するマスメディアがある。その結果、「靖国の母」は、55年体制と呼ばれた戦後の保守政治の土壌にもなってきた。「英霊」を依り所とする「靖国の母」に、戦後日本女性のジエンダー意識の基底を流れるおどろおどろした音を聞き取るのである。

二  「水子霊」
 (一) 中絶できる母
 戦後、高度経済成長期を迎え、新たな「霊」が生まれた。「水子霊」である。1970年代以降、水子供養が盛んに行われるようになった。その水子のほとんどは、戦後合法化された中絶によるものである。その先鞭となったのは1971年、水子供養を専門とする紫雲山地蔵寺(栃木県)である。「水子霊」は女性週刊誌やテレビの格好の題材となった。中絶経験者に向けられた「赤ちやん殺し」というメッセージは、女性に罪悪感を抱かせた。また、女性自身や家族におこる不幸が水子の崇りとして信じられ、中絶経験をもつ女性は水子供養に救いを求めた。水子供養は中絶の癒しと罪悪感からの免税符として日本中を席巻したといえる。

 数年前に行った女子大での水子供養のアンケートでは、「夜中に金縛りにあってつらい思いをした。何度も何度もおこってくるので、ふと考えたら、中絶したことが原因かと思い、水子供養をした。その後、一度も金縛りになっていない」と答えた学生がいた。また、「胎児の霊を慰め、成仏させてあげる」という学生もいた。まさに「水子霊」の崇りが内面化されていた。しかしそこには、望まなかった妊娠のもうひとりの当事者である男性の姿は希薄である。
 1995年、日本の妊娠・出産状況は、「望まれた出産」35パーセント、「意図しない出産(できちやった出産)」35%、「望まない出産」3%、「人工妊娠中絶」二7%(『AERA』−1996)という統計が示すように、中絶率はきわめて高い。また中絶の割合を見ると、10歳代が9.2%、20歳代が44.2%、30歳代が37.0%、40歳代が9.6%(1997『女性のデータブック』)となっており、既婚者の中絶が圧倒的に多い。このことは、夫婦間の性関係に何らの問題があると考えて間違いない。

 こうした現実のなかで、中絶を精神的に救う水子供養が、逆に性の関係や産む産まないなどの基本的人権(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ)を疎外し侵害しているという指摘ができる。つまり、「水子霊」の存在は、女性の自立した性を確立することに対して障害となっており、中絶という行為によって問われるべき男と女の関係が、宗教によって隠蔽され、問題の本質をみえなくさせている。そこには「水子霊」を女性に内面化させる宗教の罪過を指摘できるだろう。また、そこで行われる教化が、中絶の重要な責任を担うべき男性の存在をみえなくしているのである。

 「日本の母」は、戦前、結婚すべき、子どもを産むべきことを強要された。それも男子を産むべきとされた。「家」を継ぐべき男子と兵士と労働力になるべき男子である。「家」では夫に従うのが当然とされ、避妊も中絶も許されなかった。堕胎罪はそのために制定されていた(1880年)。戦後、人口動態の大きな転換点を迎えたのは、1947年から始まる第一次ベビーブームである。戦後の混乱期、経済のどん底のなかで、帰還兵士の結婚などで急激な人口増加をもたらした。しかし、性意識は戦前のままであり避妊も中絶もできなかった。ベビーブームは当然の帰結であり、後の団塊世代と呼ばれる子どもを生み出した。筆者もまさにその世代である。山あいの小さな農村なのに、同級生の友人が非常に多い。小学校は50人クラスが3クラスあった。現在、その小学校は30人クラスで1クラスしかない。過疎化も理由であろうが少子化は歴然としている。

 政府の出産抑止対策は1948年から始まる。「優生保護法」の成立である。「不良な子孫」の出生防止と母性保護としての中絶の許可を目的とした法律である。優生思想に基いた中絶が法律で認められるようになった。しかし、その中絶の条件は多くの女性に当てはまるものではなかった。遺伝性及びそれ以外の身体的・精神的障害をもつ「血」を妻・夫の四親等までに広げた。中絶は、肉親を「不良」とすることでできることになった。経済状態が悪化していた時代の要請に適った条件が付加されたのは明くる年の49年であり、「経済的理由」で中絶ができるようになった。これは、実質上の中絶の自由化である。1996年、「母体保護法」と名を変えて現在に至るまで、日本の女性は容易に中絶ができるようになった。

 ベビーブームが1950年以降止まるのは、避妊教育の普及ではなく、「優生保護法」による中絶の結果である。1955年の中絶件数は117万件と報告されている。その後、60年代に入って中絶件数は減り、1997年には34万件までに減少した。しかし、この件数は医師の届け出のみで、実態はその倍を下らないとされている。この間、日本は、アジア諸国へ経済進出し国内の高度経済成長を遂げてきた。アジアは軍靴に変わる円による新たな侵略を経験する。その経済進出とともに日本男性の買春旅行がアジアの各都市に及び、買春に反対する韓国女性は買春ツアーを 「性侵略」と呼んだ。また、アジアの国々の女性が、かつての「慰安婦」のごとく日本に連れて来られ、企業戦士である日本男性の相手を担わされた。こうした性風俗は、家庭以上に性の営みの場となっていると考えてもよいだろう。また、中絶件数の減少には、避妊の普及もあるが、しかし、30万件を超える数字は決して少ないとはいえない。そして、これらの中絶の原因として、日本人の避妊は男性主導のコンドームが主流であるため、男性の協力が得られないという現実があることを見逃してはならない。1997年東京都が行ったドメスティック・バイオレンス(夫・恋人からの暴力)の女性へのアンケート調査の結果にも、その性的暴力の一位に 「避妊に協力しない」が挙げられている。避妊が両者の協力によるのは当然である。しかし、避妊に協力しないという解答は、男性主導のコンドームが避妊の主流であることを示している。実際、日本人の避妊の方法は、コンドームが70パーセント前後を占めて断然一位である。3年前に大学で行ったアンケートでも、現在も将来も含めて避妊の方法はコンドームと答えた学生が70パーセントであった。1999年、日本でも低用量のピルが認可された。アメリカでの認可から40年も遅れてである。ところが、女性のピル使用は増加していない。入手するのに医師の処方箋が必要なことや高価なことなどの理由が挙げられる。女性主導の100パーセントに近い避妊率をもつピルが今後どのような傾向を示すかが注目される。

 こうした状況のなかで、戦後、中絶経験者を襲った 「文化」 が水子供養である。1970年代以降の高度経済成長と符丁を合わせるように登場した。水子供養には流産・死産なども含むが、もっとも多いのは中絶である。中絶は流産や死産とその理由を異にする。中絶経験者がターゲットにされたのは、中絶が命を抹殺することと同等として罪悪に結びつけられ、水子の崇りを強調することができたからである。新宗教が行っている水子供養のパンフレットには「親に反抗する…心配ばかりかけている…体が弱く病気ばかりしている…よい縁談に恵まれない…なにをしてもうまくいかない…」 と書かれ、これらは、「水子の霊障である」と説かれている。

 さらに中絶に絡む右派政治家の強い動きがあった。自民党議員を中心とする動きで、彼らは、「優生保護法」から「経済的理由」を削除し、中絶を禁止する方向を打ち出した。そこには、新宗教団体である「生長の家」が急先鋒となり、「生命尊重」を謳い、中絶は「赤ちやん殺し」であると強調した。この流れに歯止めをかけたのは、ウーマン・リブ運動である。また障害者運動や家族計画団体、医師会なども反対した。結果として「優生保護法」はそのまま守られ、女性は自由に中絶ができることになったが、そこにも問題がないわけではない。中絶そのことについて論じることは、拙論の主たる目的ではない。しかし、少なくとも中絶が行われることの是非とともに、中絶に至る性の関係と生命倫理について看過できない主張や論理、さらにはクローンに象徴される生命操作による自然ではない「生」がすでにあることも指摘しておかなくてはならないだろう。

 (二) 水子供養
 「優生保護法」が政治目的や宗教言説でもって改悪されずにすんだが、それとともに中絶経験者は水子供養を行うようになった。1970年代以降、水子供養は全国に拡大し日本を席巻する。現在では、水子供養にほとんどの日本の宗教がかかわっているといっても過言ではない。水子供養の特色は、先祖供養のように年回忌がない。その結果、水子に恐れを抱いたり罪悪感を抱いた女性は日常的に寺院などに参拝し供養することになり、宗教の側にとっては割のいいビジネスになっている。水子供養を行わせる側の最大の理由は水子の崇りである。崇り信仰を内面化している日本人の宗教観をうまく利用している。そこには中絶する「権利」をもっている女性の人格は否定される。つまり、女性は「水子霊」に呪縛されており、水子供養を行い、その呪縛との強い関係を結ばされ、供養することにおいて救われるという信仰を内面化するのである。新宗教のパンフレットは、「どうすればいいのでしょう。『心からの懺悔と、まごころの供養』をしてあげるほかに方法はありません。すまないことであった、申しわけないことでした、と心からおわびし、生きている子供たちに傾けると同じ愛情を捧げて供養していくことです。これよりほかにこのかわいそうな小さな魂を救う道、その恨みを和らげていく方法はないのです」と教化されている。女性は、望まない妊娠の責任を引き受け、それに加えて中絶の責任をも引き受けなければならないのである。

 戦後、「優生保護法」制定直後には、水子供養の存在はない。経済的に苦しかったとはいえ、崇りに縛られていなかった。水子供養の始まりは、中絶した多くの女性が自らの行為に罪悪感をもたされたことに始まるといえる。その罪悪感は、本来生まれるはずの命を殺したという理由であった。仏教の不殺生戒は格好の教義である。殺人犯のごとく責められたという女性もいる。生まれなかった胎児が「水子霊」となって胴喝したというのであろうか。女性がどのような心理状態に陥ったかは容易に想像できる。強迫観念に怯えたのである。「夜中に金縛りにあった」という女子大生もいる。生活のなかでおこるさまざまな苦労や不安などは、どの人の人生にも起こり得る。が、中絶に結びつけられたとき、女作は水子供養に救いを求めざるを得ない。高度維済成長とともに水子供養が中絶の新たな宗教儀式としてさかんになってきた。資本(宗教)は、それを効率のよい余剰利益を生み出す装置として利用しているのである。

 こうした水子供養の救いの論理は、近世以降の日本仏教の救いの論理と本質的にはなんら変わることがない。幕藩体制とともに檀家制度が敷かれると、その社会秩序を維持する思想として「業論」が人々に教化された。業論とは女惟、被差別部落民、障害者、ハンセン病患者など社会的弱者の地付や身分におかれた人々に対して、それが「あなたの前世の報い」であると教化し、そのために差別を受けていても現世では諦め、来世、極楽浄土に生まれることを願う信仰を仏に捧げなさいというものである。信仰を生活の拠り所とし、現実から差別され疎外されていても我慢して生きる、そういう生き方を強要されたのである。現実に苦しんでいる人々を前世からの決定だとして諦めさせ、信仰によって現実の不条理をその人の責任に帰すのである。「業病」も同じ目的をもって教化された。前世の悪業の報いでおこるとされた悪い病気という意味であり、不治とされた病に転用した。ハンセン病は業病と呼ばれたのである。このような業論は、身分制を強固に堅持する役割を補完し、こうした宗教の役割は、近代に引き継がれた。

 近代天皇制国家では、仏教は、「国家神道」に追従するかたちで天皇制を補完し、「君のため国のために」命を作げることが信仰者の生き方であると教化した。(註28)仏を信仰することは、天皇を崇拝することと等価であると説き、女性には「君のため国のために」「産めよ殖やせよ」を強制し、「日本の母」になることを求めた。父・夫・息子が戦死したら靖国神社に「英霊」として祀られ、守護神になるというごとき教化であった。戦前戦後におこった新宗教も一部の宗教を除いて基本的には変わらない。天皇制国家体制に追従し、仏教寺院と同様な信仰のあり方を説いた。

 水子供養の実態をみると、崇りや罪悪感を抱かせることのみに力を注いでいる方法は近世近代に行われた習俗化した宗教儀礼を継続した範疇内にある。「優生保護法」を利用し、経済が上向きになる頃合いを見計らって「水子霊」の崇りを説いたのも、時流に乗り、弱者を真に解放する宗教行為というよりも、「水子霊」をモノ化し、それに崇りという意味を付加し、その結果、高い余剰資本を生み出す、宗教側にとっては、まさに玉手箱だった。しかし、そのような宗教の魂胆を見抜く力をもたない女性は、崇りや罪悪感を忌避したいために水子供養をせざるを得なかった。水子供養をすることによって、宗教によって刷り込まれた罪悪感や崇りから解放されると信じたのである。先に紹介した女子大生の「金縛り」も水子供養によって解放されたと信じられている。小さな白や赤の前掛けをかけた地蔵の傍らで水子を慰めるとでもいうのだろうか、色紙の風車が揺れる。その光景には、中絶というかたちで責任

を果たした女性が、その責任を免れた男性を訴えるまなざしさえも感じる。水子供養を強いられた女性は中絶経験者に限らない。流産・死産の経験者までも水子供養を行っている。そこでの女性は「水子霊」に呪縛されている。しかし、彼女たちは水子供養を強いられたとは思っていない。宗教心の発露であり自発的に行っていると思っている。

 宗教が果たすべきは、弱者を利用する信仰であってはならないということに尽きる。しかし、それを看破することができるのは、信仰する側にある。崇り信仰と先祖供養にあぐらをかき、ぬるま湯に浸かった生活をする宗教者には期待も反省もできないからである。その水子供養は先祖供養に連なっている。つまり、先祖供養から解放されない限り、水子供養は存続し続けるだろう。人間の弱さは「死」の問題と切離することができない。自己の死と関係者の死にどのように向き合うのかが問われている。慰霊や追悼とは、それからの課題であるはずである。

 「英霊」を拠り所とする「靖国の母」と水子供養を行う女惟に共通した問題を読みとることができるとするなら、それは、「個」の自立がが損なわれており、国家や宗教を無批判に内面化し受け人れているということである。そこには、国家や宗教を相対化する「個」としての主体性が非在である。「英霊」も、水子霊も国民の同一性を形成することを目的にしている。同一性によって隠蔽されるのは、「個」である。「英霊」や、「水子霊」は、まさにその目的のために存在する。だからこそ、それらの霊は、つねに国家や宗教、そして右派政治に利用されるのである。

 (三) 女性の身体と水子供養
 水子供養が女性の責任とされた背景に、妊娠出産を女性の役割とし責任をもたせてきた文化が存在する。こうした文化のあり方に異議を唱えたのがフェミニズムである。中絶の問題において、江原由美子は、『自己決定権とジェンダー』のなかで、生殖医療にかんする問題を「自己決定権」と関係するとして論じている。身体の自己決定権は「自分の身体は自分のもの」だから、すべて自己決定に任せられるべきだと考えられ、他人に迷惑をかけない限り、何をしてもよいのが身体の自己決定権であり、自己決定権は他者とのかかわりを拒否するように考えられてきたが、江原は、それが問題であると提起している。(註29)つまり、身体は「社会の再生産という大きな回路、及び対面的相互行為場面というミクロの回路を通じて、ジェンダーによって『社会的に構築』されている」(註30)という。産みたくないという自己決定が実現するためには、他者によって強制されないというだけでは不十分であり、その自己決定を実現する社会関係、社会組織が必要であるというわけだ。それを阻んできている言説装置に、「生殖機能は女が持つ」「妊娠不妊は女性の問題」「子どものことは女性の問題」などの「身体の社会的構築」が生み出されてきたと指摘する。そして、それが、女性の都合で胎児の生命を奪ってよいのかという問題にすり替えられてきた。

 さらに、「母性」という神話によって、妊娠に関するあらゆる問題が表象され、女性自身もその「母性」を内面化してきたという問題がある。それは、矛盾に満ちており、妊娠に関しては、女性の責任とされる一方で、女性は、子どもを私物化することを禁じられる。「母性」は、中絶に対して次のようにいってきた。妊娠が始まって以来、女性の身体に胎児が存在するようになる。従って、中絶は、胎児の生命を殺すことになると。「生命」の価値が「地球よりも重い」などと宣伝され、他者の生命を絶つことは、法律的にも殺人罪という考え方が成り立つ。結果、中絶は女性が胎児の生命を奪う罪悪な行為とされてきたといえる。

 ではこのような生命の意味についてどのように考えていけばいいのか。江原の考えからみていくことにしたい。江原は臓器移植問題の臓器の提供から、臓器移植を認めるかどうかは異論があるが、提供者が自己の臓器を提供することに同意している場合に限られる点を参考に、「妊娠の維持には女性の同意が必要である」(註31)こと、「もし女性の同意がないまま妊娠・出産を強要するとすれば、それは女性を生殖の道具として扱う」(註32)ことになるから、「『胎児は女性の一部』だから『女性の自己決定権』が認められるべきだというのではなく、まったく逆に、『胎児は別の人格であり他者である』からこそ、その他者のために身体を提供するという妊娠・出産には、本人の同意を確認する機会、すなわち『女性の自己決定権』が認められなければならない」(註33)と主張する。ここから先の生命については、明確な説明を読むことができないが、中絶が女性のみで行われている現実は、「本人の同意がない妊娠」であり、「他者のために身体を提供できない場合」の中絶であると理解できる。但し、ここではまだ、胎児をどこから生命としてみるかというこれまでの議論の答えには至っていない。

 胎児の生命という問題は、人間の胚を利用するという生命倫理の問題とも関係している。生命科学の急速な発展は、クローン人間を生むことにとどまらず、遺伝子をもった臓器を動物の体内でつくることが可能になるという。その結果、胚を利用する問題をどのように考えるかということになる。そのとき問題とされているのは、「人の命の始まり」の問題である。中絶反対派と擁護派の論争の争点になっているのも、どこからが人の命の始まりとするかに始まっている。アメリカの中絶倫争を分析した荻野美穂の『中絶論争とアメリカ社会』によると、中絶反対派の命の始まりの考えは、「受精または受胎の瞬間からすでにそこには独立した『人間』が存在する」(註34)という。これはカトリック教会の考えと一致する。中絶擁護派の考え方は、「一つは『生命』や『人間』という語の解釈の多様性ないしは相対性を強調し、したがって中絶について単一の価値観のみを規準として押しつけることはできないとするもの、もう一つは胎児は定義上法的に保護されるべき権利を持った『人格としての人(person)』とは言えず、したがって中絶も『殺人』にはあたらないと主張する」(註35)のである。アメリカの中絶論争の中絶擁護派にも「人の命の始まり」を定義するのに統一見解がない。(註36)

 では何をもって胎児の命の始まりと考えればいいのだろうか。それに示唆を与えるのが、宗教学の島薗進が「人間の胚を利用することの是非」で示した考えである。「人のいのちとなるはずのものは、どれほど小さなものであろうと人の心やからだとなるいのちの萌芽である。したがって、基本的には人であり、モノのように扱うべきものではない。あえて『いのち』かさもなくば『モノ』かというような二分法を用いるとすれば、胚が『いのち』に属するのを否定するのは奇妙なことだ」(註37)として、「『生まれゆく存在はモノではない、人のいのちの萌芽だ』ということを確認し、だからといって胚の操作や利用の可能性が百パーセント否ではない」(註38)という主張である。この島蘭の思考に、江原の女性学からの議論を重ね合わすことができれば、中絶に対する一つの方向が導き出せるのではないかと考える。「生まれゆく存在はモノではない、人のいのちの萌芽だ」なのであり、なおかつ「胎児は別の人格であり他者である」としたら、他者のために身体を提供する妊娠には、本人の同意を確認しなければならないのは当然の帰結といえる。そして、本人の同意がない妊娠=望まない妊娠に「女性の自己決定権」が認められてもよいという、こうした考え方が、中絶を巡る理論を構築するであろう。さらに、アメリカの中絶擁護派が掲げる「たとえ直接生命に危険が及ぶのではなくとも、当の女にとっては妊娠出産によって人生設計が狂ったり生活に大きな支障が出ることが、まさに『致命的な』打撃と受けとめられる」(註39)という主張への理解も進むことであろう。

 仏教が中絶をどのように考えるかの明確な考えは出ていない。それは生命の始まりをどこで考えるかという問題についても同様である。現実の問題に対応していないのに、中絶を行った女性に対しては、罪悪感をもたせたり、崇りがあるという。こうした「水子霊」が、先述したように、仏教や日本人の霊魂観に依存していることは論をまたない。しかも、そうした精神が、近代化とともに薄れるのではなく、「新新宗教″におけるケガレ(霊障)祓いの呪術や、血液型占い・星座占いをはじめとする各種の占いに、けっして無関心ではいられない現代人の姿が成立しているのである。それは均質化社会の中で、つねに曖昧になりつつある主体としての自己同一性を必死に確認しようとする作業」(註40)という見方とも連動する。戦後、日本人の宗教儀礼に定着した水子供養は、「ケガレ(霊障)祓いの呪術や、血液型占い・星座占いをはじめとする各種の占い」の範囲でも受容されてきただろう。その「水子霊」は、人に危害を加える。それは生まれてくるはずであったのに抹殺された、その死に方が尋常ではないから崇ると、その怖さを強調してきた。しかもその崇りは、中絶をした女性にのみ影響を及ぼすのではなく、家族にまで影響があるとされ、中絶がよりいっそう罪深いと説かれている。しかし、水子供養は、決して中絶の社会的な解決をもたらしてはいない。

 近代以降、日本の生死の意味は、「英霊」や「水子霊」という、国家や宗教の余剰資本としてつくり出された「霊」イコール命の言説と深く関わっている。「英霊」が生み出された国家で中絶は、堕胎罪という犯罪であった。また「水子霊」は、神話言説で、命の意味を女性の責任として、その意味を粉飾してきた。そして、それぞれが、実は神話言説によって構築され生成されているのが紛れもない事実である。そうした神話言説は、カントが指摘した「人間性の権利」(註41)をも侵害しているといえるのである。「水子霊」から解放されることは、霊とは何かを問うことから始まる。それは、宗教が果たしてきた水子供養の役割が女性にどのような救いをもたらしてきたかを問う作業に通じる。その理解の場は、フェミニズムが提供している。少なくとも、現代においては、フエミニズムの思想に出会うことが、「水子霊」からの解放につながる第一歩であるといえるだろう。

 おわりに
 「英霊」と「水子霊」という二つの霊について考えてみた。二つの霊はまったく関係がないようにみえるが、結論は、二つとも女性に深く関わり、それらの霊は、あたかも女性にだけまつわるようにすり替えられ、その霊に呪縛されることで、国家と資本と宗教に支配されていることが理解できる。しかも「母性」神話を絡ませ、それらの霊の本質を隠蔽している。その国家とは、天皇制国家であり、資本は、軍靴を金融資本に換え、世界に進出させ、アジアを始めとする途上国から多くの資源を運び、利益をもたらすことに腐心してきた資本である。

 日本の女性が、この二つの霊に呪縛されていることは、「個」の確立への大きな障害のひとつである。また、「母性」神話の背景に性差別の実態があることを、それは示している。つまり、それらの霊は、性別役割分業を社会秩序とみなし、それを擁護推進する役割も担ってきた。また、妊娠・出産こそが一人前の女性の役割だとする。そして、霊は女性を支配し、性別役割分業を当然のシステムと捉え、性差別の温床をまき散らしてきた。先進国のなかで、もっとも女性のライフスタイルがM字型(結婚出産で仕事をやめ、子育て後働くパターン)を強めているのが日本の現実である。その一方で現在、「資本の自己増殖運動」(註42)を隠蔽した政治プログラムによって、男女共同参画社会という言説が広まりをみせているが、「男女共同参画社会基本法」が隠蔽している世界性とは、まさにこれらの霊に呪縛された女性たちを食い物にするはずである。「英霊」を改めて生み出す政治プログラムがすでに右派体制にはある。それは、資本の自己増殖を補完する市場原理から解放されることのない社会、人間関係を破壊し続け、「自然」ならざる人間の生死を支配しようとするだろう。日本人の心性や生活感のなかに「刷り込み」された「英霊」と「水子霊」が、国家や資本や宗教を支配する権力機構の中枢にある者や右派にきわめて有効な装置として機能しているということは、まさにその証である。その「刷り込み」のためのもっとも大きな存在として、天皇の存在が機能しており、マスメディアがその存在を日常的に「さらす」役割を担っているのである。

 拙論では、霊という存在において、近代以降の日本が、性別役割分業の解体が進まない性差別社会を補完していることを分析する試論である。そうした霊を生み出す社会の構築のシステムとして天皇の存在をみてきた。また、その生成形態をみてきた。また、資本と「水子霊」においても等価な形態をみてきた。しかも、その形態には、拙論では論じなかったが、性暴力やセクシュアル・ハラスメント、ドメスティック・バイオレンスなど、女性の人権を侵害する多くの状況を生み出してきたし、今後も生み出すだろう。ではこうした性差別をなくすために何ができるのか。それは、決して法律や行政に限らない。むしろ、そうした公的対応は、絶えず「英霊」や「水子霊」という亡霊たちの呪縛に引っ張られているからである。つまり、その可能性とは、それらの呪縛を正当化する国家や資本や宗教をいかに相対化できるかにかかっているといえよう。

【註】
(1)本覚思想については、拙‡『フェミニズムが問う仏教−強健に収奪された自然と母性』三一書房1996.第2章参照
(2)柄谷公人『日本精神分析』文数春秋、2002.102頁
(3)マルクス『ルイ・ボナパルトのプリュメール18日』岩波文庫、2002.17頁
(4)(3) に同じ、17頁
(5)多木浩二『天皇の肖像』岩波現代文庫、2002.新書参照
(6)ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』岩波書店、2001.下巻5頁
(7)大江志乃夫『靖国神社』岩波書店、1987.105〜106頁
(8)(7) に同じ、125頁
(9)(7) に同じ135頁
(10)(7) に同じ、135頁
(11)西郷信綱『神話と国家−古代論集』平凡社選書、1977.133頁
(12)(5) に同じ、1988.66頁
(13)拙著『フェミニズムが問う王権と仏教−近代日本の宗教とジェンダー』三一書房、1998.167〜188頁参照
(14)(7) に同じ、140頁
(15)テオドール・W・アドルノ『否定弁証法』作品社1996.440〜441頁
(16)(15) に同じ440〜441頁
(17)藤原彰『餓死した英霊たち』青木書店、2001.参照
(18)(7) に同じ、147頁
(19)飛鋪秀一編『愛国婦人会四十年』愛国婦人会、1941.21頁
(20)丸山眞男『丸山眞男集』第3巻 「超国家主義の論理と心理1995.22〜23頁
(21)田中丸勝彦『さまよえる英霊たち』柏書房、2002.53頁
(22)(21) に同じ、94頁
(23)(15) に同じ、440
(24)カント『永遠平和のために』岩波文庫、1985.17頁
(25)(12) に同じ、200〜204頁参照
(26)石川達三『生きている兵隊』新潮文庫、1973.117頁
(27)(26) に同じ、115頁
(28)(12) に同じ、57〜85頁参照
(29)江原由美子『自己決定権とジェンダー』岩波書店、2002.195〜231頁参照
(30)(29) に同じ、232頁
(31)(29) に同じ、245頁
(32)(29) に同じ、245頁
(33)(29) に同じ、245頁
(34)荻野美穂『中絶論争とアメリカ社会』岩波書店、2001.207頁
(35)(34) に同じ、210頁
(36)(34) に同じ、210〜218頁参照
(37)島薗進 「人間の胚を利用することの是非」『世界』岩波書店、2002..月号、110頁
(38)(37) に同じ、111頁
(39)(34) に同じ、231頁
(40)和田俊昭『日本人の習俗と信仰』本願寺出版社、1991.17〜18頁
(41)(24) に同じ
(42)(2) に同じ、209頁