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    宗 教 と 女 性
−−大峰山の女人禁制からの開放を目指して−−
第6回 篠山市同教宗教部会研修会  2005.2.15


■関西大学人権問題研究室研究員 源 淳子 氏

関西大学・立命館大学等 非常勤講師
女性学・ジェンダー論担当
おことわり
 この資料は研修会の録音を文字化し、源先生の目を通していただいたものですが、小見出しについては市同教でつけたものです。

はじめに
 与えられましたテーマが、「宗教と女性―『大峰山』の『女人禁制』からの開放を目指して―」ということなのですが、みなさんにとって「『大峰山』」が遠い存在であるか、近い存在であるか、いかがでしょうか。このなかには「大峰山」に登られた方もいらっしゃるのではと思います。修行の目的で、または登山の目的で「大峰山」に登られた方がいらっしゃると思います。しかし、女性はどんな人であれ、登ることができない山です。その「大峰山」にどうして関わるようになったかをお話したいと思います。

 私は島根県の山奥に生まれ、家が浄土真宗の寺でした。生まれた時から仏教と関わる生活をさせてもらいました。しかし、私がお寺に生まれたかったか、女に生まれたかったかと問われると、そうでもないのです。つまり自分で選ぶことができないということです。「親も選べない、生まれる場所も選べない、自分の名前さえ自分でつけることができない」という、そういうさまざまな制約のなかで私の命が産声をあげたわけです。寺で生まれたせいだと思いますが、小さい頃からいつも死が隣り合わせにありました。家族の死ではなく、ご門徒さん、檀家の方の死が隣り合わせにありました。父が住職をしていましたから、お通夜やお葬式に行って、そして帰ってきて、晩ご飯を一緒に食べる時に、さまざまな死の話をしてくれました。ですから、日常的に死が私の家族にはありました。


なみだ
 大きな寺ではなかったので、ご門徒さんのお家に死者が出るというのはそう度々ではありませんでしたが、話のなかで私はず
っと「人の死」を聞いてまいりました。その死のなかにも、いろいろな死があるということです。
 子ども心に覚えているのは、何歳になっても人間が死ぬということの大変さです。90歳を越え、100歳近くなって、もう何も思い残すことがないような方の死であっても、周りの人にとって悲しむ死と、そうではない死があるということを子ども心に覚えています。女性問題をやるようになって振り返ってみると、「あっ、そうだったんだ」と感じることがあるのは、家制度はなくなったものの、90歳、100歳になった人は、「長男のお嫁さん」が看てきました。父が言うには、そういうお嫁さんの涙を見ていて、「その涙がほんとうの涙ではなくて、つまり悲しみにくれる涙ではなくて、どこかホッとする涙という、そんな涙もある」ということでした。また、私の心のなかに鮮明に覚えているのは、順番とされない死のあり方です。子どもさんが亡くなった時です。順番として、年を老いたものが先、親と子でいうと、親が先、子どもが後というあり方のなかで、順番ではない時に親の嘆き方、親の悲しみというのは、言葉にならないものがあるのですね。そういう家族のあり方を父が目のあたりにして、晩ご飯の時に「今日のお家はこうだった、今日のお家はこうだった、こんな人が亡くなって、こんなふうに悲しんでいる人や、いやいやちょっとホッとするような人もいた」というような話を、私は小さい頃から聞いてまいりました。だから、死というものが私にとって遠い存在ではなくて身近な存在だったのです。

 私は高校生まで、その島根県の山奥に住んでいたのですが、高校生の終わりまで、死者を弔い埋葬する時に、まだ火葬はありませんでした。寺の本堂の横に墓がありまして、そこに土葬で埋められるのですね。今も覚えていますが、あるおじいさんが自殺をされたのです。行方不明になった晩から、近所の人がみんな捜しに出て、子どもも眠れないというそんな夜だったのですが、死体が見つかって、自殺だと分かって…。その次の次の日にお葬式があり、本堂の横の墓地に埋められたのです。埋める時に、掘る人がいるわけです。墓を掘る人の職業というのは、その地域でどんな人が掘っているのか、私はいつも同じ人が掘るので、この人は墓を掘ることを仕事にしているのかなと子ども心にそんなふうにしか思えなかったのですが、死と穢れと、それがタブー視されることによって、穢れを忌避するという考え方が生まれ、穢れを忌避することに関わる人たちが定まってきたということが、後に部落問題や女性問題を学びながらわかってくるようになりました。だから、同じ人が何回も何回も、どの墓の時も掘っているのを見ると、その人たちの職業、その人たちの地域のことが分かるようになりました。つまり、人間が死を穢れとし、その穢れが職業差別や部落差別や、さまざまな差別を生んできたということを知りました。今、そうした差別がなくなったかというと、まだまだいろいろなところで、いろんなかたちで残っています。


かなしみ
 みなさんがどんなかたちで家族の死と向き合っていらっしゃるのか、それはもうさまざまだと思いますが、私が高校生の時、初めて家族の身近な人である曾祖母を亡くしました。曾祖母が亡くなった時、すぐに何をしたかというと身体をきれいにしたあと、身体を折り曲げたのです。足を折り曲げたのですね。そして、手を合わせました。今はほとんど寝たままでお棺に入れる寝棺ですが、曾祖母の時には、桶の形をしていたのです。棺桶に死体を入れようと思うと、体がまだ柔らかいうちに、足や膝を曲げて、入るような形にしていくわけです。父や母がそれをしている姿を見ながら、人間が亡くなっていくという姿をずっと見ることになったのです。そして時間が経つと、死体はこんなに冷たいものかというのを自分の肌で感じたのを覚えています。人間は必ず死んでいくのですが、そういう家族のなかでの死者をどう看取っていくのか、そしてどんなかたちで送るのか、それは、さまざまに人間関係が変わることや、時代が変わることで、土葬がなくなり、病院で亡くなっていくということなど、いろいろなことが変わってきたのですが、変わらないものとして、家族の大事な人が亡くなっていく悲しみというのは、いつの時代でも同じだと思います。そういう悲しみとどう向き合うのか、その悲しみをどう乗り越えていくのかという問題も、どのように考えていけばいいのかと思います。

 みなさんご存知の、ビートたけしさんですが、名前は忘れましが、ビートたけしさんの大事な友だちで、テレビに出ている人でした。その彼が壮絶なガンで若くして亡くなってしまったのです。ビートたけしさんがテレビに出て、彼なりの悲しみの乗り越え方だと思ったのですが、「人間は誰でも死ぬんや。彼もたまたまガンだったけれど死んでしまった。いずれ自分も死ぬ。みんな死ぬんや。それは平等なんや」と、悲しみをこらえるようなかたちで記者会見したのを覚えています。間違っていませんよね。すべての人は死ぬ。すべての人はこの世からいなくなるという意味で亡くなるのですが、ビートたけしさんがひとつ忘れていると思ったのは、すべての人が同じ死に方をしないということです。それぞれが、みんな違う死に方をするということです。その死に方は、どんな死に方であれ、生きている時の人間関係で、死がどういう意味を持つかということと関係していくのだと思います。

 先ほどの90何歳のおばあちゃんを亡くした時、お嫁さんが涙を流しながらも、どこかホッとするというのは、「長男の嫁」に課されたのは、「嫁に行った先の夫の親を介護・看護するもの、看取るもの」という役割が決められていたから、女にとってあたりまえのこととされたことをしたその長さ、そのしんどさが、ほんとうは悲しみであるかもしれないのに、どこかホッとさせてしまうことがあったのだと思います。それは生きている時の嫁姑の関係を表しているのだとも思います。その嫁姑の関係を、夫である男性はどのようにみてきたのかと思います。夫からすると、自分のほんとうのお母さんが亡くなるということですね。でも、妻からするとほんとうのお母さんではなく、長い間しんどい思いをして看てきたのですから、亡くなった人を思う気持ちというのは、夫と妻とで当然違いが出てくるのだと思います。その違いというのが、この社会のなかで作られてきたものを、それぞれがあたりまえにして果たしてきた考え方、それをやった上での死への向き合い方、人間関係を持った上での持ち方ということになるのだと思うのです。父が話した、「今日行ったところのお葬式で、お嫁さんが涙を見せていたけれど、あの涙はほんとうの悲しみではなくて、ホッとした涙だった」というその涙の意味を、後に、私の父が亡くなった時の母の姿を見て、「ああ、私の父親は、ほんとうは自分のことがわかっていなかったのだなぁ」と思いました。


母の解放
 父親が亡くなったのは20年前のことです。ガンを宣告されたのです。本人には最期まで言わなかったのですが、でも自分が僧侶であるということと、どんどん弱っていく我が身を見て、もう治らない病気だということをわかって亡くなっていったのです。私は京都に住んでいたのですが、お葬式の後、母の状態をみると、すぐには京都へ帰れないくらいでした。でも仕事を持っていましたから帰らなくてはいけないのです。夕方になると、母が「私はこれから、どうしよう」って言うのですね。お葬式が終わって、親戚も帰っていき、近くにいた弟も帰っていって、明日は私が帰らなければいけないという時に、母が私に「明日から、どうしよう」と言うのです。そんな母を私は何もできない、どうしてあげることもできなかったのです。母がこう言ったのです。「犬を飼おうかしら、ネコを飼おうかしら」と。私が言えるのは、「犬でもいい、ネコでもいい。何でもいいから、お母さん、飼って」ということだけでした。

 そんな話をしながら、私はあくる日京都に帰っていったのです。時間があるたびに毎晩のように母に電話をしました。元気になって欲しいという思いと、「どうしているのかなぁ」という心配とで電話をかけました。5月に亡くなって、その当時の大学は早く夏休みになっていましたので、夏休みになってすぐ帰ったのですが、もうすごく元気になっているのです。見違えるように。「明日から私はどう生きようかしら」と言っていた言葉とはまったく裏腹に、すごく元気になっていたのです。
その前から私は女性問題をやっていましたので、父がまだ元気のとき、両親を夫と妻の関係で見ながら、母が夫を「お父さん」と呼んで、夫に合わせているという感じがしたのです。女性問題をやると、夫は夫で自立していくことの大事さ、妻は妻で自立していくことの大事さ、お互いが「私が大事」というところから出発をして相手を大事に思うという関係はなかなか作れないということが分かったのです。それを自分の親に当てはめてみたら、まさにそこに社会が作った「妻は夫に合わせるもの」ということを、私の母がやっていたのです。母のしんどさがみえてくるので、私は何度も何度も母に「自分が言いたいことを抑えないで、ちゃんとお父さんに言ったらどう? お母さんは、お父さんに合わせているでしょ。自分がちゃんと思っていることあるじゃない。それをお父さんに言ったらどうなの」と言いました。ところがその時、母は私をたしなめるように「夫婦のことは、娘のあんたにどうしてわかるのだ。そんなことわかるものじゃないから、ほっといて」というようなことを言いました。

 夏休みに帰った時に、母が元気になっていたのですが、その母が私に「あんたが言っていたことを今はじめて私はわかった。お父さん(自分の夫)から解放された」と言いました。この言葉は忘れないのですが、「あんたが言っていたこと(お父さんに合わせているでしょ)は、毛の穴から入るように私に入っていた。結婚とはこんなものだと思っていて入っていた。だからお父さんに合わせることが大事だと思っていた」と。

 私の母は大正生まれなのですが、その時代社会のなかで作られたものを、私の父はそれをあたりまえに受け取り、私の母は女だからあたりまえに受け取り、それを毛の穴から入っていく如くあたりまえにしていたのです。さまざまなことがそういうかたちで毛の穴から入っていくように、私たちのなかであたりまえになっているのだと思います。それを私の母は、夫を亡くすことによって、夫に対するしんどさ、ある意味で重石から解放され、「あんたが言っていた女性問題は、こういうことだったのね。初めてわかった。お父さんには悪いけれど、私の最後の人生、こんなに自由で、こんなにいい気持ちになれることがあるとは思わなかった」と言って、今84歳になってもまだ元気でおります。

 それはどういうことかというと、結婚をしたならば、男の人は男の人で、男性としてあたりまえと思うことを実行していく。女の人は女性として、あたりまえとされたことをそのまま実行していって、「結婚とはこんなものだ。少々いろいろなことがあるけれど、お互いに我慢していくものだから仕方がないもの」として、結婚生活があったと思うのです。


家と男と女
 身近な人としての関係を持ち、相手のことを思いやりながら自分を大事にし、自分の人権を守りながら、相手の人権をも守り、相手の人間としての尊厳を認めてきたかというと、そうではなかったと思います。どちらが我慢したかというと、強い者に弱い者が合わせるというかたちで人間関係が作られてきたのではないでしょうか。弱い者は強い者に合わせているのです。しかし、合わせているということを自覚していないのです。強い者も弱い者から合わせてもらっているというようには自覚していないのです。ほんとうは、その「合わせている」というところに差別があるわけです。

 戦争が終わるまで、日本の社会は家制度がはっきりとありました。その家制度とは、「女・子ども」は一括りにされていました。どのように考えられていたかというと、「女は嫁に行くもの。嫁に行って子どもを産むもの。その子どもも、家を継ぐ男の子を産むもの。そして、社会が求めている兵隊になる男の子を産むもの。労働力としての男の子を産むもの」という、国家が作った考え方をあたりまえにしていたのです。しかし、その当時の女の人がそのように決められたのは、国家によって作られたもので、そのことが私の人権が侵害されているものとは思っていなかったのですね。あたりまえとして、毛の穴から入っていくように、「女に生まれたから結婚をしてあたりまえ」だったのです。私の母もそうなのですが、相手の男性の顔も知らないで、一度だけお見合いをして結婚生活がずっと続いたのですが、そういう結婚でもあたりまえだったのです。そして相手に合わせ、家に忠実に、夫に忠実に、そして、夫の両親を看て、という生き方をあたりまえとしていたのです。これは男の人もそうなのですね。そのあたりまえができることは、「自分に対する大きなものに合わす」ということなのです。だから、女の人が合わせたものは夫や家というわけです。

 では、男性はほんとうに自由だったかというとそうでもないのですね。男性は「君のため、国のため」という大きなものに合わせていたわけです。天皇のため、国家のため、家族のために戦争に行くことをあたりまえに受け入れて、なかには自分の命が大事、死にたくないと思った人もいるでしょうが、その時代社会が作ったものに逆らって生きることはできなかったのです。国家は国民の命を「鴻毛よりも軽い命」としたのです。鴻毛というのは、コウノトリ、大きな鳥の毛のことです。「毛よりも、男の命は軽いのです」と国家が作ったのです。『軍人勅諭』に書いてあります。君、国という大きなものに合わせている一人一人の日本の男性がいたのです。そういう男性は、自分たちが国によって、大きな権力によって使われているということは思いもしなかったし、ほとんどの人がそれをあたりまえにして生きていたのです。そうしないと戦争にも行けなかったでしょう。多くの人が戦争によって亡くなったのですが、それをあたりまえにする社会のなかで、そこに差別があることに気がつかなかったのです。私の人権が何よりも大事で、私の命が何よりも大事ということは教えられなかったのです。

 戦争が終わって、「民主主義」、「人権」ということがいわれるようになった時、すべての人の人権を守らなくてはいけないと変わってきたのに、戦争の時の考え方がきれいに払拭されておらず、戦前をきちんと総括して、「あの時代のなかにあった差別の問題はおかしい」ということを学び、気づき、それを乗り越えていかなくてはいけないという戦後だったのでしょうか。

 高度経済成長を果たした日本の男性は企業戦士といわれました。自分の命も顧みずに、今度は一生懸命に会社のために働いて、「過労死」で亡くなった人もいます。今も「過労死」はなくなっていませんし、40代50代の男性の自殺率が非常に増えています。なぜ、死ななければいけなかったのかということです。私はあまり遠くへは行かないのですが、ここ2年の間に4度JRの人身事故に巻き込まれたことがあります。一度は篠山から帰る時に、大阪駅の手前で電車が止まってしまいました。そのあと、ニュースで人身事故だったということを知りました。私が遭った人身事故のすべてが40代・50代の男性の自殺でした。自分の命をどうして断たねばならなかったのでしょうか。きっとこの社会のなかに合わせて生きてきた生き方のなかに、自分を苦しめてきた問題があったのでしょう。でも、死ななければいけないほど苦しんだことを誰かに言えたならば、誰かにわかってもらえたならば、死ななくてもすんだのではないでしょうか。一番にそれをわかってほしい妻にもきっと言えなかったのだと思います。わかってもらえるだろうという人がその人にいなかったからでしょう。死ななければいけないほどの悩みを誰かに言えたならば、その人は死なずにすんだかも知れないのです。

 みなさん、いかがですか。死ぬほどの悩みではなくても、人間が生きているなかではいろいろな悩みがありますよね。ストレスも溜まります。そのストレスや悩みを誰かにわかってもらえるという、その「誰か」がいますか。私は学生と接していて、「誰に言えるかな」ということを学生から学びました。ほんとうにわかってくれる関係をもっている人が少ないということをまなんだのです。


セクシャルハラスメント
 人権侵害はいろいろな意味で起こっています。セクシュアルハラスメントを受けた女の子、同性愛で苦しんでいる男の子や女の子、レイプされた女の子などです。今年度にあったのですが、レイプされた女の子が、つき合っている男の子に告白したのです。セクシュアルハラスメントを受けた人は誰にも言えないほどの悩みを抱えるのです。被害者は絶対多数で女性が多いのです。男性に加害者が多いのです。被害者に女性が多くて、加害者に男性が多いということは、この社会に何があるかというと「女性差別」があるからです。ここにいらっしゃる男性の方は、セクシュアルハラスメントもレイプも、妻に対する暴力も振るわない方だと思いますが、しかし社会では子どもは虐待され、女の人はセクシュアルハラスメントを受け、妻は夫から暴力を受けているという現実が確実にあるわけです。

 それは、社会のなかに「女性をどのようみてきたか」というはっきりと下にみてきたという「女性差別」があるから起こっているのです。女性差別の加害者は「加害の意識」を持ちません。「私が悪かったかもしれない、私の方に落ち度があったから、こんな目に遭ったのだ」と思っているのは被害者です。さまざまな暴力がありますが、夫婦間の暴力の場合、夫は「暴力を振るっている」という加害意識はほとんどありません。でも、被害を受けている妻は、「私が悪いから夫がこんなふうにするのだ」と思っているのです。言葉で罵倒するのも暴力ですね。「夫がこれだけ私に辛く当たるのは、やはり私が悪いから夫は私にこんなふうに言うのだ」と、女の人が思います。この差こそが差別なのです。

 一番よくわかるのが、早稲田大学の学生を中心にしたレイプ事件です。捕まった後に明らかになったのは、これまでにも何度も学生はレイプをしていたのですが、レイプの被害者は誰も声に出していなかったのです。最後の被害者が、勇気を出して声に出したので学生は捕まったのです。最後の被害者が、「私はレイプされた」と告発したのです。ところが捕まった早稲田大学を中心にした学生は、「合意の上だった」と言ったのです。この意識の開きは大きいですね。

 男性にとってレイプの意識はなく、合意の上だったというのはセックスということでしょう。しかし、女の人はレイプされたという被害の意識があるのです。加害者は加害の意識がなく、被害者は、「もしかして私が悪かったかも知れない」と思っているかも知れないのです。この開き、この差こそが社会のなかで作られている差別なのです。被害者はその後の人生が変わるくらいの大きな被害なのです。世のなかにある差別というのはなかなか気づかないということです。受けている側も、自分が悪かったかも知れないと思うようなこと、そして「大きなものには合わせていかなくてはいけない」と思っているその意識が社会のなかに存在する限り、差別というのは見えにくいし、見えてこないのです。


大峰山と女性
 長い前置きになりましたが、そういう差別がある社会のなかで、私は「大峰山」に関わったのですが、「非常にわかりやすいのに、どうしてこんなにわかってもらえないのかしら?」というのが、「大峰山」の開放運動をやってきた実感です。「大峰山」は、最初のころは男性の修験者のみが入れる山でした。一般の人は入れませんでした。ところが、江戸時代になって一般男性も山に登れるようになりました。だから、「大峰山」というのは男の人なら誰でも登ることができる山です。修験者にとっては宗教的な意味を持っている山でしょうが、一般の男の人で、登山という目的を持っている人には、宗教の意味はないということです。しかし、女の人はたとえ修験道の道を歩んでいる修験者であろうと一切入れません。4カ所の結界門・登山口があるわけですが、その登山口から女性は一切登れないのです。私は普通の感覚しか持っていないので、すごくわかりやすいのですね。「どうして男が登れて、女が登れないの?」となるわけです。女性だから登るのが難しい山ではないのです。女の人も、「そんな山は平気」という人も出ています。男の人でも、あの山に登れない人だっているでしょう。でも、女の人だって登れる人はたくさんいるのです。どうして、男の人は登れて、女の人は登れないか。「それは何ですか」と考える時、私などはすぐに「女性の人権が侵害されている。これはおかしい」というふうに考えるのです。ところが、それをおかしいと考えない人がたくさんいるのです。そこが、女性問題をわかってもらえない難しいところなのだと思いました。

 みなさんにレジュメをお配りしていますので、あとでゆっくり見ていただければいいと思います。私は日本の宗教の問題をやっており、以前から「大峰山」に女性が入れないのはおかしいと思っていましたので、世界文化遺産に登録されると聞き、奈良の女性たちを中心に、「これはやはり開放されなければおかしいのではないか」と行動を起こしていったわけです。これまで日本のなかでは問題にはならなかったし、大きく声を挙げる人もいなかったのですが、世界文化遺産ともなれば、外国からも女性たちが来るでしょう。その女性たちがここまで来て、「女の人だから登れませんよ」と言われたら、それは日本の恥じゃないでしょうか。「おかしいじゃないか」ということで、開放運動を始めたのです。でも運動するといっても何をしたらいいかわからないというのがあったのです。「署名活動をしようか」ということになって、知り合いの方に署名をお願いに回ったのです。篠山でも何人かの知人ができていましたので、その方たちを通して署名をしていただきました。


宗教というキーワード
 その署名活動を通してわかったことなのですが、三つのキーワードがあります。「宗教」というキーワード、そして、伝統でもいいです、文化でもいいです、「伝統・文化」というキーワード。もう一つが、「女性」というキーワードです。この三つのキーワードに関して、私が感じたところをこれからお話させていただきたいと思います。

 ハードルの低い順番にお話したいと思います。まず、「宗教」に関してです。宗教のところでハードルが高かった人は行政関係者でした。奈良県の管轄のなかにありますので、奈良県の行政にいろいろな話を持っていって、「お願いします」と言ったのです。そうしたら、「宗教に関係することにはタッチしません」というわけです。これは、『日本国憲法』に決められている政教分離、政治と宗教を同一視しないという立場をとったと思います。でも、その時に私たちが言ったのは、「いえ、宗教者だけ、宗教だけの意味を今の『大峰山』は持っていません。小学生でも、中学生でも、修行者でなくても男の人は誰でも登れるという意味で、宗教の問題はクリアできています。だから、『大峰山』に女性が入れるような啓発活動を行政からやって欲しい。そして、『大峰山』関係者に行政から開放を求めるように要請して欲しい」というような話をしました。ところが、「宗教のことにはタッチしません。『大峰山』は宗教の山ですから、タッチしません」と言われました。それが行政関係の人です。一般の多くの人は、その「宗教」のキーワードはすぐにクリアしてもらえました。


伝統文化というキーワード
 二番目にハードルが高いのが、「伝統・文化」です。忘れもしないのですが、ある大学の人権関係をやっている男の先生でさえ、「『大峰山』の開放運動やっているのです。署名をしていただけますか」と頼んだら、「いえ、『大峰山』についてはちょっと問題がありますので署名できない」と言うのです。「どういう理由ですか」と聞くと、「難しい問題です」と言うのですね。「すみません。そんなに難しく考えていただかなくて結構なのですが…。男は誰でも入れる。女は修験者でも入れない。ここ一点だけでもよろしいのですが…。どんなふうに難しい問題ですか。あなたにとって、『大峰山』はどんなふうに難しい問題なのですか」と聞いたら、「いや、難しくて」と、中味を全然言わないで署名してくれなかった人権に関わる先生がいました。何が難しいのかわからなかったのです。何度か署名をしてくれない人に接することによってわかったのは、「伝統文化」だからということなのですね。「大峰山」の関係者のなかにも、地元の人、特に堺を中心にした役講社の人たちが開放に反対する理由のなかに「伝統文化」があります。「1300年の伝統だから変えたくない。私の目の黒いうちは変えたくない。次の世代に変わるのは、それは知らない」と言うのです。自分の時代に変えた方が歴史に残ると思うのに、そうではないのですね。「変わりたくない。今のままがいい」と言うのです。

 これは、マスコミ関係者にも問題があると思ったのですが、「『大峰山女人禁制』は伝統か差別か?」という問題提起をするのです。こういう問題提起をされたら、みなさんどう答えます。「伝統か差別か」という二者択一です。私のように「大峰山」の問題をやっている者は、二つ提起されたら「差別」というふうに答えるのですが、多くの人は「伝統」と答えたいですね。どうして「伝統」と答えるのかなということです。その伝統は最初の伝統から変わっているのですが…。


女人結界の変遷
 たとえば、最初に「女人禁制」(つまり女性が入れない)の開放は、洞川にあった龍泉寺というお寺です。1960年に龍泉寺は女性に門戸を開放したのです。建前の理由は、「龍泉寺の檀家さんは女性が半分いるから」というのです。お寺の行事の時に、「女性たちはお寺でいろいろなお手伝いしたいのに、女の人が入れないのはおかしい」ということで開放したのです。しかし、実際にそのお寺の住職にインタビューをした男性の話では、住職はこういう本音を話されたのです。洞川は水がきれいで、いい豆があって、お豆腐がおいしのです。龍泉寺は毎朝、お豆腐屋さんから女の人にお豆腐を運んでもらっている。しかし、「女人禁制」だから、住職と妻は、別の所に住んでいるのです。住職は玄関というか境内の門の所、つまり、女人結界が決まっている所までお豆腐をもらいに行くわけです。女の人はここまで豆腐を持ってきて渡すのです。雨の日も風の日も、寒い雪の日も、住職はここまで行かなければならないのです。住職が、「やっぱり、しんどい。家のなかまで持って来てもらったほうが楽だから」と言ったそうです。そのことが理由かどうかはわかりませんが、龍泉寺は女性に門戸が開放されました。最初に作った伝統も人間が作ったもの、そしていま言った「女人禁制」の場所が変わっていくのも人間の都合で変えていくものなのです。

 もう一つ、今の清浄大橋まで女人結界が変わった理由です。観光バスが行くようになり、清浄大橋まで乗せていく時に、この手前の所が「女人禁制」になっていたので、バスガイドさんが橋の手前で降りるわけです。運転手は観光客を乗せて清浄大橋の所まで行き、客を降ろして運転手一人でUターンして帰って来なくてはならないのです。清浄大橋の近くの道は狭くて、ガイドさんがいないとUターンが難しいのです。それが理由となって、清浄大橋の所まで女人開放が決まったというのですね。

 もう一つの理由が植林です。杉を植えるのです。その植林の下刈りは女の人の仕事だったのです。「女人禁制」になっている山にも植林をしています。だけどそこは「女人禁制」だから女の人は下刈りができない。男の人が仕方なくやっていたのだけれど、やっぱり下刈りは女の人にしてもらおうということになりました。「女人禁制」の領域が今の清浄大橋の所まで変わっていった理由も含めて、女人結界が変わっていったのはこういう理由があったのです。誰が変えていくのかというと、まさに人間の都合で「女人禁制」の領域を変えていくのです。1300年の伝統は、最初に作られた伝統そのままではないのです。

 「伝統」か「差別」かという二者選択を学生にしてみました。「どちらを選ぶか」と聞きました。そうしたら、「伝統」と答えるのです。どういう理由からだと思いますか。学生がはっきり答えてくれました。「楽だから」と。どういうふうに楽だかわかりますか。「伝統と答えたなら、そのあと何も考えなくていい。差別と答えたなら、その後を考えなければいけない。なぜ差別なのだろう? じゃあ、差別をしていることはおかしいではないか? おかしいことに対して自分は何ができるか? できることはどういうことなのだろう? 差別はやっぱりなくさなければいけないし、差別と言ったならば、しんどい。伝統と言ったら、楽」という答えが返ってきたのです。「差別か伝統か」という問題提起をしてはいけないということなのですね。ではどんな問題提起をしたらいいのかというときに、「伝統とは何かということをもう一度問い直しませんか」ということではないかと思うのです。1300年の伝統というけれども、では1300年の間に「最初どんなふうに考えられ、なぜ女性は入れなかったのか、その伝統はどんなふうに変わったのか」というふうに考えていかなければいけないのではないかと思います。

 そう考えると、1300年の伝統とか何百年の伝統とか、あるいは日本の文化だとかいわれてあたりまえとなってきているものを、もう一度見直す視点は何なのかということですね。どういう視点からその文化や伝統を見直していくのか。それは習慣や因習やさまざまなものも含めて、文化のなかに入るのだと思いますが、それを何の視点から考えていくのかということです。
 キリスト教のなかのギリシャ正教の聖地に「アトス山」という山があって、その山には女性が入れません。「大峰山」とよく比較されるのですが、「大峰山」との大きな違いは、「大峰山」は5月3日に戸開けをして、9月23日に戸締めを行うその間だけ修験者は登るのです。「大峰山」で一年中生活をしている人は誰一人いないのです。そのアトス山は、キリスト教の宗教者が、ずっとそこで宗教的な生活をしているのです。入山には厳しいチェックがあって、いくら信者さんでも簡単に入れないということです。「大峰山」とは大きな違いがあるわけです。まさに宗教的な山で、宗教者がそこで宗教的な生活しているのです。その山に一般の人が入るためには非常に厳しい基準があります。宗教者であっても女性は入れないのです。そういうアトス山に対して、欧州議会(EUの議会)は、「いかなる伝統慣習も人権より優先するものであってはならない。だから、アトス山は男女同権に反する」という議決を出しています。さすが、人権意識の高いヨーロッパです。

 そういうふうに考えますと、「伝統文化」とされたものを「人権」の視点で見ていくことの大切さがあるのだと思います。私たちの身の回りでは、「大峰山」は遠い問題であるかも知れないのですが、「大峰山」よりももっともっと身近な私たちの生活の足元で、伝統とされたもの、文化とされたもの、そして慣習とされたものが、日々の生活のなかにあるはずです。そういうものを人権の視点から見直すことは、とても大切なことにつながっていくのではないかと思います。


女性いうキーワード
最後のキーワードは「女性」です。これがもっともハードルの高いキーワードです。「大峰山に女性が入れないのは差別ではない。女性差別などはしていません」といわれるものです。とくに「大峰山」の関係者から声が出るのですが、「私たちは女性差別なんかしていません」と。ここに来るために、最初の長い長い私の話があったのです。女性差別をする側の意識のなさがあるのです。差別という構造は、「差別をしていない」という「前提的な思い込み」で出てくるように、差別の中味をほんとうにわかることの難しさを表しています。

 「大峰山」に女性を入れないというのは、女性の人権を侵害しているのですが、レイプをしても加害者の意識は「加害の意識がない」と言いました。セクシュアルハラスメントをしても、セクシュアルハラスメントをしている人には「加害の意識」はありません。夫が妻に暴力をふるっていても、夫が妻を性的な暴力を行っても、夫の側に「暴力の意識」や「加害の意識」はありません。子どもの虐待がたくさんあります。子どもを虐待した実の親が、「子どもを虐待しているという意識」はありません。そのときよくいわれるのが、「躾だった」とか、「子どもがうるさかったから」とかです。つまり親という「大きなもの」を行使している人には「加害の意識」がないということです。子ども自身、とくに赤ちゃんは何も言えないですね。子どもは、自分が人権侵害を受けているというのはわからないのです。子どもの虐待は、子どもが一番信頼している親から受けても、それを外にわからないように、見せないように振る舞いをするといわれています。それは、他でもそうです。夫から暴力を受けている妻が、夫はそんなことをしないという顔をして外に出ています。加害者である夫は、もっと普通の顔をして日常生活を送ったり、仕事に行ったり、世間の人や地域の人と話をしています。「あそこのお父さん、あそこの夫は、いいお父さん」というふうに見られる顔をして日常生活を送っているのですね。子どもは普通の生活をしていくのに長く持続できないのですが、大人は持続できるのですね。被害を受けていても、夫から殴られていても、顔に傷を受けたとしても、「この傷は階段から落ちた」とか、「自分が誤って傷つけた」とか、そんな嘘をつきながらです。セクシュアルハラスメントを受ける人は、会社へ普通の顔をして行きます。加害者の「加害の意識」がないことと、差別をされる側の人の「被害の意識」のなかにも「自分が悪い」と思ったりする構造があるからです。「大峰山」の関係者が、「これは女性差別ではない」と大きな顔をして言うのです。ここからもわかることなのです。

 では、女性差別をほんとうにわかるとは、どういうことなのかということですね。他の差別についてもいえると思います。部落差別をわかるということは、ほんとうにどういうことか。障害者差別をわかるということは、ほんとうはどういうことなのか。在日韓国朝鮮人問題がわかるというのはどういうことなのかという問題提起ができるのではないでしょうか。
 「女性」というキーワードで、私が体験してここに書いていることがあります。女性の問題が社会のなかで差別だといわれるようになったのは歴史が浅いのです。女性解放運動が起こってきたのは戦後です。まだ60年も経っていません。その女性を解放する運動や社会のなかに女性差別が存在するから、女性差別をなくしていこうという条約が決まったのは1970年代です。今から30年ちょっと前です。家庭内での夫からの暴力とか、恋人からの暴力とか、セクシュアルハラスメントという女性への暴力、そして、子どもへの虐待の問題がこの社会のなかで公になっていったのは1990年代からです。それも1990年代の半ば以降ですから、まだ10年も経っていません。そうすると、受けた側も、それまで社会が作ってきたものをあたりまえとしてきましたから、受けた側にもこれが性差別だというように思えないし、加害者も自分の加害意識に気づくということは大変難しいということです。でも、女性たちが声を挙げ、「女・子ども」と一括りにされた子どもたちのことを問題とし、法律として、『ドメスティックバイオレンス防止法』、『児童虐待防止法』が決まりました。法律が決まっていくということは、それを防いでいこう、なくしていこうという意思が見えます。しかし、法律はすべてではありません。法律が決まったからといって、児童虐待やドメスティックバイオレンスがなくなったわけではありません。現実を見れば、ほとんど毎日のように児童虐待が報道されています。だから、法律がすべてではないということです。法律が決まったということは、逆にいえば、多くの人が差別の存在を理解していないということを表しているのだと思います。そういう意味で女性差別は、「大峰山」を通してみたときに、なかなか理解してもらえないというのを実感したのです。


浄穢の関係
 女性を排除してきた理由の一つは、「女性の穢れ」でした。「女は穢れている」からという考え方です。その「穢れ」は「死をタブー視した」、「死を穢れとした」ことと、「女性を穢れ」としたことに関係があります。「穢れ」がどんなふうに機能してきたかという話なのですが、「穢れ」というのは必ずその反対側のものを作ったのです。「浄・穢」のあちら側を「穢」とし、こちら側を「浄」とする。「穢れ」とされたのは「死」です。人間が生きている「生」と「死」がまったく違うということを明らかにしていくものです。つまり、「浄・穢」のところには必ず境界線があるわけです。違うという境界線です。境界線は、生きている者と死んだ者という違いです。そして、その死に対して、いろいろな意味づけをしたわけです。人間にとって怖いもの、畏怖なるもの、こうあって欲しくないものに対しての思いが古代の人たちにもあったから、死に対してさまざまな意味づけをしたのです。また、生まれ変わってくる(再生)ともしたわけです。古代の人々は死をこのように捉えていたのです。

 ところが、死を「穢れ」としたことによって、何を「浄」として強めたかったかというと、もとは天皇家の話です。『延喜式』に出てくるのですが、天皇家の儀礼をさらに「浄」なるものとしたい時に、死を「穢れ」と決めて「浄なる領域」から「穢れ」と決めたものを離し、排除していくということをしたのです。「死」は、人間の死だけではなく、動物の死も同じように「穢れ」とし、「浄なる領域」から動物が死んでも離していくということをしたのです。それをすることによって、「浄なる領域」はさらに「浄」なる意味を持つということになったのです。

 同じように、女性の月経と出産を「穢れ」としました。流産も「穢れ」とするのですが、女と男では初めから違いがわかります。その違いのなかでもっともわかりやすい「月経・出産」を「穢れ」としたのです。もとは、月経も出産も「穢れ」ではありませんでした。女が子どもを産む時は、日常的な生活の場とは別の場所で子どもを産んでいたのです。産小屋に注連縄を張っていました。聖なる宗教的な意味をつけたのです。女の人が子どもを産むのは現在と違って大変なことでした。もしかすれば母親も死に、子どもも死ぬという、命が絶たれるような苦しい思いをして女が子どもを産むわけです。新たな命が産み出されて、その命が育まれ成長していくことを、すべての世界のなかで人間が望み、願ったのです。だから、月経や出産は「穢れ」とはしなかったのです。女性が最初に月経(初潮)になった時、赤飯を炊いてもらうという習慣が日本では作られてきました。だから月経も最初は「穢れ」ではなかったのです。しかし、穢れの観念により、男と女では違うもの、つまり月経・出産を「穢れ」と決めていったことにより、女は「穢れた者」とされていったのです。

 平安仏教は、「女は穢れている」という理由で山に登らせなかったのです。そうすると、「穢」に対局する「浄」として、男はさらに「浄」となっていったのです。「穢れ」と決めたその後の機能は、「穢れ」と決めたものを貶めていく役割をしていくわけです。死者は貶められていったわけです。「清め塩」が作られたのは、そういう意味があるわけです。「穢れた者と火をともにしない」という意味づけも作られていくことになるのです。目に見える場合もあるでしょうし、目に見えない場合もあるでしょうが、必ず境界線を作っていったのです。

 部落差別も、この境界線が非常にはっきりしているわけです。境界線のこっちとあっちを決め、「あちらは穢の領域」「こちらは浄の領域」としていったのです。

 さまざまな差別を作り、「差別していく」「貶めていく」という機能を果たしながら、その機能の仕方にそれぞれ違いが出てくるわけです。比叡山や高野山という「浄」なる場所を作った時には、女を一切入れないという排除の仕方がでてくるのです。宗教の場所は、清浄なる場所だから、穢れた女を入れないという意味です。まったく排除していくのです。ところが、宗教の場所ではない日常的なところでは、男と女は結婚をします。もっとも身近に肌を触れ合うセックスもします。そうすると、「穢れ」と規定した者とセックスができるというかたちの境界線は、どういうことかというと、「穢れ」としながら「私の身近に必要なもの」ということがあるのです。「穢れ」が「汚れ」ということではないのです。女を汚いとしていたなら、女とセックスなどできないです。だから、「汚れ」ではなく「穢れ」なのです。そして貶めているのです。対等な性の関係を持つことをしない方法で、男が女を支配するというのは、男の方に力があるように、女がセックスに合わせてくれるようにという考え方で、「穢れ」とされ、女を近くに置いて、そして子どもを産んで欲しいという、それも男の側の子どもを産んで欲しいというかたちで、女を「穢れ」としたわけです。

 部落差別はまた違います。部落差別の境界線ははっきりしていて、「側には置かない」、「同じ領域には住まない」としていますが、部落の人を利用するというかたちで排除しています。排除しているけれど、排除のままではない。排除のままではなくて、利用するというかたちをとっています。障害者差別は、私が小さい頃は座敷牢というのがありました。役に立たないという意味づけが行われて、それはやはり「穢れ」という意味を持っていたのだと思います。利用できないとして、排除のかたちをとったのが、障害者差別だと思うのです。それも背景に「穢れ」ということがあると思います。
 比叡山や高野山や「大峰山」という宗教の場所(山)では、「こちらが浄」という意味で結界が決められて、その結界から女は入れないというのです。それは、女は穢れているということに基づいているのです。しかし、男の人がある一定の期間だけ修行をし、その修行が終わって帰ってくる場所(ふもと)に遊廓が作られました。「精進落し」といって、女の性を買うのです。精進を落として日常的なこちら側に帰って来るという境界が作られたのです。日常的に、ともに生活をする女は、同じ家に住むのですが、セックスを対象とする「外の女」はその境界がはっきり決まっていて、排除したままで利用するという女の利用の仕方です。

 女の性を買うということは10世紀頃から日本で始まっています。そして、江戸時代には遊廓ができて、男は女を買いに行くのをあたりまえにする文化をつくりました。戦争の時もそうでした。赤紙が来て、戦争に行かなければならなくなった我が息子に、お母さんがお金を渡すのです。「行っておいで」って。それは、「遊廓に行っておいで」という意味だったのです。「これで死ぬかもしれない。女も知らないで死ぬのはかわいそう」というかたちで作られた性のありようです。「行っておいで」と言ったお母さんの意識のなかには、遊廓で働く女の人を、女自身が「下」に見ているのです。性を売る女として「下」に見ていたのです。だから、女が分断されたのはそういう意識があると思います。女にとっても、男のもつ意識と同じようなかたちで作られていったものもあるというわけです。

 境界線を作りながら、「浄穢」というのはさまざまな働きをし、「穢」なるものとされた領域に生きる人たちが差別される側に作られていき、利用されたということは確実です。上下関係でいうと、「穢」が「上」にくることはないのです。「穢」は必ず「下」にくるものとして作られたのです。そして、「浄」を男性に、「穢」を女性にあてはめて、女性は「浄なるもの」に、つまり「大きなもの」に合わせていくことが求められたのです。合わせてもらった方は、合わせてもらっているという意識がないということですが、これは近代のところを見たらよくわかります。「浄」が君(天皇)や国とされた時、日本の男性は、君のため、国のために生きていたのです。天皇は臣民が自分に合わせているという意識はないですね。臣民が合わせてあたりまえ、命を落としてあたりまえでしょう。自分の命さえ失って、それをあたりまえとした構造は、「浄と穢」が作られ、「穢れ」が利用されてきたと思います。「穢れ」とされた女が、自分の人権をほんとうに大事だと思うように考えてきた歴史はまだまだ浅いということです。


対等な関係
 実は私も、自分の命、心、体のすべてを含んで「私が一番大事」というように思えるようになったのは、女性問題・人権問題をやり始めてからのことです。私がほんとうに大事と思わない限り、私に関係する相手をほんとうに大事とは思えないということを学んだのです。相手が先に大事ではないのですね。「わがままとかエゴイスティックでない、私の心と体は私のもの、かけがいのないもの」として大事にすることを、人権問題を学びながら、私は学んだのです。そうしないと私の関係する他者をほんとうに大事とは思えないし、対等な人間関係を作っていくことができないということです。

 遠い問題かも知れませんが、「大峰山」の問題も、土俵の上の問題も、地域のなかには習慣や風習などさまざまなものが残っていますが、そういうものを全部含んで、どういうかたちで作られ、それが私たちの生活にどういう影響を及ぼしているのか、ほんとうにすばらしいものであるのか、一部の人にとっては都合がよいかも知れないが、そうではない人がいるかも知れないと考えたら、それは問題があるのではないかということですね。それを人権の視点から考えたらどうなるのかということです。

 六曜の問題や迷信の類とされるさまざまないい習わしが、私たちの生活の周りにあります。私は浄土真宗の寺で生まれたと言いましたが、幸いにして浄土真宗の教えにはそういう迷信をあたりまえにするということがなかったのです。「不浄だから」とか、「今日は生理だから鳥居をくぐってはいけない」とか、「今日は人が亡くなったから北枕にする」とか、さまざまなことが一切といっていいほどなかったのです。だから、友だち関係のなかで、「なんでこんなことをするの」とか「なんでこんなことをしないの」と言われたことが何度もあります。そういう意味では、浄土真宗の寺に生まれたことはよかったと思います。父親、母親がそういう類のことを拠り所としなかったのです。


因習と慣習
 六曜の問題もそうだったのです。何年か前に大きな手術をして入院しました。退院が許された時、私は自分の都合で土曜日の午後に退院しようと決めたのです。当日、土曜日の午前中に周りの人が慌てていたのです。「あんた、いつ退院するの」と聞かれたのです。「今日の午後から」と言ったのです。そうしたら、同じ部屋の人が「なんで午後からするの? 今日は午前中に退院するものよ」と言われたのです。ポカーンとしていたら、その人が「退院は、大安の午前中にするもの。それ以外の日にしたら、また病気になるかも知れないし、悪いことが起こる。だから、大安の午後に退院するなんて、滅相もない」と教えてくれたのです。「あんたは何を考えてるの」と言われたのです。私は逆に「あんたこそ何を考えてるの」と言いたかったのですが・・・。「そんなことを拠り所にして退院するのか。大安がどんなふうに決められているのかを知っているの。こんないい加減な大安の決め方で、それを拠り所にしている方こそ何を考えてるの」と言いたかったのです。でも、多くの人がまだまだ六曜や、さまざまな迷信と思われることを拠り所としています。

 日本では世間ということがあります。「隣の人がどう思うだろう」、「前の人がどう思うだろう」、「世間がどう思うだろう」、「私ひとりやめていくのは大変」、「私ひとり変えていくのは大変」、「そんなことできない」というものがあります。「世間」というよい繋がりができて、近所の人とコミュニティができて、いろいろな相談ができて、「あそこの子どもが虐待されているだろうな、それは問題だな」、「あのおばちゃんのところに行けば、わかってもらえる」という世間ではなくて、見張りをするような役の「世間」がまだまだ生きています。いくら正しいと思っても、一人ではできない。「うちの家だけがすることはできない」というようにして作った「世間」があります。でも、そういう世間はなぜ作られたのかということです。誰が見張ってきたのか。お互いを見張らせて、上に立つ人は楽をしてきた。そういうシステムが作られてきたわけです。「下に置かれた者同士が、お互いを見張って、何になるの」というふうに考え方を変えていって、「いい意味の世間ならば作っていこう、でも、問題があるような世間ならば変えていこう」というように、なぜ変えにくいかということです。

 私は島根県の山奥で生まれて、その地域の古さ、封建的なところを経験して過ごしましたので、その地域のなかで一つのことを変えていくことが大変だというのはよくわかります。でも、お互いが「ほんとうは誰のためにいいことなのか」という話し合いができるような地域であるならば、大事なこととして話し合うことはできるのではないでしょうか。そんなことを思いながら、みなさんへの問題提起として終わらせていただきたいと思います。

司会  会場のみなさまの方から、ご質問をお受けしたいと思いますので、手を挙げていただけますでしょうか? 近くまでマイクをお届けいたします。
参加者1  「大峰山」や金峰山寺はじめ護持院の方で、その後、「女人禁制」のことに対してどのように進められているのか、その経過を教えて欲しいと思います。たしか、6、7前ぐらいですか…。
 5年前です。2000年開放でしたから。
参加者1  ああ、そうですか。かなりつっこんだ意見が護持院との間でされました。1年ぐらいあったかな。そして、その話は聞くのも、言うのもできないという雰囲気が生まれてきて、その後どうなったのかなというのはずっと思っていたことなので、もしよければ、聞かしてもらえたらありがたいと思います。
 こういうたくさんの人のなかで質問していただいてほんとうにうれしいです。
 2000年を契機に開放すると、三本山が決めたのですね。「大峰山」というのは、聖護院、醍醐寺、金峰山寺という三本山があり、その下に吉野と洞川に五つの護持院があり、その下に地元の信者さん、役講の人たちがいるという組織です。2000年開放のことは、三本山がまず決めたのです。1997年に2000年に開放すると決めました。ところが、三本山が決めたにもかかわらず、地元の人と役講の人が反対したのです。その反対により、2000年開放は無理だったのです。その後そのまま続いているのです。今回署名を持って各寺院や護持院を回ったのですが、一番感触がよかったのは聖護院でした。聖護院の宮城泰年さんという方は、「これは女性差別だから、いずれ開放しなくてはいけない」とおっしゃいました。醍醐寺さんがそれに続いていました。金峰山寺さんは、そうでもなかったと思います。五つの護持院のなかには温度差がありまして、開放する方向にという人と、そうでもないという方向の人がいます。役講の人は「一切開放しない」という立場です。

 檀家制度の本山というトップがあり、全国にお寺があり、檀家さんがあるという組織は、だいたい「上」が決めたことが「下」に通じていくのですが、逆の方向だということが今回よくわかりました。「上」が決めたとしても、「下」はそれに従わないという、稀な組織を作っているということがわかりました。

 それと、時代の方向性として、女性差別に対する人権感覚が鈍くなっていると思ったのは、1975年に『新日本紀行』というNHKが放送した番組があったのです。1975年の放映ですが、それを見ることができたのです。番組は「大峰山」を捉えていました。その時には、地元の人と護持院の人が一緒になって、「やあ、これは女性差別なのだ。だから、男女同権の時代になっていくから、やはり開放しなければいけないのではないか」という議論をしているのが放映されているのです。地元の人も1970年代ごろには男女同権の時代を迎えつつあるという意識があったのだということを初めて知ったのです。まだ、男女同権ということがあまりいわれていない時に、地元の男性が「男女同権の時代を迎えるから」と言っていたのです。男女同権という言葉も出てこなくなった地元の人たちは、どんなふうに変わったのかなと思いました。ということで、答えになっているでしょうか。よろしいでしょうか。
参加者2  穢れの問題を篠山市で始めた理由をご存知でしょうか?
 いえ、どういう理由でしょうか?
参加者2  実は、篠山市において合併を機会に、この穢れの問題の学習を始めたわけなのですが、その根本について、私からもう一度原点に返ってみなさん方にお伝えしたいと思うのです。と言いますのは、斎場が20年間もの間、候補地を転々としたのです。次から次へと断りが出て、最後は私の近くの土地にできたわけなのですが、その根本を考えます時に、なぜ転々としたか、私もある程度の聞き取りをしました。まあ地形の問題もあるでしょうが、最後は「穢れ」の問題です。その問題に対し、「こういうことではいけないから、穢れ意識に対しての忌避意識を解消してもらうようにしてほしい」と、私は啓発推進委員として、あるグループの学習の席上で提起をしました。それで、穢れの問題を学習するようになったわけです。非常に難しい問題ですが、学習を積み上げていっていただきたいと思います。
 はい。斎場が難しかったのは、死の穢れに対する意識ということなのですね。
参加者2  そうです。それについて、ただ「死の穢れ」ではなく、女性の赤穢れ、白穢れ、黒穢れの三つの問題をあわせて勉強していかなくてはならないのではと思います。
 すごくいい問題提起をしてくださいました。穢れの問題を我がこととして学習するという意味で、今日は女性の穢れを中心にお話をしたのですが、死に対する穢れ、死とつながる職業とか部落差別、そういうものへの差別、女性の差別ということも含んでいるわけですね。
参加者2  はい。それと、平成11年12月22日、私の集落で市の助役さん、部長さん、市会議員さんに来ていただいて私が提起したわけなのです。そして、あくる年の12年10月23日に市から「政要第103の1号」ということで、穢れ意識解消のため市民運動を展開し、全市を挙げて取り組むという文書がまいったわけなのです。
 ありがとうございました。篠山市民のみなさんへの問題提起でもあるし、行政への問題提起でもあると考えてもよろしいでしょうか。
参加者3  先生がお寺のお生まれということなので、非常に抽象的な言い方かも知れませんが、ご住職の方が平素いろいろなこと、要は人間の幸せということを訴えられると思うのですが、しかし、どの宗派にも共通してそういう状態に住職の方がなっているかどうかという疑問を感じます。穢れということもありましたが、たとえばお葬式の儀式でも、私も知らない何かそういう穢れというものについて、こういうことを守りなさいと言わんばかりのことを指導されるような気がするわけです。そういった意味で、お寺に生まれられた先生が、抽象的な質問をあえてしますけれど、宗教団体、宗教におけるそのあたりの感覚をどんなふうに思っておられるかなという疑問を持っております。
 よくよくわかります。私もそういうことの場所で嫌な思いをしたことがたくさんあります。これは、女性問題をやりながら思ったのですが、女性が力をつけていくというのが大事なのです。女性が力をつけていくことによって、男の人を敵としないで、ほんとうにいい関係を作っていくという意味での問題提起が女の人からできていくのだろうと思います。それは、他の差別についてもそうだと思うのです。そういうことを考えていくと、仏教の関係のなかで寺に生まれ、寺の住職をしていらっしゃる人はたくさんいるわけですが、お寺の人自身が学ぶことも大事だけれども、寺でないところの人が一生懸命学ぶことによって、寺の人への問題提起をする力をつけることの大切さがいえるのではないかと思うのです。私はいま寺に住んでいないので、寺の側に立たないで、寺に対していろいろなことをいう立場にいます。寺の側に立っている人は、寺の側のところで考えるかもしれないけれど、それを寺の側だけで考えないで欲しいということがいえると思います。他の人の立場の問題を提起できるのは、寺に住んでいない人だと思うのです。寺が具体的にわかりやすいので寺ということにしますが、それは宗教関係のところでいえば、檀家さん、門徒さんという立場にいる人が、いかに力をつけていくかというとだと思います。寺に対して、おかしいことがいえるということは、それは力があっていえると思うのです。エンパワメントというのは、そういう意味だと思うのです。

 もう一つ大事なエンパワメントは、そういう立場にいる人、たとえば寺にいる人、障害者差別をする側、女性差別をする側、権力を持った側、そういう人たちのほんとうのエンパワメントは、される側の人たちの声をどれだけ聞くことができるかということだと思います。聞く耳を持たない人はたくさんいます。それはほんとうに力がない人です。ほんとうに力がある人は、そういうさまざまな声を聞くことができるということだと思うのです。だから、寺の人も、声を聞くことができる寺の人にならなければいけないと思うし、江戸時代に作られた檀家制度のままではいけないと思うのです。おかしいと思うのです。そうするとやはり「下」からの声、それを聞く力、耳を持つエンパワメントの両方が大事ではないかと思うのです。直接言っていく、あるいは団体で言っていくなど、いろいろな方法があると思うのですが、力をつけながらそのことをやっていくということです。

 私は女性差別の問題をする時に思うのです。女たちが声を挙げるようになったというのは、やはり力をつけたのです。それを聞く耳を持たない男の人がいるのです。でも、なぜ女たちが言うかというと、対等な関係、いい関係を持ちたいからなのです。寺と檀家の関係もそうなのです。檀家が言うということは、寺と檀家が上下関係ではなく、「対等な横並びの関係」を持ちたいから言うということだと思うのです。それは、寺の側も、「対等な関係を持ちたい、いい関係を作りたい」と思わないと聞けないということですね。だから、聞く耳を持つということは、それなりの人間関係を持ち、それなりのいい関係を作っていこうという姿勢が大事ではないかと思うのですが、答えとして抽象的でしょうか。
参加者4  土俵上の問題を取り上げておられます。非常に良いことだと思います。ご存知の森山官房長官の時、この間は太田大阪府知事、その中間に遠山文部科学大臣もあったのですね。女性は全部ボイコットされてきました。そこで私は、丹波篠山から提言するわけです。先生から是非太田知事に伝えていただきたい。なぜかと言いますと、来月には春場所が始まります。あれは、大阪府立体育館です。知事は女性として初めての知事なのですよね。大阪府の施設を使うのに、大阪府知事がその表舞台へ上がれない。そんな馬鹿げたことはありませんよ。
 ほんとうですね。
参加者4  だったら、「使用を許可しません」とか、ウルトラCを使わなければ、なかなか言うこと聞きませんね。次に、なぜそれを言うかというと、男女平等とは、もともと世界的にも男女は半々なのですね。その女性を土俵に上がらせないようにした理事長とか、周りの役員は誰から生まれたのですかと言いたいのです。なるほど、伝統に歌舞伎とか、あるいは宝塚歌劇とかはあります。しかし、あれは劇団のなかへ入れないだけで、観劇はみんな自由にできますね。
 そうそう、そうです。そうです。
参加者4  その根本的なことを強調して、この土俵の問題の場合は、大阪府知事の権限をフルに発揮する。もちろん、こういう以上、私も大峰会へ入って、もう20数年になりますが、男女同権という時代ですから開放されてあたりまえだと思っております。
 大阪府知事の太田さんはすでに3月場所には大阪府知事賞を持っていかないということを表明しました。これは、「女性問題だから女がわかる」とはならないということを表しているのです。女でも闘おうとしない人もいるということです。すごく残念なのは、同じ女性として自分の問題として闘えないという人もいるということです。男性にもわかる人がいるということを表しています。ずっと知事を続けていいかれるなら、今年はダメでもまた来年があります。また、大阪府下の女性を中心に毎年毎年言っているのです。その府知事賞には大阪府下の人の税金を使っているので、税金のことも問題提起しながら、太田府知事に言っているのですが、うまくいかないですね。今年は無理でした。また来年、がんばりたいです。
参加者5  基本的なことですが、「大峰山」の「女人禁制」は法律で決まっているのか、宗教法人法中で決まっているのか、もし法律がなかったら、「女人禁制」の反対の組織や、それに賛同する夫婦が「女人禁制」を無視して登った方が解決の道が一番早いのではないかと思うのですが…。
 法律はありません。しかし女性で登った人は何人かいます。いま一緒に運動をしている小学校の先生が、1999年の8月に8人程で登っています。でも、そのあと彼女たちは、「大峰山」側から叩かれたのではなく、奈良教組から叩かれているのです。そういうかたちで世間の方が叩くのです。運動しているなかでの話に、最後は女の人が100人も一緒に集まって登ろうじゃないかという話もあります。しかし、ほんとうは「大峰山」側が「『女人禁制』を開放します」といって欲しいというのがあります。でも、開放を今後もずっとしなかったならば、私たち女性はすべて、もちろん男性も一緒に100人単位ぐらいで登っていったらどうかなという意見も出ています。そのときは是非篠山から駆けつけてください。一緒に登りましょう。
参加者5  先ほどの大相撲のことですが、太田知事さんも勇気があるならば土俵の上に自分から上がられてはいかがなものかと思うのです。大阪府知事として選ばれているのですから、遠慮も何もないと思うのです。篠山市でもそうですが、女性問題を考えるのであれば、女性があらゆる地区の役員や、いろいろな所に自分ら自ら出て行って、仮に半分ほど女性の方になったら、これは誰が言おうと動くのですね。そのことをもっと女性自身も考えなかったらアカンと思うのですが…。
 激励ありがとうございます。ところが、よく男性が「女ががんばらないからダメなのではないか」と言われるのですが、歴史を考えてみてください。ある県の町のことなのですが、男子学生二人が幼稚園の先生になりたくて免許を取り、卒業し、町のなかでいくつかある幼稚園の2カ所に一人ずつ配属されました。とても一生懸命で、子どもが好きで幼稚園の先生になったのです。夢がかなって幼稚園で働いたのです。女の先生たちも、「若い男の先生が来てくれた」と、とてもかわいがってくれたのです。ところが、その二人の幼稚園の先生は1年も持たなかったのです。なぜだか分かりますか。女の領域に男性が一人で入ってがんばることのしんどさ、それが表に出てきたのです。つまり、女の先生のなかにも性別役割分業というか、「男はこう、女はこう」という考え方があたりまえにあったからです。たとえば重たいものを持つ時に、「あんた、男やろ」と言われるのです。仕事ができない時、就職して1年目、いろいろなことはわからないですよね。それなのに、「あんた男やろ。仕事ができてあたりまえやろ」ということがあったそうです。幼稚園という女の領域に男が一人で入って働くことのしんどさを、この社会は逆もあたりまえとして作ってきたのです。

 つまり、まだ男性中心である社会のなかに女性が入っていって仕事をしているのです。その歴史はまだまだ浅いのです。そして、男性の意識のなかに、「女やろ、がんばらなきゃ。男と一緒の男女平等にするのであれば、女ががんばらなきゃ。女やろ」と。これまで女性には、「30歳定年制」とか、「女は子どもを産み、家庭に入るべき」という考え方が、女性のなかにも男性のなかにもあるのです。そうすると、子どもを産んだ女性がいろんな理由があるからやめるときに、男性は「やっぱり女は子ども産んだらやめるのか」とか「女は仕事に熱が入っていない」とか「腰掛で仕事しているのではないか」などというのが今なお存在するのです。「女もがんばらなくちゃ」というのは、女自身が一番よくわかっているのです。

 でも、女性が社会進出していくのがまだまだあたりまえになっていない男性中心の社会があるということです。男性も幼稚園の先生になって入っていったらしんどいのです。それは、女性のなかにもある「男だから、女だから」という考え方が染みついているからです。男性も女性も、「男だから、女だから」として作られたものを我が身に振り返って取り除きながら、仕事をする同じ仲間として、労働をする、同じ人として考える意識に変わっていかないといけないと思います。まだまだ男性中心の社会のなかに入った時に、女性がしんどい思いをしているのです。女性も責任を持ってがんばろうと感じているのは女性です。それを受け入れる側の男性のなかに「男やろ? 女やろ? 男だったら…、女だったら…」という意識があります。そういう我が身を振り返って変えていかないと、「女の人もがんばってください」というだけではすまないと私は思います。私自身女ですから、女だからがんばりたいと思っています。でも、「男はこうや、女はこうや」という社会に入った時に、私はやはりしんどさを感じています。そのしんどさに負けないものを女性も力をつけていくのは大変でありながら大事なことだとは思います。
参加者5  源先生の言われることはわかるのですが、確かに言われる通りに、いまは日本のなかは男社会です。それを男社会といって放っておいたら、いつまで経っても実現しないと思うのですが…。
 確かにその通りです。
参加者5  私の村で、寺の檀家総代というのがあるのです。その檀家総代が長い間、男性ばかりだったのですが、今期から初めて女性二人に入っていただきました。
 ああ、それはすごいことではないですか。
参加者5  いろいろなことを考える時に、男性の数も少なくなるということもあるのですが、「やはり女性も参画してもらわないと」ということで女性も入っていただいたのです。それから、以前は看護婦という名前だったのですが、いまは看護師と言いますが、やはり男性も働くようになって看護師という名前になってきたのですね。
 そうです。
参加者5  だから、源先生の言われることはわかるのですが、男性の世の中だからダメというのではなく、女性も自分から突破していくことが大切だと思うのです。今でこそ私も自分で料理をするようになってきたのですが、昔から料理は女性がするものだということを男性も思っていたのですね。女性自身も、「私らがするのがあたりまえ」というような気持ちでしていたのではないかと思うのですね。
 そう、ほんとうですね。

参加者5
 それで、女性ががんばって男性を引っ張っていかねば、これは長い歴史の慣習のなかで、なかなか男女平等にはならならないのではないかと思うのです。もっと女性の方にがんばってもらって、特に自分の夫も引っ張っていけば、必ずできるようになりますので、がんばってください。私もがんばります。
 はい。ありがとうございます。ところが、女が男を引っ張るというのは、やはりちょっと問題があります。「ともに」というようにならないとだめでしょう。「引っ張らない」ということです。今まで男が女を引っ張ってきたから、今度は女が男を引っ張るというのでなく、「ともに」なのです。その「ともに」ができるというのは、ほんとうにわが身の一番近いところにいる夫と妻の関係なのですね。そして、親子の間でも、どんな話でもでき、いろんな話ができるというコミュニケーションがとれるということが大切なのです。「女は料理を作るもの」というのがあたりまえでした。それは、男性も思っていたし、女性も思っていたのです。料理の下手な女性は、「私はなんでこんなに料理が下手なのだろ。夫に悪いわ」と思ったのです。だから、女性は上手に料理を作らなければというのがあったのです。そうではなくて、「誰ができるのか、誰がした方がいいのか」ということをほんとうに話し合うことができるということが大切だと思います。その大切なコミュニケーションのなかに、「我が身を振り返ることが人権」があるのです。今おっしゃったように、「引っ張る」のではなく、「ともに」ということをどう考えるかですね。「ともに」ということが男女平等を作る第一歩ならば、次に「誰とともに」ということですね。「一番身近な人とともに」ということができる社会になれば、私は、女性も男性も力をつけて、今のような社会ではない社会になっていくのではないかと思います。

 でも、まだまだそれが逆転するなかで起こっていることがあります。たとえば、男の人がこういうふうに言うのです。「料理ができるようになった」と。すばらしいことです。でも、それをあたりまえにしていくことの大事です。こんなことを男の人からよく聞くのです。「僕は妻の働くことに理解があるのです」、「僕は家事でこれだけのことをやっています」、「僕はこれだけ育児にかかわっています」と。それは、今まで女があたりまえにしてきたことなのです。それを男性もあたりまえにする時に、「これだけやっています」、「これだけ関わっています」、「妻に理解があります」という言葉ではない言葉が出てくると思います。それは、女性が働く時、「働いてあたりまえ。責任を持って働くのはあたりまえ」という社会ではないかと思うのです。

 社会が作ったもの、国が作ったものは染みついたかたちで私たちのなかにずっと蓄積されているのです。その蓄積されたものをもう一度取り出して、自分のなかにある問題を考えることが人権や差別を考えることだと思うのですが、やはり大変なことです。自分の問題を、自分をもう1度取り出して、「私はどう考えているのだろう?」、「私はどんな人間なのだろう?」、「私はどんなふうに生きたいのだろう?」と考えることは、しんどいことですね。でも、そういうしんどいことをすることによって、「こんな社会ではなく、すべての人が人間として大事にされる社会になっていくのではないか」と期待したいと思うのです。どうぞ、みなさん、ご一緒にそんなふうにやっていけたらと思います。いかがでしょうか。
参加者6  先ほどから、先生のお話を非常に共鳴を持って拝聴しているのですが、先生が浄土真宗のお寺さんでお育ちになったという話で、ちょっと気になったのですが、過去において、お墓の石碑のなかに、部落出身の方が亡くなられた時に、○○(戒名)に「畜生」の「畜」という字を書いたという…。
 差別戒名ですね。
参加者6  ええ、差別戒名ですね。穢れの穢多という字を書いたり、石塔に彫り込んでいることです。高野山や、永平寺など、かなりの本山で、またそこの管長といいますか、お偉方は学を修め、それなりの格式を持った高僧がおられるのですが、そのことに対しての矛盾点を強く感じている私です。また、世界遺産になっています宮島も、死人が出たら絶対に墓地を作っただめだと…。死んだ人は別の港から運んで、向こう側の陸地で墓地を作ってもらうということですが…。特に今日は宗教部会の研修会ということで、私はそのあたりのことについて矛盾点があると強く感じるのですが、先生のご存知の範囲内で何か具体的なお話があればと思うのです。
 上に立つ立場の者というふうにいった差別の構造をお話した時には、宗教者自身は、どこにいるのかという問題提起をしたつもりです。自分がどこにいるかによって、つまり、「上」にいる人はなかなかその意識ができないという話をしました。宗教者というのは、仏教をはじめとして、「御同行」という言葉があるように、「ともに歩む」、「信者さんとともに歩む」、「自分の信仰を求めてともに歩む」というのがあたりまえだと思うのです。日本の宗教は変わってしまった部分があると思うのです。「ともに」というのがなくなってきたと思います。その意味で宗教者自身が、宗教の問題をどう総括していくのか、どう改めていくのかということは大切なことだと思います。私は、日本の仏教を批判して書いてきました。これらもおかしいと思うことを私自身は言い続けていきたいと思っています。日本の仏教は大きく変わったと思います。とくに江戸時代に檀家制度ができてから、個人の信教の自由を奪い、その制度のなかで「上」に立つ人の意識が幕府や国家にすり寄っていったわけです。すり寄っていった宗教者自身が総括していかなければいけないのではないかと思っています。具体的にはならなかったのですが、よろしいでしょうか。

 こんなにみなさんから、たくさんのご意見・ご質問を出していただき、ほんとうに感激しています。こういう場所ですので、一つも出ないかと心配していましたが、ほんとうにありがとうございました。私の勉強にもなりました。また、がんばって生きていきたい、がんばって勉強していきたいと思っています。

大峰山」の組織
 役小角(役行者)を開祖とする修験道の根本道場
 1872(明治 5)年 「女人禁制」解除、修験道廃止令(太政官布告98号)
 1936(昭和11)年 「大峰山」一体が吉野・熊野国立公園に指定
 1946(昭和21)年 「宗教法人令」を経て1951(昭和26)年の「宗法人法」
大峰山」の組織−山上ヶ岳にある大峰山寺
  大峰山寺の総本山−本山修験宗聖護院門跡
           金峰山修験本宗金峰山寺
           醍醐三宝院門跡
  大峰山寺護持院−洞川の龍泉寺と吉野の東南院・喜蔵院・桜本坊・竹林院
  大峰山寺の管理−吉野山・洞川各3人の特別信徒総代
          大阪・堺の八島役講(岩・三郷・光明・京橋・鳥毛・井筒・両郷・五流)から          各1名の地方信徒総代
  毎年5月3日に戸開け、9月23日に戸閉め−1967年以降

「女人禁制」の区域とその変遷区域
       東西は洞川から小笹までの10キロ 南北は24キロ
       結界門−清浄大橋、五番関、小笹の宿、レンゲ辻

「女人禁制」の結界の変化
 1960年 龍泉寺境内開放−龍泉寺の檀家は洞川地区、檀家の半分は女性
 1970年 清浄大橋までに縮小−植林の問題、国立公園の問題、観光の問題

「女人禁制」を守ろうとする考え
 「女人禁制」は女性差別ではなく、信仰や伝統にかかわる慣行である │
 「大峰山」は信仰の山であり、「女人禁制」を解けば、信者が来なくなる │
 「女性神話」  山の考え方−山の神が女神→「女性が登ると山の神が嫉妬する」
 修行の厳しさ−男性の弱さの転嫁→「女性がいたら心が乱れて修行ができない」
 男性優位の隠蔽→「男の甘えを許してほしい」
 感情的なもの−「わしの目の黒いうちは許さん」「地元の人の生活を無視している」
「大峰山女人禁制」の開放を求める運動
  2003年11月 「大峰山女人禁制」の開放を求める会(仮称)設立準備会結成
  2003年12月 世界文化遺産登録にあたって「大峰山女人禁制」の開放を求める会
           としてスタートし、開放を求める署名活動をすることに決定
  2003年12月 呼びかけ人募集開始(呼びかけ人233名)
  2004年 1月 署名活動開始
  2004年 3月 シンポジウム「大峰山『女人禁制』を考える」開催
  2004年 3月 署名締め切り
  2004年 4月 署名(12418筆)提出−内閣総理大臣、法務大臣、外務大臣、内閣官房                         長官、奈良県知事、奈良県地方法務局長、天川                         村村長、三本山、五護持院
           署名発送−ユネスコ事務局長、世界遺産委員会、国連経済社会理事会                   議長、役講社
  2004年 7月 世界文化遺産登録

その後にわかったこと
 ・「女人禁制」地域の里道は村道であり、公道である
 ・大峰山寺本道の改修費に4.9億円の89%が公費でまかなわれている
 ・奈良県は世界文化遺産登録及び記念事業に2002年から毎年8200万円、1700万円、   8300万円の予算を計上しており、公費として使っている

女性とトンネル
 1976年 塩尻市の塩嶺トンネルでの地元住民による事業認定をめぐる訴訟での現場検       証に原告弁護団の女性弁護士の入坑が拒否される
 1980年 青函トンネル工事に国会議員の妻や大使の妻が視察したとき入坑拒否
 1987年 大津市内畑トンネル貫通式で女性市会議員の出席拒否