映画「十五才−学校W」の山田洋次監督に聞く (2000.10.8 神戸新聞)

この社会は生きるに値する社会か

映画「十五才―学校W」

寅さんシリーズで知られる山田洋次監督が「十五才−学校W」を完成させた。寅さんで“日本の心”を描いてきた監督が,荒廃する日本の教育に向き合った4作目だ。今回のテーマは不登校。映画に込めた思いや,学校,教育に対する考えを聞いた。(木村信行)

今回,なぜ不登校を取り上げたのか

 これまでは夜間中学は養護学校など,競争がない学校を取り上げてきた。次は中学校や高校を取り上げてほしい,という要望が強かった。

 でも,今の学校が抱えている病気は重すぎる。それでためらっていたら,埼玉県の講演会で一人の少年から,「なぜ学校に行かねばならないのか」と質問を受けた。

 彼は十七歳ぐらいで,中学から学校に行っていないという。

 その時は「難しすぎて即答できないよ」とごまかしたけれど,その後,仲良くなって彼の心を探るうち,不登校とは今の子どもの心をゆがんだ形で表現したものではないか,と考えるようになった。

不登校の子どもたちは今年,全国で十三万人を超えた。彼らは何を問いかけているのか。

 少年と出会ってから,フリースクールで調査したり,中学校の授業に参加させてもらったりした。

 学校とは何か,学ぶとは何か。子どもたちは,こんな哲学的な課題に懸命に向き合い,彼らなりに理論づけようとしていた。

 すごいと思う反面,かわいそうにもなった。好きな映画を見たり,本を読んだり,好奇心のままに生きられる年ごろなのに。

 茶髪やガングロ(顔黒)の子も懸命に問いかけている。「この社会は生きるに値する社会なのか」と。そう思うと,みんながいとおしくなる。

映画では,屋久島の縄文杉を目指して十五才の少年が旅を続ける。トラック運転手やひきこもりの少年,寝たきりになる老人と出会い,成長していく。学ぶ場所は学校だけではない,ということか。

 「なぜ学校に行かなければならないのか」と質問した少年がヒッチハイクが好きで,屋久島にも3000円で旅したらしい。それでこのストーリーを思いついた。

 映画の途中,ひきこもりの少年の作として,こんな詩をはさんだ。小学4年から不登校になった滋賀県の十六歳の女の子が送ってくれた。

 「早く着くことなんか目的じゃないんだ。雲より遅くて十分さ。この星が浪人にくれるものを見落としたくないんだ。葉っぱに残る朝露,流れる雲,小鳥の小さなつぶやきを聞き逃したくない…」

 自分の存在を確かめ,確信の持てる何かを見つける。大人になるために,学校だけでは得られない旅を描きたかった。

ではなぜ,ラストで主人公は学校に戻るのか。

 不登校をテーマにしたテレビドラマは必ず,最後に学校に戻っていく。そんな結論の映画なら撮らなくてもいいと,不登校の子を持つ母親からいわれたことがある。

 気持ちはよくわかる。でも僕は,学校全体を否定する考えにくみしない。学校というシステムは大事で,それはゆがんでいることが問題だ。

 「母校」という言葉も死語になり,学校は思い出したくない場所になった。この現状に対して,大人や社会は大反省しないといけない。

親子の関係も克明に描いている。

 僕自身,反省しているが,父親が自分の子どもをきちんと見つめているか。

 担任の名前どころか,学校名すら知らない父親がいる。父親には大変な責任がある。 向き合う時間も必要なのに,日々の仕事に追われている。

 基本的には,政治経済のあり方に問題がある。親子の時間を持つにはどうすればいいのか。そんなところから変えないといけない。少年法改正の議論は本末転倒だ。粗雑になった親子関係を回復しなければ。

ラストシーン。教室に戻った主人公は先生に名前を呼ばれ,大声ではなく,ためらいながら小声で「はい」と返事をする。

 それは僕自身の声でもある。この子はこれから大丈夫か。私も保障できない。学校をよくしていく自信もない。でもこのままでいいとは思わない。その気持ちを共有してほしい。

次に描いてみたいテーマは。

 抽象的な言い方しかできないが,「勉強ってとても面白いんだ」というテーマで作れないか。ものを考える時のわくわくするような喜びを描いてみたい。

 今はむしろ逆。ゆとり教育で授業時間を減らし,ボランティアも単位に入れ,成績が落ちてもかまわない。一部の秀才がいればいいという発想だ。

 でも,それは違う。今この国が考えなければいけないのは,子どもたちがどうすれば勉強が面白くなるか,ということではないか。

 


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