バイオグラフィ

Sly & The Family Stone

(1)結成以前のスライ・ストーン

(2)スライ&ファミリー・ストーン

(3)解散後のスライ・ストーン

(4)解散後のラリー・グラハム

 

(1)結成以前のスライ・ストーン

リーダーであるスライ・ストーンは、1944年3月15日、テキサス州ダラスに生まれる。サンフランシスコに近いカリフォルニア州ヴァレーオで育つ。母親は、地元の教会で歌いギターを弾き、父親は教会で助祭として働いていた。姉(ピアノ)、妹二人、弟と“スチュワート・フォー”というゴスペル・グループを結成し、全米の教会をツアーして歌い、1978年にはチャーチ・オブ・ゴッド・イン・キリスト・ノーザン・デパートメント・レーベルから、「オン・ザ・バトルフィールド」という78回転シングルをリリース。

スライは、ギターを独学で学び、オルガン、ハーモニカ、他の楽器をマスターしていった。そして、ドゥーワップ・グループ、“ヴィスケインズ”のリードヴォーカリストとなり、1960年には、トロッポ・レーベルから「ストップ・ホワット・ユーアー・ドゥーイング」を、1961年にはVPMレーベルから「イエロー・ムーン」(ポップチャートでトップ10ヒット)をリリース。其の後、ヴァレーオ・ジュニア・カレッジで音楽理論を3年間学ぶ。

オータム・レコードと契約し、プロデューサーとして手腕を見せる。その一方で“ストーナーズ”というバンドを結成し、さらにサンフランシスコのKSOL局や、オークランドのKDIA局で、ディスクジョッキーとして活躍した。

(2)スライ&ファミリー・ストーン

 1966年に、ストーナーズと、ストーン・ソウルズが合併して、スライ&ファミリー・ストーンが誕生する。メンバーは、スライ・ストーン、フレディ・スチュワート(g)、ラリー・グラハム(b)、シンシア・ロビンソン(tp)、ジェリー・マティーニ(s)グレッグ・エリコ(ds)。

1967年のデヴューアルバム「ア・ホール・ニュー・シングス」は、殆ど注目されなかった。その後、スライの妹のシンシアがグループに参加。

1968年はじめの「ダンス・トゥ・ザ・ミュージック」から人気が出る。
R&B/ポップの両チャートで以下の3枚のシングルは1位となる。
「エブリデイ・ピープル」(1968)
「サンキュー」(1970)
「ファミリー・アフェアー」(1971)

1969年のウッドストック音楽祭では、ファンクとソウル、ジャズ、ロックの融合を見事に果たし、多くのミュージシャンにも多大な影響を与えることとなる。しかし、絶頂期にいたのはわずか4年足らずで、ウッドストック以降、スライはコカインに手を染めるようになり、仕事の時間に遅れたりすっぽかしたりし始め、バンドのメンバー達はしだいに脱退していく。1972年にラリー・グラハムをはじめ、1979年にはシンシア・ロビンソンのみオリジナルメンバーとして残っていた。その頃のアルバムは全て不発に終っている。

(3)解散後のスライ・ストーン

1981年、ジョージ・クリントンのアルバム「エレクトロニック・スパンキング・ウォー・ベイビーズ」と、Pファンク・オールスターズのシングル「ハイドロウリック・パンプ」に参加。1986年の映画『ソウル・マン』のサウンドトラックで「ラヴ・アンド・アフェクション」をマーサ・デイヴィスとデュエット。ボビー・ウーマック、バーケイズ、ジェシー・ジョンソンらのアルバムにも参加し、スポットライトを浴びるが、当時の栄光はない。

(4)解散後のラリー・グラハム

1972年にバンドを脱退し、グラハム・セントラル・ステイションを結成。

 

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