群像

龍野高校と真宗」「播州の妙好人」で取り上げた人以外で、播州に縁のあった人たちを「真宗」というフィルタを通してピックアップしたいと思います。(敬称略)

友君(ともぎみ)
弁円(べんねん)
一遍(いっぺん)
空善(くうぜん)
慧敬(えきょう)
玄哲(げんてつ)
等空(とうくう)
智暹(ちせん)
泰乗(たいじょう)
凝翠(ぎょうすい)
智統(ちとう)
智城(ちじょう)
普聞(ふもん)
廓忍(かくにん)
高厳(こうごん)
随慧(ずいえ)
密厳(みつごん)
浄応(じょうおう)
円隆(えんりゅう)
和平治(わへいじ)
徳潤(とくじゅん)
泰厳(たいごん)
聞随(もんずい)
勝乗(しょうじょう)
廓超(かくちょう)
恵門(えもん)
慧見(えけん)
大円(だいえん)
恵諦(えたい)
深明(じんみょう)
藤 喚言(ふじ かんごん)
後藤 祐秀(ごとう ゆうしゅう)
清水 秀泰(しみず しゅうたい)
静照(じょうしょう)
棚原 正瑞(たなはら しょうずい)
望月 海音(もちづき かいおん)
後藤 祐護(ごとう ゆうご)
山名 了悟(やまな りょうご)
旭 確方(あさひ かくほう)
眞能 義聞(まのう ぎもん)
牧野 大嶺(まきの だいれい)
佐々木 量俊(ささき りょうしゅん)
檀特 教遵(だんどく きょうじゅん)
鈴木 法琛(すずき ほうちん)
赤松 性真(あかまつ しょうしん)
村上 鳥渓(むらかみ ちょうけい)
田渕 静縁(たぶち じょうえん)
小林 力演(こばやし りきえん)
花円 映澄(はなまる えいちょう)
岸本 義導(きしもと ぎどう)
辻 善之助(つじ ぜんのすけ)
暁烏 敏(あけがらす はや)
播磨徳育会(はりまとくいくかい)
森川 智徳(もりかわ ちとく)
眞能 義彦(まのう ぎげん)
稲垣 瑞劔(いながき ずいけん)
亀川 教信(かめかわ きょうしん)
山名 義芳(やまな ぎほう)
結城 令聞(ゆうき れいもん)
椎名 麟三(しいな りんぞう)
池本 重臣(いけもと じゅうしん)
杉山 義昭(すぎやま よしあき)
井戸 誠一(いど せいいち)
司馬 遼太郎(しば りょうたろう)

友君(ともぎみ)

播磨の室津(兵庫県揖保郡御津町室津)で、法然上人(親鸞聖人の師匠)に教導を受けた遊女。 法然上人が流罪で土佐(高知県)に流されようとしていた途中に出遇ったのが、遊女友君でした。木曽義仲の側室の一人でしたが、戦を嫌ってか、生き別れた子供の養育費のためか遊女となった。

弁円(べんねん)

1180-1252年。幼名を珠王丸という。珠王丸の母の生国は播磨の国、現在の山崎町川戸で、飢饉を逃れるため珠王丸は母に連れられ一時ここに身を寄せた。しかし播磨もまた飢饉であったため疲弊した母は珠王丸が4歳のときに逝去した。その後、飢饉と戦乱の時代を背景としながらも祖父母に育てられたが、その祖父母とも死別して天涯孤独の身となる。修験者弁海の弟子となり名を弁円と改め、播磨の公弁円(はりまのきみべんねん)と称した。関東の地で頭角を現し、緒人の崇敬を集めていたが、親鸞聖人が関東の地に来られてからは凋落衰微の一途をたどった。そこで弁円は親鸞聖人殺害を決意し、実行しようとしたが、聖人の御徳に触れて、弟子35人とともに門弟となり無二の念仏者「明法房(みょうほうぼう)」と生まれ変わった。
親鸞聖人を殺害しようとした場所である板敷山で明法房が詠んだ歌一首。

山も山 路も昔に変わらねど 変わり果てたる わが心かな

明法房の遺言で弟子の吉祥房は、彼の遺骨を聖人の六字名号とともに、祖父母と母の墓がある山崎町川戸に持ち来たり、そこに小さな五輪(仏教で地水火風の五大を現す)の塔を建て、その傍らに草庵を建てた。そこに聖人真筆の名号を安置して「専修念仏道場の元」と称し、師の明法房の面影を思いつつ、浄土真宗を弘めた。

一遍(いっぺん)

1239-1289年。時宗の開祖。 浄土真宗と時宗とは同じ浄土教ながら教義的な相違が見られますが(詳しくは民藝研究で知られる柳宗悦氏の『南無阿弥陀仏』参照)、一味の信心という点においては一遍も親鸞聖人も違いはないと思います。 一遍が播州で化導したときの問答を弟子が記録した書に『播州法語集』があります。 この書の始めには「一遍上人播磨御渡りの時、御法門聞書」と記されています。 また、親鸞聖人と同様に一遍も教信沙弥を追慕していました。

 

空善(くうぜん)

兵庫県飾磨郡の法専坊に住んでいました。 下間空善(しもつまくうぜん)。本願寺第八世法主蓮如上人の門弟で、実如上人にもつかえました。 蓮如上人の言行を伝えた『空善日記』の著者です。明応4年(1495)、蓮如上人より六字名号2幅と阿弥陀如来の御影などを受けて播磨に下った。また、播州英賀(あが)城の城下の一隅に設けた布教道場は後に蓮如上人を開基とする亀山本徳寺となり、播州の真宗信仰の中心的役割を果たしました。

 

慧敬(えきょう)

1650-1718年。兵庫県印南郡魚崎の真浄寺(本願寺派)の第5世の住職。智暹の先代。

玄哲(げんてつ)

1656-1729年。兵庫県宍粟郡山崎町 本願寺派光泉寺。

等空(とうくう)

兵庫県印南郡伊保崎 本願寺派西秀寺。北陸地方、特に越前に異義異安心の者が多く出たことがあったが、このとき本山は諸僧を遣わしたが却ってやりこめられた。そこで本山は等空を福井御輪番に任命し、異義者を説諭したがなかなか説き伏せることができなかったが、やがて等空の熱誠な正理に従い正義に服した。

智暹(ちせん)

1702-1768年。兵庫県印南郡魚崎の真浄寺(本願寺派)の住職。若霖(「じゃくりん」本願寺派第3代の能化)門下の秀才。播南轍の祖。
明和元年(1764)に『真宗本尊義』を著述してこれを翌年の6月に刊行し、明和4年(1767)に功存率いる学林を相手に争論(明和の法論)を起こしました。この法論は教義的な対立だけでなく、その裏面には能化選任にからむ感情的対立もあったと言われています。師である若霖の後継として能化に就任したのは同門の法霖(ほうりん)でした。そして、その法霖の亡き後、能化に就任したのは次代の能化と目されていた智暹ではなく、義教(ぎきょう)でした。この能化問題が尾を引いて能化率いる学林派と智暹派の対立的構図が明和の法論の背景にあったのではないかということです。
法論は、智暹が『真宗本尊義』などを著述して、その中で法霖の著した『方便法身義』での本尊論を批判し、加えて法霖の説に一益達解(いちやくたつげ)の異義が見られるという指摘をしたことで、学林派と智暹派は教義的に対立し、一大論争となりました。「浄土真宗の教義を研鑚し人を教化指導していくはずの能化の唱える説に異義異安心が含まれている」と智暹が指摘したのですから、宗門内でこれが大問題になったのも当然でしょう。
また、播南轍は三業惑乱にも大きく関わっておりました。(これについては播南轍を参照のこと)
智暹の本尊論は天倪(てんげい)や義教などの学林派の人たちによって批判され、天倪、義教両師の説が本願寺派内では踏襲されてきていますが、智暹の起こした法論が本尊論の教義的確立に貢献したことは確かだと思います。

また、本派の学轍の中では衰微していった播南轍ではありますが、大派高倉学寮の学風、特には『教行信証』の釈風には智暹の影響があるといわれています。(これについても播南轍を参照のこと)

【著書】

『教行信証樹心録』『正信念仏偈樹心録』『愚禿鈔樹心録』『阿弥陀経展持鈔』『淨土眞宗本尊義』『本尊義破邪顕正』『安心相違之覺書』『鞘之間論議』『折衝編通釋』『折衝編中必定釋名之辨』『破安心相違之覺書條々』『本尊義答釋』『本尊義一百問』『本尊義一百八十難』『略逑法身義』

泰乗(たいじょう)

1725-1782年。兵庫県揖保郡中井の山村家に生まれた。播南轍智暹師の門人。「五峯庵」を設け門人を育成。

凝翠(ぎょうすい)

1732年。兵庫県佐用郡平福 本願寺派光勝寺。第4代能化であった法霖師の門人。

智統(ちとう)

兵庫県飾磨郡夢前町高長 本願寺派光瑞寺。播南轍智暹師の門人。明和の法論の際には、選ばれて論場に列席した。

智城(ちじょう)

兵庫県印南郡魚崎の本願寺派真浄寺。

普聞(ふもん)

兵庫県姫路市 本願寺派善教寺住職。三業惑乱のときに古義正義派として活躍した。

廓忍(かくにん)

1775-1838年。魚崎 西秀寺→兵庫県加古郡荒井 本願寺派明覚寺→揖保郡中井 浄蓮寺。勧学。道隠師(空華轍)の門人。

高厳(こうごん)

1790年。兵庫県飾磨郡夢前町護持 本願寺派本誓寺。「興厳」とも記す。播南轍智暹師の門人。自坊に学寮を設け多くの門人を育てた。

【著書】

『浄土文類聚鈔嘆聞編』『正信念仏偈栖心録』『安楽集通路記』『選択集講翼』『正信念仏偈勧説輔翼(正信念仏偈勧説講翼)』

随慧(ずいえ)

?-1782年。兵庫県印南郡佐土 大谷派福乗寺。贈講師。開轍院。本願寺派では智暹師(播南轍)の門人。大谷派では慧然師、慧琳師(高倉学寮)の門人。門下には大谷派宗学を大成した香月院深励師および易行院法海師がいた。

密厳(みつごん)

1763-1819年。兵庫県飾磨郡夢前町護持 本願寺派本誓寺。播南轍智暹師の高弟泰乗師の門人。高厳師の弟慧洸師の末子。高厳師にも師事して本誓寺の住職を継嗣した。

【著書】

『閣斉問答』『決択両條』『小経勧信録』『序文義私考』『選択集叩感録』『浄土文類聚鈔講輔』『大経和讃一諦録』『大経和讃講苑』『観経和讃己下講苑』『浄土和讃講義』『正信偈歸閲録』

浄応(じょうおう)

1766-1798年。兵庫県加古郡北山 本願寺派常泉寺。播南轍智暹師の門人。

【著書】

『鞘之間論議』『仏説無量寿経玄談』

円隆(えんりゅう)

?-1811年。兵庫県明石市 大谷派常徳寺。擬講。

和平治(わへいじ)

-1836年。兵庫県龍野市誉田町広山。塩津和平治。代々庄屋を勤め、農業もやれば商才もあった。西播では比肩のない富豪家であったが、熱心な仏教信者で、東本願寺に出願して家の近くに洗心寺を創建した。その三男が後に本派勧学となった英僧徳潤であった。

徳潤(とくじゅん)

1766-1824年。兵庫県揖保郡新宮町香山 本願寺派宝林寺。水原徳潤。「得潤」とも記す。勧学。亀山御坊本徳寺の講師。播南轍高厳師、常照師(智暹師の門人)の門人。父、和平冶は奇異の思いをなし宝林寺に入れた。宝林寺の実恵は徳潤を後継とした。徳潤は、自坊に「香山学寮(洗心館)」を開設して学徒を育成した。三業惑乱に際しては徳潤もまた起ってその糾弾に当たったため、三業新義派の徒の憎むところとなり毒殺された、という。

泰厳(たいごん)

兵庫県飾磨郡夢前町護持 本願寺派本誓寺。助教。曇龍師(龍華轍)の門人。

聞随(もんずい)

1800年。兵庫県印南郡神瓜 本願寺派覚正寺。号は赤厳(せきがん)。第7代能化智洞の門人。

勝乗(しょうじょう)

1779-1840年。兵庫県神崎郡船津 本願寺派常徳寺。司教。高厳師(播南轍)の門人。密厳師の弟。自坊に私塾「勝乗社(映雪堂)」を開設した。

廓超(かくちょう)

1790-1840年。兵庫県姫路市勝原区 本願寺派福正寺。旭廓超。司教。廓忍師(空華轍)の門人。

恵門(えもん)

1790-1862年。兵庫県揖保郡太子町 本願寺派福専寺。神子上恵門。博学多識、学徳兼備の人。自坊に「獲麟舎」を開設して後進を教化した。本山より派遣されて諸国を巡教し、また仏教講義録を発行した。真宗僧侶にして師の教えを受けない者は布教の資格なし、というほどであった。

慧見(えけん)

兵庫県印南郡佐土 大谷派福乗寺。

大円(だいえん)

兵庫県揖保郡太子町。大谷派正円寺。

恵諦(えたい)

兵庫県赤穂郡上郡町。大谷派西乗寺。

深明(じんみょう)

兵庫県神崎郡香寺町恒屋。大谷派祐光寺。

藤 喚言(ふじ かんごん)

1798-1881年。兵庫県印南郡的形 本願寺派顕証寺。贈司教。廓忍師(空華轍)の門人。

宗学を学んでいる人たちが真宗の各学派の説を話題にして争っているのを聞いて、喚言は「真宗は他力本願だから、他力に近い説が一番よい」と言った。

法門を覚えて人に売り心、わが身のためと聞かぬ気の毒

後藤 祐秀(ごとう ゆうしゅう)

1802-1873年。兵庫県神崎郡船津村 大谷派西勝寺の人。大谷派の贈嗣講(「嗣講(しこう)」とは大谷派の学階の一つで、講師に次ぐもの。死後に嗣講の学階を贈られたので「贈嗣講」という)。香樹院徳龍師の門人。香樹院師の門下の中でも道風殊に高かった人。

香樹院師との間にこんな話が残っています。
祐秀は、若い頃、浄土真宗の開祖である親鸞聖人のゆかりあるところを巡拝したことがありました。越後(新潟県)を訪れたとき、香樹院師のおられる無為信寺に参詣して、師の教えを受けました。さて失礼して帰ろうとしたある日の早朝、船着き場に行ったが強風のため船便が出ません。そこで祐秀は再び師のもとへ引き返して、事情を説明しました。
祐秀「今日一日滞在して近くの名所見物をしようと思うのですが」
香樹院「名所を見ても何のことはない。それよりも読書をしたらどうか」
祐秀「そうしたいところですが、すでに荷造りをしてしまったので読もうにも本がございません」
香樹院「一日に読むくらいの本はここにもある」
そして香樹院師は自分の机上の本を祐秀に渡されました。
過日、祐秀が後進を誡めるときには、よくこのときの話をしました。
「あの時、名所を見物していたら何にもならなかった。わずか一日のことだったけれど、その読書の智識は生涯にどれほどの好影響をもたらしたか知れない。また、このときの師の教訓に感銘を受けて、多忙のときも寸隙を捨てずに読書すべきことを習得した」

清水 秀泰(しみず しゅうたい)

1803-1883年。兵庫県姫路市林田 妙善寺。生来秀才で幼年より仏典に通じ壮年に『浄土真宗大系』などを読破し、門徒などには独自の表現法をもって布教した。

静照(じょうしょう)

1810-1873年。近江の光照寺に生まれる。空華轍。後年、播州光触寺に入る。

「地獄因(じごくたね)を知らせてやろう。他流にはおいては三毒煩悩が地獄因だが、当流にはそれが如来のお救いのお目当てだ。当流の地獄因を知らせてやろう。両手合わせて、これで後生をしのごうという機が地獄因だ」

「あなたは聞こえたら明らかになると思っているが、その思い心は得られた信心で浄土に参るつもりだ。それは大間違いだ。南無阿弥陀仏で往生だと聞こえたほかに、信心といっても別にあるのではない」

「30年50年聴聞しながら、ただ、信を取ることのみに骨折っておる。これは骨の折り場が違う」

棚原 正瑞(たなはら しょうずい)

1811-1880年。兵庫県神崎郡香寺町 本願寺派光輪寺。棚原正瑞。棚原霊瑞とも呼ばれる。司教。性海(空華轍)の門人。子には勧学となった教遵師がいました。門下には稲葉一道師がいた。

望月 海音(もちづき かいおん)

1814-1882年。兵庫県揖保郡室津 本願寺派寂静寺の人。本願寺派の贈勧学。若い頃は勝乗師に学んだ。泰巌師(たいがん、石泉轍、勧学)ならびに性海(しょうかい、空華轍)の門人。学轍は空華轍。寺内に『耕雲閣』と称する学寮を設けて後進を導いた。

【著書】

『唯識三類境選要講録』『往生要集通講』『称名信楽悲願成就文講録』『論註八番問答講録』

後藤 祐護(ごとう ゆうご)

1826-1895年。兵庫県神崎郡船津村 大谷派西勝寺の人。大谷派の僧侶。明治維新の廃仏棄釈の際に護法に功績がありました。また、日清戦争の際は奨義のために大いに努めました。
念仏三昧の人で、談話中にも袖の中で数珠を繰りつつ数を数えて、日課6万遍というほど、念仏を称えた人でした。また、祐護は「極悪深重の衆生は他の方便さらになし、ひとえに弥陀を称してぞ、浄土に生まるとのべたもう」の御和讃をもって信仰の骨髄とし、その臨終に枕辺に集まっている同行に対して、昏睡状態から覚めては、「極悪深重の衆生は...」という御和讃を唱えて最期まで法話をした人でした。

山名 了悟(やまな りょうご)

-1903年。兵庫県赤穂市周世 大谷派専念寺。大谷派の布教使で、全国巡教して一生をおくった。明治初年、姫路船場本徳寺で各宗派代表が説法したとき、大谷派の代表として説法し称賛された。

旭 確方(あさひ かくほう)

1831-1905年。兵庫県姫路市勝原区 本願寺派福正寺。司教。行照師(空華轍)の門人。安心法談の名師として仰がれた。

「信心を得よう安心しようとかからずに、御本願の確かなことを聞きなさい。御手元の丈夫なことさえ知られたら、自分の手元はどうでもよい」

眞能 義聞(まのう ぎもん)

1840-1905年。兵庫県飾磨郡山野井 本願寺派法恩寺。司教。自坊に「宜信寮」を開いて後進を指導した。

牧野 大嶺(まきの だいれい)

1903年。兵庫県川辺郡尼崎 本願寺派常性寺。勧学。行照師(空華轍)の門人。

佐々木 量俊(ささき りょうしゅん)

?-1899年。兵庫県揖保郡揖保川町 本願寺派明寛寺。善譲師(空華轍)の門人となり、18年間宗学を研鑚。自坊に学寮を設けて僧侶を教化した。明治20年より月刊雑誌『宝の林』を発行し、その傍ら諸国を巡教した。

【著書】

壱帖目第三通猟漁御文説教』『現生十種の益法話』(編集)『現生十益説教聞書』(編集)『御文章』(編集)『真宗安心御式文法話』(編集)『真宗安心法義示談』(編集)『新撰改良活用説教』(編集)『仏教入門初歩』(編集)『蓮如上人御実伝記』

檀特 教遵(だんどく きょうじゅん)

1846-1927年。兵庫県揖保郡太子町矢田部の清光寺の住職。本願寺派の学匠。明治44年8月3日勧学職に任ぜられる。学轍は空華轍。空華轍を大成した善譲師に宗学を学びました。本山の命により、大阪市住吉区の祐貞寺の兼務住職となり、亡くなったときも祐貞寺でした。

【著書】

『教行信証総序講話』『裁断申明書略述 他力安心の要義』『散善義二種深信講録』『浄土論註必由録』『本願成就文講話』『領解文対話』『観経散善義講録』『真宗安心法義引立示談』など。

鈴木 法琛(すずき ほうちん)

1852-1935年。兵庫県印南郡今市 本願寺派正覚寺。勧学。力精(りきしょう)師(龍華轍)の門人。龍谷大学学長。龍谷大学名誉教授。

【著書】

『真宗と通仏教』『宗要安心論題』『真宗学事史』『選択本願念仏集概説』『親鸞聖人教義の特色』『安楽集概説』『安楽集述要』『真宗綱要』『浄土真宗の極意 鈴木和上最後の垂訓』『真宗諭客編』(編集)『通俗仏教講演百題』『天游詩鈔』『仏家葬祭問答

赤松 性真(あかまつ しょうしん)

1855-1926年。兵庫県相生市矢野町 本願寺派光専寺。6歳で父に経典を教わった。12歳ですでに三部経を読み上げた。七里恒順師に仏教を学ぶ。学徳兼備の高僧。本山から七里和上の代理として招かれ、大学林に数年勤務。

村上 鳥渓(むらかみ ちょうけい)

1861-1918年。兵庫県赤穂市塩屋 本願寺派真光寺。宗学を原口針水師(龍華轍)、利井鮮妙師(空華轍)らより学ぶ。

田渕 静縁(たぶち じょうえん)

1870-1923年。兵庫県相生市矢野町 大谷派敬順寺。贈補権上僧都。「播州さん」と呼ばれた名僧。博学多識の雄弁な布教使。仏典を諸体徳に学んだ。明治32年滋賀県刑務所教誨師となる。2年後専ら布教使となり、全国を巡教した。

【著書】

『布教資料全集』『仏教各宗布教大資林』『布教大辞典』『説教妙弁辞典』『本願成就文』『布教十二ヶ月』『義士百話』『忠臣蔵四十七席誌』

小林 力演(こばやし りきえん)

兵庫県相生市矢野町下田 明専寺の住職。九州からの入籍。雄弁で知られ、諸国を説法して巡った。

花円 映澄(はなまる えいちょう)

1874-1935年。兵庫県神崎郡福崎町 本願寺派円照寺。司教。自坊に私塾「大正学館」を開設した。

【著書】

諸宗念仏教義の概観』『法衣史

岸本 義導(きしもと ぎどう)

1876-?年。兵庫県姫路市の本願寺派善教寺出身。本姓は結城。父は結城亮聞師。兄は結城義聞師。仏教大学(後の龍谷大学)卒業。転派して大谷派僧侶となり高倉大学寮(後の大谷大学)に入る。大谷派嗣講。

【著書】

『真宗安心論五十題講話』『元祖上人信行論法話』(編集)『正信念仏偈講義』『先徳芳談』『太藤順海遺稿全集』(編集)『歩船鈔非己録. 巻上・下

辻 善之助(つじ ぜんのすけ)

1877-1955年。兵庫県姫路市出身。 歴史学者。東京帝国大学文科大学国史科卒業。史料編纂所所長。東京大学教授。東京大学名誉教授。立正大学教授。上智大学教授。文化財専門審議会会長。文化勲章受賞。 姫路文学館では播州ゆかりの文人として氏を紹介してあります。
大正9年、伊勢専修寺で当時実在が問われていた親鸞聖人の真筆を発見しました。

【著書】

『日本佛教史之研究』『日本仏教史』『増訂海外交通史話』『日本文化史』『人物論叢』『日本仏教史の研究』

暁烏 敏(あけがらす はや)

1877-1954年。石川県出身の真宗大谷派の僧侶で清沢満之師に師事していました。金沢大学には暁烏師の蔵書5万冊余りが「暁烏文庫」として寄贈してあります。昭和26年、真宗大谷派宗務総長に就任。
その暁烏師が龍野市の円光寺(大派)に来たことがありました。そのときの座談会のテーマは「あなたは何を目的に生きているか」でした。暁烏師は出席者各人の意見を聞きながら、「人それぞれに生き方がある。もいちど自問自答をして、自分の人生観に間違いはないか、悔いを千載にのこさないか、と、確かめることだ」と、直接的な回答はされずに、座談会を終わったという。
暁烏師自身はもちろん十分な回答を持っておられたことでしょう。しかし、師から「聴いた、覚えた」回答では観念に止まってしまいます。その受け売りの回答でもってペーパーテストには合格するかも知れませんが、それで現実的に人生の難路を泰然とドライビングできるでしょうか。死に臨んで行けるでしょうか。回答は各人各様の人生の中で直接的に接しなければなりません。
自分の命と交換しても少しも惜しくない「答え」とあなたは直接的に出遇いましたか? それが、この座談会での問いかけだったのだと思われます。

播磨徳育会(はりまとくいくかい)

明治、大正にかけて播磨には宍粟郡を中心とした徳育会という会があり、東西両本願寺の僧侶の方を招聘して法話会を開いていました。招聘されたかたで著名な人(というよりも私の中で有名な人物)を挙げておきます。

赤松連城利井明朗井上円了雲山龍珠森川智徳

森川 智徳(もりかわ ちとく)

1880-1970年。兵庫県姫路市亀山 本願寺派勝久寺。龍谷大学学長。龍谷大学名誉教授。本願寺派本願寺ハワイ開教区開教総長。仏教伝道協会理事長。

【著書】

『宗教と人間』『回顧五十年』『哲学者の話』

眞能 義彦(まのう ぎげん)

1882-1948年。 兵庫県姫路市山野井町出身。哲学者。法恩寺住職。眞能義聞師の次男。京都大学哲学科を卒業後、イギリス・ドイツに留学。京城医専教授(ソウル)。相愛女学校(現在の相愛学園)校長。

【著書】

『親鸞聖人蓮如上人御舊蹟二十四輩順拝記』『信者の家庭

稲垣 瑞劔(いながき ずいけん)

1885-1981年。兵庫県姫路市出身。本願寺派僧侶。稲垣瑞剣。 成徳学園理事長、成徳学園高校名誉校長。法雷轍(断鎧→瓜生津隆英→桂利劔→稲垣瑞劔)。

【著書】

『死の解決』 『真実証と人生の目的』 『真宗玄義』 『本願力』 『願力往生』 『歎異抄の真髄』 『英訳 歎異抄』 『倶舎論研究』 『仏性論』 『大無量寿経大綱』 『宗教哲学の根本原理』 『英文 世界の光』 『大悲の願船』 『光海荘厳』『光寿の春』『安心のかなめ』『安心の要諦』『安心の極意』 『新興宗教の批判』 『仏教より見たるキリスト教』 『法の清水』 『教行信証と歎異抄の味わい』 『大信歌』 『教行信証大系』 『英文 教行信証』『信者吉兵衛』 『入信について』『大乗起信論』など多数。

亀川 教信(かめかわ きょうしん)

1891-1956年。兵庫県高砂市曽根町 本願寺派光照寺。勧学。龍谷大学文学部教授。

【著書】

『真宗と婦人問題』『仏教概論』『仏教各宗大意』『華厳学』『縁起の構造』『霊魂論』『仏教の霊魂観』『明るい仏教』『仏教の味い方』『仏教生活を語る』

山名 義芳(やまな ぎほう)

1895-1960年。兵庫県赤穂市周世 大谷派専念寺。山名了悟師の孫。苦学して大谷大学卒業。雄弁な説教師であり政治家(吉田内閣では文教委員)でもあった。また、神戸、久留米、高岡、鹿児島、岐阜などの教務所長を務めた。

結城 令聞(ゆうき れいもん)

1902-1992年。兵庫県姫路市出身。本願寺派善教寺住職。東京大学文学部印度哲学科卒。東京大学大学院修了。東京大学教授。本願寺派伝道院長。京都女子学園長・大学学長・短期大学部学長・付属小学校長・付属幼稚園長。
『教行信証』の成立において信巻別撰説(『信巻』は別に撰述されていたという説)を提唱し、当時の学界に反響を巻き起こしました。

【著書】

『現代語訳親鸞全集』『大無量寿経』『講座 佛教』『世親唯識の研究』『人間性の探求』『唯識学典籍誌』『心唯識論より見たる唯識思想史』『唯識の思想と歴史』『唯識三十頌』『新修 現代人の親鸞聖典』『剣禅一如 ― 沢庵和尚の教え』『結城令聞著作選集』『国訳一切経』など。

椎名 麟三(しいな りんぞう)

1911-1973年。兵庫県姫路市出身。 作家。姫路文学館では播州ゆかりの文人として椎名氏を紹介してあります。
キリスト教(プロテスタント)信奉者でありながらも、親鸞聖人に強く惹かれた人でありました。

「その宗教家のなかでも、私は、あの親鸞に肉体的な親近感を感ぜずにはいられないのだ」
「親鸞の思想の注目すべき点は、仏教に伝統的なこの世をいとうというような態度とは逆に、むしろ積極的にこの世に生きることを肯定した点だろう」
「しかし親鸞は、ほんとに在家信者だったのかとなると、私にはいささか疑問が残るのである。何故なら出家か在家かという問いを親鸞に向けた場合、親鸞はこう答えるからだ。「僧にあらず、俗にあらず」。全く心にくいかぎりだ。私はこのような親鸞が大好きである。そこに人間としての親鸞が、見事に生きているかぎりだ」
「だがその信仰は、出家主義者からも在家主義者からもおかしなものであり、否定されるべきものでさえある。しかも彼はこの自分の信仰のリアリティを毫も失っていない。いわく愚禿親鸞。私が彼に脱帽せざるを得ないのは無理はないだろう」
「しかし私は、このような親鸞にふかい共感を覚えずにはいられないのである。彼は、どこまでも私たち凡夫の側に身をおいてくれるのだ。そこに凡夫と親鸞との間にいのちといのちのつながりが生れて来るのは当然だろう。むろんこのつながりは、親鸞の信仰が仲立ちに立ってくれているということはいうまでもない」

【著書】

『深夜の酒宴』『猫背の散歩』『永遠なる序章』『避逅』『自由の彼方で』『美しい女』『私のドストエフスキー体験』『蠍を飼う女』『愛について』『赤い孤独者』『私の聖書物語』『懲役人の告発』『運河』『罠と毒』『愛の証言』『媒妁人』『断崖の上で』『勤人の休日』『凡愚伝』

池本 重臣(いけもと じゅうしん)

1913-1968年。兵庫県姫路市出身。龍谷大学卒。龍谷大学教授。浄土真宗本願寺派法性寺住職。

【著書】

『大無量寿経の教理史的展開』『大無量寿経の教理史的研究』『真実の宗教』『親鸞聖人の求道と信仰』『親鸞教学の教理史的研究(遺稿)』

杉山 義昭(すぎやま よしあき)

1915-。兵庫県宍粟郡山崎町。本願寺派布教研究所終了。本願寺派明源寺住職。本願寺派布教使。小山法城師(空華轍)から宗意安心の教示を受ける。

【著書】

『法悦の親鸞』『親鸞聖人の教判』『真宗のおしえ』『親鸞聖人』『二河譬の研究』『願力を聞く』『天台学要論』『親鸞聖人の宗教批判』

井戸 誠一(いど せいいち)

1916-。兵庫県龍野市出身。麹製造業。作家。浄土真宗の香り深い作品を残されました。

【著書】

『王舎城』『鎮魂の曲』『親鸞ノート』『羅漢物語―ある男の入信経路―』『呪われた人々』『赤松圓心則村とその一族』『竜野ところどころ』『続 竜野ところどころ』『即日帰郷』『結婚記念日』『潮の香』

 

司馬 遼太郎(しば りょうたろう)

1923-1996年。作家。本名は福田定一。姫路文学館には「司馬遼太郎記念室」が設けてあり、播州ゆかりの文人として司馬氏を紹介してあります。 黒田官兵衛(黒田如水)を主人公にした長編『播磨灘物語』で、石山戦争時の播磨の様子を描いています。 司馬氏の先祖は官兵衛に敵対した英賀(あが)の門徒であり、帰農して現在の姫路市広畑で明治を迎えました。祖父(福田惣八)は熱心な真宗門徒だったという。

「祖父は、播州出身の浄土真宗の熱烈な帰依者であった。終生、攘夷を曲げない庶民の一典型であったという。
 わが祖父惣八の顔をわたくしは知らない。わたくしの父が惣八の晩年の子で、父の少年のころに惣八は死んでいるから、孫であるわたくしが知ろうはずがなく、写真なども何度かの火災で焼けてしまったそうで、見たことがない。
 「お前に似た顔だ」
と、父はわたくしにいう。声などそっくりだと父はいうのである。ただわたくしよりももっと丸顔でやや背が低く、晩年は中気でびっこだった、という。そんなに自分に似たひとかということが、わたくしにただならぬ思いをもたせるようになった。
 祖父惣八は、播州人である。」(播州の祖父)

攘夷を曲げなかった祖父の惣八さんは、西洋の文化も嫌ってか、日露戦争の終わるころまで、チョンまげを結っていたということです。幕末の頃の攘夷思想が残っていたそんな惣八さんの、西洋のものと言えば、時計とこうもり傘だけでした。餅屋を営んで餅やおカキ(関東でいう「あられ」「せんべい」の類)を売っていた頃などは、これも西洋のものを用いるのが嫌いということで、当時安価だった台湾米を使わずに国産米で餅やおカキを造っていたので、経営的には傾いたという。

「兵庫県姫路市の浜寄りの郊外の広(ひろ)という村の出身で、そこに江戸時代のあいだずっと百姓をしていた家系に生まれた。
祖父惣八がとなえるお経もお西の節(ふし)であった。このことは生涯頑固にまもった。
お東の事実上の門徒でありながら自分の唱えるお経はあくまでも、お西の流儀でやるということを三百年もつづけたという話は、わたくしが自分の無名の先祖どもをおもうとき、もっともこれを誇らしく思う」(ある明治の庶民)

大谷派(お東)の門徒でありながら、本願寺派(お西)を尊んでいた惣八さんは、東西の本願寺が戦争すれば命をかけて戦わねばならんとつぶやいたくらい、戦闘的ながらも「愛山護法」に燃えていた人のようです。

 

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