檀特教遵勧学法話

二 『本典』と『三帖和讃』

 宗旨宗旨には、それぞれの経典がある。我が浄土真宗では、浄土の三部経を以って正依の経典とし、七祖の聖教を依憑するのであるが、この外には御開山様が、浄土真宗の基礎として『教行信証』六巻の聖教を御製作なされて、教の巻において「謹んで浄土真宗を案ずるに、二種の廻向あり。一には往相、二には還相なり。この往相の廻向について、真実の教行信証あり」と仰せられてある。この御言葉を一口にお話をすれば、教行信証とは、教はおしえで、学校でも先生が教えて、その教えの通りをば学問するのが行で、その学問勉強の上、卒業のできたが証、これを卒業の証という。然るに、浄土真宗は、浄土へ参るは南無阿弥陀仏で参ることを教えて下さるが『大無量寿経』。その南無阿弥陀仏は、衆生が勉強するではない、阿弥陀様が永劫に修行して下されて凡夫の行と成就して下されたを行という。されども仏の手許では行ができても、衆生に手渡しができねばならぬ。そこでその行をもらうのが信であるゆえ、行の次に信ということを知らして下されたが、自力の法においては無いことで、他力の上では一番信が肝要となるゆえ、自力では教行証の三つであるけれども真宗では、行と証との間に信が加えてある。これは行者の方に修行はいらぬ、信ずるばかりで、行は如来の方より御廻向になるからである。故に信ずれば証が開かれる故に、信の次に証と漣ねて、教・行・信・証と仰せられた。この教行信証は、吾々が娑婆から浄土へ、入り込む次第を知らせて下されたのじゃ。

 また三帖の『御和讃』を御述作なされた。そしてまず初めに冠頭讃と申して、浄土真宗の要を顕して下された。和讃とは難しい言葉を、和国すなわち日本の言葉に和らげて、愚かな凡夫に分かり易く御讃嘆下されたゆえ、和讃という。元来『和讃』に三帖ありて、その次第は、『教行信証』とは顕わし方が違うて、これは阿弥陀如来の正覚の果海より、「十方世界普流行」と、遠くは十方、近くはこの娑婆世界にあらわれて、吾々が機にはたらいて下さる次第を知らせて下されてある。

 そもそも今御讃嘆の初めの「弥陀の名号となえつつ、信心まことにうるひとは、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」の一首が信を勧め、次の「誓願不思議をうたがいて、御名を称する往生は、宮殿のうちに五百歳、むなしくすぐとぞときたもう」の一首は疑いを誡め、三帖の『御和讃』、その数多けれど、肝要はこの勧信と誡疑の外はない。そこで信を勧め疑いを誡むるの二つを、まず看板にかけて知らせて下された。ちょうど米屋は米の看板、酒屋には酒屋の看板が掛けてある如く、この二首の和讃を看板にかけて、名号を称えても信が無くてはならぬ。疑うて称うれば、化土の往生じゃと知らせて下されたのじゃ。

 それから弥陀成仏の『和讃』を最初に置きあそばして、阿弥陀様が衆生往生せずば正覚取らぬと誓うて、その正覚成就して「法身の光輪きわもなく、世の盲冥をてらすなり」と、我々無明の迷いの闇を照らして下される。そこでその御徳を知らして、十二光の和讃を作り、次の浄土の二十九種の荘厳を御讃述なされ、皆これが正覚成就のいわれ、また『三経和讃』も、正覚成就ゆえに、衆生が往生できることを如らせ、次に『諸経和讃』も、阿弥陀如来の御徳を、諸経に説きこんであることをお知らせ下され、『現世利益和讃』は、ただ未来助かるばかりでない、現に広大なる利益のある、正覚成就の南無阿弥陀仏なりと知らせ、『勢至和讃』も、その六字を勢至菩薩が弘通あそばすということを教え二帖目の『高僧和讃』は七高僧が『三部経』のいわれを御相承なされたことを示して、正覚の果海から三経と顕われ、七高僧の御聖教と流れ出で来るすがたである。また『正像末和讃』は、正覚成就の南無阿弥陀仏は、正像末の三時に弘まることを知らせたもう。かように『三帖和讃』は、正覚の本から我々の機を讃嘆させて下さる次第をお知らせ下されてある。

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