檀特教遵勧学法話

四 心得やすの安心

 

 親鸞聖人は『歎異鈔』の中に「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおほせをかうぶりて信ずるほかに別の仔細なきなり」とおほせられてあります。誠によく、この上もなくすなおに信順せられたものと存じます。皆様も祖師聖人の如く、従順に如来の仰せに従うことができますか、いよいよ往生に安心ができましたか。

 皆さんの中には、安心を自分自身で製造する人がある。領解大事にこりかたまりて、とかく従順に如来の御誓願に信順しないからいけないのであります。後生大事を忘れて領解大事と機に滞って、一向如来の大悲に目のつかぬのは大きなる誤りで、後生大事のこころより如来様のまことを仰げば、その後生は案じるに及ばぬ、その機のなりで救うと明らかに申されているから何ら心配も無いはずであります。然るに皆様は領解大事と機をながめ、すなおに如来の仰せをまうけにせぬから、とかく重荷はおろされませぬ。真実仰せが真受けにせられたならば、只々有難うと御受けするより外はないのであります。

 元来、安心のできぬというのは、全くお慈悲に目がつかぬからであります。後生大事とふみ出して、如来の御慈悲に目がついたなら、引き受けるとの御誠に助けられるとなったなら、何ほど小言の言いたい我々でも、信ぜられぬ、戴かれぬ、安心ができぬということはできぬではありませんか。如来様からはすでに先手をかけて、そなたの願行はできてある、罪や障りは消してやる、そのまま助くるぞよの仰せに、後生助けたまえと思う心が、取りも直さず安心である。

 本当はこんなに信じ易い安心でありますが、皆様はとかく難しく考え過ぎる。すなわちたすけたまえとたのむのであると聞くと、その助けたまえに喰いついて、そのたのみ方がどうのこうのと心配を始める。たすけたまえとあるゆえに、どうぞという請願の心が加わらねばならぬとか、口ばかりでは行かぬ、三業が揃わねばならぬとか、いろいろと心まどいが生じて来ます。名高い三業惑乱などは全くこの一つで、信明院(本如上人)様が命にかけてこの迷いを御裁断くだされて「助けたまへとたのむといふは、ただこれ大悲の勅命に信順するこころなり」と示されてある。然るにたのみごころにとやかく言うている、これらは悉く間違いで、只々大悲の勅命に信順する外はないのであります。例せば、人が物をやるぞと言うとき、くれたまえと返事するは、やるぞよの命に順うたのである。うけたのである。今も如来はやるぞと仰せらるる、我々凡夫はくれたまえと御受けをするより外には、何の雑作もないのであります。たのむというのも往生の勅命のままに、御まかせするというのに外ならぬのであります。御経に「聞其名号信心歓喜」と申されてあるのはこの心で、「信心歓喜」というのは、浄土の往生は疑いなく思うて喜ぶ心であります。我々は助けられ手、如来は助け手、それゆえ、機の方には何一つ用意も、準備も必要なく、このまま参らせて戴くのであります。さてかく安々と往生させて戴くことの、ああ有難やかたじけなやと、疑いなく思うてよろこぶ心が、すなわち一念の信心の相続のすがたである。

 我が身の方から疑いをはれてかかるのではありません、必ずや往生させてやるの如来の大悲に疑いが無くなり、御浄土参りに心配が無くなるのであります。如来は何もかも仕上げた上、何もかも見抜いた上で、疑いなく、間違いなく助けてやろうと、およびかけくださるのであります。凡夫の方では何の思案も、何の用意もいらんのであります。只々御受けするばかり、如来の御言葉に順いまいらす外はないのであります。

 世の中には疑いさえなければよいと心得て、阿弥陀如来の御慈悲は、いかなる衆生も救うと仰るから、私は助けてもらうことと思うておるというて、何のよろこびも無い者がたくさんあります。たとえば、石は固い物、綿はやわらかい物とは、誰も信じて疑いません。しかし、石はかたい、綿はやわらかいと信じたのみでは、ありがたいもうれしさをも感ずることはできないのであります。

 たとえば、今二人の娘があったと考えてみる。さて父親がその二人の娘に向かって申しますには、「今度はお前達を京都や奈良見物に連れて行ってやろう」と。すると一人の娘の申しますには、「それは有難いことでございます。私も一度御本山へ参詣したいと思っていましたのに、今度お父さんが連れて行ってくださるとは、何とした有難いことでございましょう。このようなうれしいことはございません」と言う。ところが一人の娘の申しますようは、「京都や奈良も結構ですが、なにもこの頃のような暑い時分でなくとも、いつでも私はやってもらいます。一人でも行きます。今のような暑いときに汗だらけになって見物するよりは、ゆっくり家に休んでいたほうが、よほどましだと思いますから、今度は止めに致します」と勝手を言うている。この二人の娘について考えて御覧なさい。二人とも父親が連れて行ってくれるということは信じています。この暑い時分にと言った娘でさえも、お父様が連れて行ってくれないとは思っていません。しかし、一方は何よりのことと父の仰せを受けた、一方は全くこれがありません。これが二人の相違であります。疑いはせぬが、ありがたいと御受けせぬのは、言葉を疑わぬだけで、少しも先方の親切を受けていないのであります。これに反して一方の娘は、これは何よりうれしいこと、私も一生のうちには是非一度参らせてもらおうと思っていたのに、今度連れて行っていただくとは、この上もない身の仕合せと、如来の慈悲が身に受けられると、受けられぬとの違いであります。受けられた人はいつ思い出しても有難い、受けられぬ人は、平生は疑いさえなければとすましているが、一朝病気にでもかかると、何となく心苦しくて、いよいよ未来は参ることができるかとおしつめられると、何やら薄紙をへだてたような心地がする。皆さんはそんな感じは起こりませんか。これは前の娘と同様で、如来様の心と自分の心とが離れていて、せっかくの親心が私の心にとおりていないからであります。

 無論死ぬるとなれば、何ほど信心堅固の人だからとて、決してうれしい思いは致しません。御開山様(親鸞聖人)でさえ「久遠劫より、いままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだむまれざる安養の浄土は、こひしからずさふらふこと、まことによくよく煩悩興盛のさふらふにこそ、なごりおしくおもへども娑婆の縁つきて、ちからなくしておはるときに、かの土へはまいるべきなり」と申されてあります。我々の根性から申せば、なかなか浄土参りがうれしいというような心は起こらぬ。却って娑婆がなごりおしく思いつつ死ぬのでありますが、聖人の仰せらるる通り、力なくして終わるとき、やがて彼の土で参るのであります。そしてこのようなあわれな根性であっても、如来は決して捨てたまわぬのであります。聖人は次に「いそぎまいりたきこころなきものを、ことにあわれみたまふなり。これにつけてこそいよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じさふらへ」と仰せられて、このような浅ましい心の凡夫をことにあわれんで、往生は決して間違わぬぞよと、仰せらるるのが親様の御慈悲なれば、かかる娑婆執着の者を御救いくださるる、尊い御慈悲であると思えば、まことにたのもしく喜ぶより外はないのであります。

 然るに皆さんの中には、あるいは疑いさえなくばと形付けて、如来の親切を身に受けなかったり、または、信心大事、信心大事とただ一概に信心大事と固くなって、如来の慈悲に背を向けたりなさる人が多いので、いつまでも安心安堵はできぬのであります。我々は御開山の御真似をさせて戴くのが、何よりの早道であります。「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべしと、よき人のおほせをかうふりて、信ずるほかに別の仔細なきなり」と仰せらるる通り、我らも只念仏して弥陀にたすけられまいらするより、外に道はないのであります。

 念仏して弥陀に助けらるるとは、第十八願であります。第十八願とは、信じて称えるものを往生させようと、御誓いなされた願であります。皆さんの中にはかねがね信心一つで、往生と聞いていたのに、往生にも念仏が要るのかと不思議に思わるる方もありましょうが、それは心得違いで、願力の信心には必ず名号がつき物であります。御聖教にも「信心ありとも称名せざらんは栓なく候、たとへ称名すとも信心浅からんは栓なく候」と申されてあります。こういう次第でありますから、聖人の「念仏して弥陀にたすけられ参らすべし」と申さるるのは、ただ称名するというのではなくして、無論信心から出た称名であることは申すまでもありません。第十八願のとおり、如来の願力によって助けらるると信じ、助けらるるとなると、うれしい。うれしいから思わず知らず出る称名に外ならぬのであります。

 でありますから、わたくしどもも聖人と同じく、後生の一大事は如来の願力によって御助けにあずかると御まかせして、そのご恩うれしさ有難さに命の限り念仏するより外はありません。ご承知の通り信心には形がありませんから信心の如実不如実は他人から見ることはできません。しかし信心の如実不如実は御相続の上から見るとよくわかります。如実の信心には必ず如実な相続があります。不如実の信心は若存若亡、末通った相続は決してできないのであります。

 しからば信ずる一念の時、称える暇もなくて命終わった者は、どうするかと不審に思わるる人もありましょう。無論、かような人には相続の有無によりて、往生には何の障りもありません。聞信の一念で確かに往生はとげらるるのであります。御開山はこのことを『歎異鈔』に「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と申されてあります。念仏申さんと思い立つ心の起きる時は、すでに摂取不捨の利益にあずかっているのであります。それゆえに信ずる一念の時、念仏する暇がなくて相果つとも、信ずる心さえ他力であれば、めでたく往生をとぐるのであります。命のぶれば自然と多念に及ぶのであれば、一期をかぎり、御恩のほどをよろこんで、称名念仏おこたらぬようにしなければならぬのであります。もはや後生の大事は一切如来に御まかせしたのでありますから、我が機の手もとには露塵ほども、用意も心配も要らないのであります。後生は一切如来の大悲大願に御まかせして、往生一定御たすけ治定と安心し、その後はせめてもの御恩報謝の念仏とともに、世間の道を守る外はないのであります。これが我が真宗でやかましく申しまする、信心正因称名報恩の御謂れで、実にた易いと申しても、これほど易い御法はないのであります。

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