檀特教遵勧学法話

五 平生業成

あらゆる衆生、その名号を聞いて、信心歓喜し乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に往生せんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と正法を誹謗せんを除かん。

 本願成就文の御文に、「あらゆる衆生」というは、どんなことかというてみると、上は等覚補処の弥勒大士を始めとして、下は下々品の悪機に至るまで、余さず漏らさずこの本願を信じた者は、悉く皆御浄土へ参らさにゃおかぬということじゃ。これを善導大師の二種の深信の御教化について伺えば、このあらゆる衆生とは機の方じゃ。「その名号を聞いて、信心歓喜」するとは法の深信じゃ。そこでかかる者を御助けと信ずる中に、この機法二種の深信があるのじゃ。かかる者とは機の深信、御助けというが法の深信、法の御助けと頂いた一念、我が身は用にたたぬと成って有るのじゃ。我が身に未だ値打ちがあると思うて、どうかしたら助かろうかと気の扱いするうちは、我が高ぶっているゆえ、法が軽うなって御法の尊いことが知られぬ。ちょうどカラウスのようなものじゃ、機の方が高いと法の方が低うなる、法が高うなると機が低くなってくる。これを先徳が「我あれば仏なし、仏あれば我なし」というておかれたが、この我(われ)という我(が)のあるうちは仏はなしじゃ。御法が信ぜられてみると、我がないようになる。然るに世間にあるならいじゃ。誰でも、仏とも知らず日暮しをする人の心中には、多くは我は悪事はせぬ、盗みはせぬし、人を殺したことはない、不義理はしたことはない、人に憎しみを受けるようなことはしはせぬ、これまで正直一遍で今世を渉って来たゆえ、我が身は未来は悪趣へ沈むようなことはないと、自分免許しているうちは、我はよきものじゃと高い処にとまってるゆえ、未来と聞いてもなんともない。アレハ地獄へ落ちるような、悪いことをした人のための、いましめじゃなどと思うてるゆえに、我がこととは少しも思わぬで、法も仏もなきことになりてある。ところが少し法が耳に入りかけて、何でも未来出離は大事じゃと出離に心をとめると、自分の浅ましきことが思われて、かかる者も往生ができるであろうかと疑いの出て来るのは、法のお明かりより自然(じねん)に我が身の悪しきことが知らせられる。さりながらこのような機ざまでは、このような浅ましきことではと、機歎きをしているは、まだ真実な二種の深信になられてないのである。真実に法のままが聞こえて、かかる浅ましき機を御助けとなられたれば、浅ましきについても愚かなるについても、かかる者を御助けと機のはからいがすたりて、ただ法を仰ぐばかりとなるを二種の深信という。よって等覚の菩薩も機は用にたたぬとなりてあるゆえ、弥勒菩薩でも自力功なし、唯願力に乗じて往生となるゆえ、「諸有衆生」とは、かかる衆生と機を見捨てる相、「聞其名号」が法を仰ぐ相となって、弥勒菩薩も我々も一味平等の、他力廻向の信心となるのじゃ。

 然るに名号の御助けをのけて、自分の機の方を眺めて疑うているそのうちに死ねば、千万千万残り多いことじゃ。もしこの内にも未信の御方があれば、しかと聞かにゃなりませぬぞ。そんならそれはなんと聞きますのかというてみると、中興上人(蓮如上人)は
「聞くといふは唯おふように聞くにあらず、善知識にあひて南無阿弥陀仏のむつの字のいはれをよく聞きひらきぬれば、報土に往生すべき他力信心の道理なりと心得られたり」
と仰せられた。何も余事はない、唯願も行も如来の方に身代わりに成就して、南無とたのむ衆生を阿弥陀仏と救う、六字のおいわれを聞き開くばかりじゃ。後に延ばさず今ここで、大事にかけて聞かにゃなりませんぞ。

 それについて今思い出したことがある。先年、私の方に老人で寺の世話もする、また他人から見ても信者と言わぬ者がない位な同行があったが、ある時、その家から先曳付きの人力車で、大急ぎで私に来てくれよと呼びに来たで、直にその車で参ったが、右の老人がかねて肺病の気があったが、次第に重くなって医者も手を離した。もはや今日明日と逼った。そこで娘の家にも兄弟にも知らせて、呼び寄せた。然るに、娘が来るなり枕元へ行って、
「おとっさん、今度は出立じゃそうな。お医者さんもむつかしいと言われます。因縁なれば仕方がない。どうで今度はお暇乞じゃ。あなたはかねてヨー聴聞してござるゆえ、早や結構な御浄土へお参りになるのでおざる。私もやがてのうちに参らせていただきますからどうぞ蓮華の半座をわけて、浄土で待っていてくだされ」
と言うと、病人が何とも言わず目を閉じて返答をもせず、唯両眼からハラハラ涙をこぼしているばかり。しばらくして
「アア娘ヨウ来てくれた。さりながら今まではうっかり聴聞していたことの恥ずかしいわい。半座をわけて待っているゆえ、あとより参って来よと言いたいなれど、心の中からその言葉が出ぬわい。平生大様に聞きなしていたことの恥ずかしや。今となって向こうを思えば、何確かにない。平生は参るつもりであったなれど、何やら機すみがせぬ」
とサメザメ泣き出した。それから近辺の喜ぶ同行、隣村まで呼びに走るやら騒動起こした。そこで私を迎いに来たのであったとのことじゃ。拙僧が病人のところへ参ったれば、右の通りのことであったによって、病人に対して、
「半座をわけて待っているなどとの返答は、お前の心でどうしてできるものか。その返事は仏様からしてくださる。元来蓮華の上の対面は、娘と親父との約束ではない、若不生者のお約束にあること。娘も親父も共に蓮華の台で、対面させてやるとあるが、若不生者のお約束なれば、そなたの返事に及ばぬ。阿弥陀如来が娘も親父も共に、一所に迎え取るぞの仰せぞと、あなた(阿弥陀仏)のお約束より返事をさせてもらえば、慥かなことでないか」
と聞かせたら、その親父は大いに喜び、
「我が胸ばかりながめなと聞いておりつつ、やはり私の胸で娘に返事をしようと、我が胸を眺めておりました。ホンニ如来様が親父も娘も共に浄土で対面させてやるとの、お約束より返事をさせていただくとなれば、何も返事のできぬは思うに及ばぬ。あなた(阿弥陀仏)の間違わぬお約束の慥かなことを喜ぶよりほかはありませぬ」
と喜ぶ。その翌日参ったところ、その親父が
「何を今までは聴聞しておりましたやら、道理は聞き分けつつやはり機は大様にありました。あなた(阿弥陀仏)の若不生者のお約束を仰げば、このような気楽な有り難いことはありませぬ」
とて、念仏三昧でおったが、それから二、三日があいだ絶え間なくお念仏を称えて、ついにめでたい素懐を遂げられた。

 ここじゃ、お同行がた、平生無事息災の時には何も思いはしませんが、多くは大様懈怠で日を送っておりますが、さて臨終となってみたところで、「我は先に浄土参りして半座をわけて待っているゆえ、皆後より来いよ」と慥かに返答しられますか? 皆平生に業事成弁して、いつこの無常の風が吹いて来ても、心底にしかとした御領解になっておかぬと、臨終に騒動が起こって来ますぞや。とかく大様に聞くからのことじゃで、篤と心を鎮めて大事をかけてお聞きなされや。仏法においては明日ということはないと心得、モシ聞き損うて命終わったならば、万劫の後悔もハヤ取戻しはできませぬ。今申しました病人などは仕合せなことは、病気が実正であった病症じゃで、存生に信心が獲得なられましたが、さてとなってからはなかなか聞こえるものじゃない。平生業成じゃという御当流の御教えじゃ。無事達者な時に慥かに領解になられてないと、どんな病を受けて命終わるかも知れぬゆえ、この御座へ参詣の人たちは別してのことじゃ、信心決定してその上世渉りするのが肝要である。

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