播州の妙好人

真宗王国であった播州にはその行状が記録に残された妙好人もいます。それらの記録に残っている妙好人は氷山の一角で、実際には多くの妙好人が出て周囲に法香を放っていたに違いありません。播州の土徳が育んだ妙好人、または播州と縁の深い妙好人を幾人か列挙しておきます。(敬称略)

下記の人も妙好人だと思いますが、『龍野高校と真宗』『群像』で紹介した方々もそれぞれに「青色青光、白色白光」と周囲に光を放っておられたと味わっております。

教信(きょうしん)
宇右衛門(うえもん)
五左衛門(ござえもん)
妙涼(みょうりょう)
市五郎(いちごろう)
平兵衛(へいべえ)
小松(こまつ)
一蓮院秀存(いちれんいんしゅうぞん)
おつる
古井 初次郎(ふるい はつじろう)

教信(きょうしん)

『日本往生極楽記』には、播磨国賀古郡賀古駅の北に住んでいたとあります。平安時代初期の人で、浄土真宗の開祖、親鸞聖人が追慕の念を持って仰がれた人であります。『改邪鈔』には「われはこれ賀古の教信沙弥の定なり<中略>御位署には愚禿の字をのせらる。これすなわち僧にあらず俗にあらざる儀を表して、教信沙弥のごとくなるべし」とあり、親鸞聖人は教信沙弥から「非僧非俗」の生き方を学ばれたようです。
一遍も教信沙弥を慕っていたようで、遊行の旅の途中で播磨印南野の教信沙弥の遺跡を訪れています。
ちなみに沙弥(しゃみ)とは、出家して修行がまだ熟せずに、僧となるまでの年少の男子のことを言いますが、それが転じて「非僧非俗」の仏法者のことを言います。

教信さんゆかりのお寺としては、西蓮寺(千種町)、教信寺(加古川市)があります。

 

宇右衛門(うえもん)

兵庫県揖保郡太子町出身。寶歴7年(1758年)頃の人です。宇右衛門さんは元来粗暴な人でありましたが、阿弥陀仏の本願に救われてより温和な人となり、当時の周囲の人々を自然と善導していきました。宇右衛門さんゆかりの寺である浄因寺(大派、太子町太田)には宇右衛門さんの遺徳を偲んで銅像が建立されています。

五左衛門(ござえもん)

兵庫県三木市出身。

妙涼(みょうりょう)

 

市五郎(いちごろう)

兵庫県相生市相生。餅屋市五郎。1711(1715)-1838。市五郎はお餅屋さんであった。相生光明寺境内には、その徳を称える碑があります。

妙好人伝によると次のようであった。
妻は邪見であった。市五郎は美食は妻に与え、苦しい汚い仕事は、自分がして女房を可愛がった。ある人そのわけを問えば、「女房は後生の一大事を、毎々進め話せども、無宿縁と見えて、聞く心もなければ、それが不憫で、この世なりとも楽させてやりたいと思うからである」と言った。さすが邪見の女房も夫の実意を感じて、遂に御法義を喜ぶようになったという。

平兵衛(へいべえ)

ある同行「あなたはただ如来のお助けが有り難いとばかり言っておられるが、それではタノム一念が抜けているではないか」
平兵衛「私はタノムすべも知らない愚かな者です。タノまねばならないことであれば如来様の方からよいようにしてくださるでしょう」

小松(こまつ)

兵庫県赤穂市塩屋出身。

おつる

-1928年。兵庫県龍野市出身。広岡つる。本願寺派の碩徳、大分の松島善海師(豊前派)の教化を受けたという。おつるさんの残した歌の一部を紹介しておきます。阿弥陀仏の本願力の世界が味わわれます。

 舟は本願、船頭は阿弥陀、中のお客はこのわたし

 ほんとにうれしや阿弥陀さんの笑顔、わしをたすけてしたり顔

 おつる私におとさぬ阿弥陀、ちからくらべは弥陀が勝つ

 親ごころ聞こえしまんまのこころこそ、たのむ信ずる帰命するなり

 また邂うというはこの世のすてことば、弥陀たのまずに邂う国もなし

 初春や かわりし風の 吹くにつけ、無常の風のいまやきたらん

 初春や あらわれいずる念仏の、はらに宿りし信心のこえ

 わがものとおもえば尊き弥陀の慈悲、他力ならこそ軽くもつなり

 新玉の 年は変われど 変わらぬは、弥陀たのむ身のさとりなりけり

 身はここに心は弥陀のふところで、抱かれてかえる親のふるさと

 天竺で南無とよびしを支那では帰命、日本でたのむと教えしが、いまは私のお領解(りょうげ)でおたすけ治定となりたもう

 きいてみりゃ、身の毛のよだつ悪人を、大悲六字の御名にすくわれ、浅ましき悪ろき機ざまの底抜けを、すくうて帰る弥陀の本願

 あみだぶつ、阿弥陀ぶつぶつあみだぶつ。こんな大悲の阿弥陀仏、かかる私をおたすけで、やがて往きます極楽へ。なむあみだぶつなむあみだぶつ

 世の中で阿弥陀さんと私のよろこびを、ひとがきいてもわかるまい。諸仏がきいたらおかしかろ。こんなもんが阿弥陀さんの一人子ぢゃ、なむあみだぶつ

 はずかしや、往けそうにござらぬ、まいれそうにないが、おたすけのみ仏につれられて、やがて浄土へ往く身ゆえ、すこしは遠慮もせにゃならぬ

 

一蓮院秀存(いちれんいんしゅうぞん)

江戸時代末期(1788~1860)の人。播州に生まれた人ではありませんが、兵庫県赤穂の真宗大谷派萬福寺の第18世の住職に着いた人です。大谷派の贈講師(没後に講師の学階を贈られた)。香月院深励師の門人。同じ香月院門下の先輩には、香樹院徳龍師がおられました。頓成(とんじょう)や是海(ぜかい)が異義をとなえたときに調理(異義を調査すること)したことのある人。

古井 初次郎(ふるい はつじろう)

兵庫県宍粟郡安富町出身。古井初次郎翁の遺徳を偲んで宍粟郡山崎町の教蓮寺境内には翁の立像が建立してあります。碑文には、次のように記されています。

古井翁像由来

古井初次郎翁は明治六年三月二十四日安富町皆河に生る。幼にして聞法を好みしが長ずるに及んで深く他力真宗に皈依す。家業の傍ら所信を説くに聞く者随喜し慕ふ者甚だ多し数千に及ぶ。豈に常人ならんや。昭和三十四年春、病を得て療養中のところ、七月十五日、俄に病畢りて遂に往生の素懐を遂く。生前親しく翁の手引きを蒙りし輩、相図りて茲に翁の御旧跡巡拜の像を刻み、永くその遺徳を偲ぶところなり。

昭和三十九年十月  同行会一同

 

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