以下は、高田満さんが20年前に著述された論文です。

この論文に関してのご意見ご感想等は、高田満さん<saoriyuk@d1.dion.ne.jp>宛てにメール願います。

人格の完成者と社会の形成者の一典型としての「妙好人」

高田 満

 

目次

はじめに

第一章 近世真宗「教団と門徒」との紐帯

第二章  『妙好人伝』編纂の意図と妙好人

第三章  教育の目的具現者としての妙好人像

あとがき

あとがきのあとがき

 

 

はじめに

 辻善之助によって、「近世仏教は堕落したものである。」という評価が行われ、そのために近世仏教に対する研究が、他の時代に比べて遅れてきた。しかし、今日辻善之助の評価に対する再評価が、各宗派から活発になされ、真宗にあっても、数多くの示唆に富んだ著書が刊行されている。例えば、児玉識は『近世真宗の展開過程』に於いて、長州藩を中心とした地方史的なものではあるが、経済的観点から、真宗が他宗派と異なる独自の活動をなしえた理由を解明している。なかでも、長州藩における均等化寺院への過程は、長州藩の反幕府・倒幕行動の原動力と何らかの連関を想像させる。また、柏原祐泉は、『近世庶民仏教の研究』に於いて、体制に都合よき人間として評価の一定していた「妙好人」に対して、宗教的見地から再評価をし、『妙好人伝』中の妙好人と理想像としての妙好人との区別の必要性を提唱している。「堕落していた近世仏教」の中にあって、妙好人が世に出されたことは、「堕落」とは何を意味するのかという問いを我々に投げかける。マクロ的に見た場合、本末制度・寺請制度により、近世仏教は宗教本来の姿を失ったと考えられる。しかし、妙好人の出現は、民衆を教導した立派な僧が存在したことを意味する。それは、仏教の御法が、民衆のものになったことを察知させる。私は、そこに近世仏教再評価の指針を見いだすのである。

 

第一章 近世真宗「教団と門徒」との紐帯

 尼崎潮江村と他村との持高比較<小林茂著『幕末における部落民』(『部落』34号34頁)記載の『岡村家文書』>によれば、「1805年の本郷浄土真宗の総高97石5斗8升3合、一人当たりの石高8石8斗7升1合、同年の本郷真言宗の総高103石5斗9升、一人当たりの石高12石9斗4升8合となっている。15年後の1820年には、前者の総高85石4斗1合、一人当たりの石高7石1斗1升7合、後者の総高116石6斗5升、一人当たりの石高19石4斗4升1合となっている。」

浄土真宗側では、総高が12石ほど減少しているのに、真言宗側では、逆にその分増加しているわけである。一人当たりの石高に於いても、格差がより顕著になってきている。ところが、人口の変化を見ると、浄土真宗側では、45人から55人と10人の増加があるのに、当然人口が増加してしかるべき真言宗側に於いては、31人から27人と4人減少しており、1815年では、22人まで落ち込んでいる。経済的に豊かな真言宗側に於いて人口の減少をきたし、貧しい浄土真宗側で逆に人口増加があったという事実は、注目に値するところである。

 人口減少の原因を考えてみるに、飢饉・災害といった天災はもとより、間引きも大きなウエイトを占めていたと考えられる。「秋田藩では安永初年に41万余の人口が、同9年(1780)9月には36万6千余となり、天明飢饉直後の天明6年(1786)には27万余に激減しており、その主要な原因として嬰児圧殺の風習が考えられた。」(児玉幸多著『近世農民生活史』275頁に同藩では文化3年(1806)には極貧者に対して出生児の撫育料として一人三貫文ずつ与え、捨て子を養う者がないときは村方へ預けて七貫文ずつを支給することにした。文政6年(1823)には懐妊・出産について届け出させることとしてその弊風の除去に努めた。その結果天保初年には42万人の人口を数えるに至ったとの記載がある)しかし、真宗の教義に於いてはこの嬰児圧殺を否定しているのである。「親は子どもたちを如来からの預かりものと心得て育てるべきこと」(柏原祐泉著『近世庶民仏教史』194頁に、真宗の同朋精神に立脚していると述べられている)として、大切に育てたのである。そして、真宗が固く百姓に浸透していった証左として、次のことがあげられよう。「北陸門徒が関東移民をする際、阿弥陀如来画像と三部経と三和讃・御文章を必ず持参した。」<五来重著『北陸門徒の関東移民』(史林第33巻6号5頁)>これら真宗門徒のバイブルといったものを持参していても、彼らの経済的生活が豊かになるわけではない。人はパンのみにて生きるにあらずと言われるが、パンの存在を否定してはいないのであるが、彼らは心のよりところを必要とした。

 百姓の生活がいかに苦しかったかの例として、「享保19年(1734)に越前南条郡糠浦の百姓が、前年の年貢未進の結果、家財を没収されたが、その処分財産の代銀は、6匁9分であった。」(児玉幸多著『近世農民生活史』77頁)これは、当時の相場に換算して、白米なら一斗、燈油なら三升の値段に過ぎない。(地方史研究協議会編『近世地方史研究入門』の物価表を参考に換算した。)この百姓は、最低とはいえ高持ち百姓であり、その下には無高の水呑百姓があったことを考えると、水呑百姓の生活の苦しさは筆舌に絶するものだったと考えられる。江戸時代は、現代社会のような累進課税方式ではないので、例えば五公五民といった場合、百石の高持ち百姓は五十石の年貢を出し、十石の者は当然五石供出せねばならないのである。年貢率が一定であるのだから、石高の少ない者ほど生活が苦しいのは明白のことである。橘南谿の『西遊記』によれば、「日向の富裕な農民は、奴僕を多く持っているが、これは米良・五箇庄といった近国の山中の百姓に、塩一俵とか米五升の値でその子孫を買い取ると述べられている。」(児玉幸多著『近世農民生活史』268頁)上述の例は、親が生き延びるために、子を売ったものであるが、越前の山村においては、食い延ばしのため、寺参りが行われていた。(千葉乗隆著『中部山村社会の真宗』23頁に記載の史料を引用)

         寺往来一札之事
一  濃州大野郡塚村  金三郎妻なを
    右は代々浄土真宗に而、当家檀家に紛れ御座なく候。しかる処、この度
    善光寺並びに諸国仏閣え参詣致し候間、もし何方にて病死候とも、其の
    所之御法通り取り隠し下され度、聊か故障これなく者に御座候。仍而寺
    往来相渡す処件の如し
    文久元年辛酉十月  越前鯖江城下西福寺印
        国々年寄中

つまり、農閑期に各村から数名ずつ毎年交代で、善光寺参詣と称して出村し、道中で乞食をしながら、冬期を過ごすのである。以上二例は、山村社会の姿を表したものであるが、先進地域といわれる所でも同様であった。人口というバロメーターで考えてみた場合、後進地域よりも生活が苦しかったとも考えられる。「先進地域→人口増加、後進地域→人口減少といった現代日本のおけるパターンが、近世後期の日本には、完全に逆転している。」<速水融著『近世後期地域別人口変動と都市比率の関連』(『徳川林政史研究所研究紀要』昭和49年号237頁)に、人口を経済の従属変数とみるならば、経済的発展のあるところに人口増大があってしかるべきであろう。しかし、近世後期の日本では、これと全く逆の現象がみられるのである。>「享保六年(1721)の山城の人口56万5千人が弘化三年(1846)には、45万2千人と、2割の減少をきたしている。逆に丹後のそれは、12万5千人から16万千人と、3割の増加である。」(藤岡謙二郎著『日本歴史地理総説・近世編』160頁の近世中期以降の国別人口による。)山城国の場合、周辺からの人口流入があったにも関わらず、人口減少となっていることから考えて、社会増加よりはるかに自然減少(死亡率が出生率を上回っていた)が大であったと考えられうる。そして、周辺諸国から都市へ流れる階層として、高持ち百姓の次男・三男とか水呑百姓が考えられるが、「食い延ばしのための都市参り」といえるべき性格を有していた。当時の諺に「糠三合あれば、養子に行くな」(児玉幸多著『近世農民生活史』264頁)というのがあるが、養子の待遇の劣悪さを表すと同時に、わずかの財が養子の歯止めになりえたことを考えて、高持ち百姓の次男・三男の境遇を察知するのである。『仁助噺』には、熊本藩の小百姓の生活を次のように叙述している。「小百姓はいづれも御年貢が足らずして牛馬家財を売り、もとより糧物も残らぬように払うて上納しても足らずして、借り換えて納めんとすれども貸す人はなし、とやかく延引すればいちいちに会所に呼び出して、絞りからげしてせむれども、もとより出来ぬものなれば致すべき様もなし。」(児玉幸多著『近世農民生活史』73頁)

 このような情況にある階層に浸透していった宗教として、真宗・日蓮宗が上げられるが、なかんずく真宗がポピュラーであった。寛永期の「尾道町宗旨人別帳」によれば、当時の尾道町総人口の41%に当たる887人を檀徒として持ち、そのうち482人(54%)は、下人・下女・女郎の身分であった。この数は人別帳に表された下人層の65%に当たっている。(圭室諦成著『日本仏教史?近世・近代編』216頁によれば、長沼賢海・脇坂昭夫・児玉識の調査によるとある。)真宗教団は他の教団に比べて、教団としての体裁が整うのに多年の歳月を要し、蓮如以降に頭角を現したのである。(笠原一男著『中世における真宗教団の形成』・『真宗における異端の系譜』を参考)そのために、他の教団のように荘園制に基盤を置くことができず、門徒個々にその経済的基盤を置かざるをえなかったのである。しかしこのことは、封建社会を迎えるに当たっては、プラスであった。他の教団が、経済基盤の変換を余儀なくさせられたのに対して、真宗教団は従来の体制のまま継承できたのである。児玉識は、真宗にとって近世社会がいかに好都合であったかを次のように述べている。「多数の下層隷属農民と関係を持っている寺院にこそ近世社会において発展の可能性を多く秘めた寺院であった。なぜなら、下人・下女として登載されていた当時の隷属民こそ、その後、近世小農の自立期に近世的『家』を広範に創出していった階層であり、彼らの自立化の過程を通して、寺院の檀家数が増加していったからである。」(児玉識著『近世真宗の展開過程』94~5頁)しかし、富裕でない隷属民から、金を本山・末寺に喜捨させるには、それなりの努力・工夫が必要であった。地獄の沙汰は金次第ならぬ、「寺院の沙汰は金次第」(児玉幸多著『近世農民生活史』244頁)と巷間ささやかれている。金さえ積めば、院号・居士号が百姓の戒名につけられた。また寺が寺としての体裁を得るためには、多額の金子が必要であった。親鸞絵像・木仏・寺号鐘・坊主剃刀・御書・御絵・本尊・名号・蓮花絵・御文・須弥壇これだけを合計すると、ざっと金34両と銀4貫5百匁ほどになる。(圭室文雄著『江戸幕府の宗教統制』239頁)これらは、寺の建築費とは全く別個のものであり、末寺が本山へ払う公認料のような性格を有していた。そして、注意を喚起せねばならないのは、これらの品々を一度に揃えられないような仕組みになっていたことである。一定の順序によって下付を受けねばならなかった。「寺号を願い出るには、まず木仏か絵像の本尊の免許を得なければならず、太子・七高僧と前住宗主・影像は本尊と寺号を認可の上で、宗祖の影像は木仏・寺号・太子・七高僧・前住の影像をそれぞれ許された後、願い出ることになっていた。」(『本願寺史』第二巻458頁)そのうえ、これらの免物は末寺から直接本山に申請をして、下付されるべき物ではなかった。ここにも収奪の妙というべきものが存在したのであった。末寺が実際に免物の下付を受けるときは、取り次ぎ者へも礼銀を出し、さらにその願書には上寺の添え状を要するので、その際にもまた冥加金を必要とした。江戸時代中頃には、この上寺冥加金は、本山冥加の1/4ということで、下寺にとってはかなりの負担であった。(『本願寺史』第二巻490頁)以上の方法は、幕府ー本寺ー末寺ー民衆(『本願寺史』第二巻180頁)という上からの一元的支配を巧みに利用したものであったが、閉塞された社会にあって、唯一の合法的地位上昇を可能にした、「寺格昇進運動」(児玉識著『近世真宗の展開過程』223頁には、末寺数よりも檀家数の多寡が問題であるとの記述がある。末寺数の多寡よりも檀家数=経済力の多寡が決定的要因となる寺格昇進においては、上寺よりも下寺のほうが檀家数が多い場合、容易に下寺は上寺よりも上位の寺格を得ることが可能であったわけで、寺格買得制度に基づく序列は、由緒伝統に拘泥せず、それを否定する要素を持つものであった。)という異色なものが真宗には他に存在していた。

 一方、真宗教団の骨格をなす隷属民は、末寺や本山への懇志はいとわずに出している。例えば、「天保十二年(1841)に安養寺下の西在所道場を再建の時、その資金を得るため、門徒達は文政十三年(1830)から頼母子講を結び、十二年にわたって蓄財した。その結果、金20両3歩2朱と銀16匁9分9厘とを得た。また再建に着手すると、金銭や品物を多量に寄進し、門徒奉加金は7両2歩2朱・銀173匁7分7厘など、拠出総額は金41両に達した。」(千葉乗隆著『中部山村社会の真宗』94頁)本願寺側は、これら門徒の苦労して捻出した金を実に巧みに取ることに長じていたようである。「本願寺のほうに浄土真宗の名目が成就すれば、田沼へ本願寺から30万両の賄賂を贈るはずになっていた。当時の本願寺は内々逼迫で、30万両はさておき、3万両も調えることは難しかったが、これには大いに趣向がある。本願寺家老の工夫では、浄土真宗という宗名のことは、六十余州の末寺末寺はもちろん、在家に至るまで所持している御真向様(本尊阿弥陀如来像)に浄土真宗と裏書を門跡自筆で認め遺すとして、礼金を取れば、30万両や50万両とは言わず、その限りあるべからずというのである。」(辻善之助著『日本仏教史』近世之編三169頁記載の『太平天明録』による) 鈴木正三は、『麓草分』において、僧侶を非難して「仏法商人」と言っている。そして『驢鞍橋』には、出家の名に値する人がいないと叙述している。「道なきことはおいて、まづ家を出たる者一人もなし。その故今寺を追い出したらば、皆迷惑すべし。」挙げ句の果てに、寺にいる者は道心がないと、『二人比丘尼』に記している。「昔は道心ある人は、寺に入りて知識の教えを受け候いしが、今は昔に変わり、少しも道心ある人は寺を出て候なり。」(中村元選集第七巻『近世日本の批判的精神』104頁参考)これら「仏法商人」のもとで、苦しんだのは百姓・町人達であった。僧侶の理想とする檀家像として、次のようなことがあげられた。檀那寺の経常費・臨時費一切の負担に応じ、諸法会には必ず参詣し、葬式はできるだけ盛大に行い、中陰・年忌・命日などには必ず寺僧を招き、そして寺院の位牌にも参詣する。(圭室文雄著『江戸幕府の宗教統制』88~9頁)檀家をいかに寺に向かせるかは、僧侶の力量が支配していたときは過去のものとなり、信心による結合よりも、葬送儀礼によるものに重点が置かれてくる。慶長十八年宗門寺檀那請合の掟(千葉乗隆著『近世真宗の教団組織』記載の史料)によれば、

一、死後死骸に頭剃刀を与え戒名を授ける事、是は宗門寺之住持死相を見届け
   て、邪宗にてこれなき段、たしかに受け合いの上にて引導致すべき事。
一、相果て候時は、一切宗門寺之指図を蒙り修行の事

とあるが、寺院が権力機構に組み入れられたことを示している。圭室文雄は、江戸時代以前の民衆と宗教のつながりにおいて、信仰のもつ個性的なもの、あるいは質の異なった信仰の内容を媒介として成立していたものを、近世仏教が捨て去った理由を次のように指摘している。「本寺の権利・経済的安定などをねらう、寺院側とりわけ本山・本寺は、檀家制度による寺院経営の安定を取引の条件として、いとも簡単にこの本末制度を受け入れたのである。」(圭室文雄著『江戸幕府の宗教統制』180頁) 先に私は、下層民衆に真宗がポピュラーであったことを述べたが、一般の趨勢として、布教対象として、地主や有力町人に力点が置かれていたことは否めない事実であろう。鳥取などでは、武士のための布教所と民間のそれが別々に設けられ、説教も自ずから有力人士の教養を前提として行われ、ことさら一般衆庶の理解を求めなかった。(村上重良著『近代民衆宗教史の研究』169頁)逆に、一般民衆に接近してきたのは、民衆に寄生する宗教者であった。彼らの大半は、荒唐な説教や金神・狐などのたたり因縁で、民衆を恐怖させてその帰依を得るのを常とし、新教義を創造しようとする意志も、民衆の苦しい生活を切り開こうとする意欲も持たなかった。(村上重良著『近代民衆宗教史の研究』21頁)元文元年(1736)辰年の町触(宮田登著『民間信仰と政治規制』記載史料『御触書寛保集成』2848号)には、民衆に寄生していた宗教者の存在を示すものがある。

一、近き頃雑説虚説を申しふらし、物になぞらへ作り物落書流布いたし、そ
    のうえこの度金銀吹き替えにつき雑説を申し、筋無き儀を書き付け、申
    しふらし候ものこれあり、不届き至極に候、自今雑説虚説申しふらし候
    か、筋無き儀を書き付け、流布いたすものこれあるは、早速これを捕ら
    え、月番の番所え訴え出るべく候。

 このような情況の中で、真宗門徒(中央の教学から離れた山村の門徒)は、自衛の手段をとっていたようである。毛坊主と言われるものがそれである。百井塘雨は『笈埃随筆』において、毛坊主を次のように記している。(千葉乗隆著『毛坊主の村』)「当国にて毛坊主とて俗人でありながら、村に死亡の者あれば、導師となりて弔うなり。訳知らぬ者は、常の百姓よりは一階劣りて縁組みなどせずと云えるは、僻事なり。この者ども、いずれの村にても筋目ある長百姓として田畑の高を持ち、俗人とは云えど出家の役を勤むる身なれば、予め学問もし経文を読み、形状・物体・筆算までも備えらざれば人も帰伏せず勤まり難し(中略)亡者の弔い、祖先の斎・非時をつとむ。居住の様子、門の構い、寺院に変わることなし。葬礼・斎・非時には麻上下を着して導師の勤めを為し、平僧に準じて野郎頭にて亡者を取り置きするは、片鄙ながらいと珍し。是深山幽谷にして六七里の間に寺院無く、道義高徳の出家無ければ、往古よりかくの如く致し来たりしと覚ゆ。」

 毛坊主の存在は、真宗教団と門徒との結合の緊密さを示すものであるが、彼ら毛坊主を善知識と考えるわけにはいかないものがある。「人も帰伏せず勤まり難し」と言った表現からは、毛坊主が権力の手先として、僧侶の代行をしたことを彷彿させるものがある。民衆の中より生まれた真の善知識(妙好人)とは、その性格を大きく異にするからである。しかし、毛坊主が妙好人の先行形態であったと解するならば、僧侶から妙好人への過渡期に位置づけることもできる。

 

第二章 『妙好人伝』編纂の意図と妙好人

 百姓一揆の一年あたりの発生回数を比較してみると、「1590~1639年には3.9回、1640~1679年には4.6回、1680~1719年には6.2回、1720~1769年には10.6回、1770~1829年には13.6回、1830~1871年には25回と増加の一途をたどっている。」(『歴史公論』昭和53年6月号53頁)このことは、時代の変遷とともに年貢米徴収が困難になってきたことを意味する。「天保十年(1839)五月、摂州西成郡の新田村総代は、近年新田村の下作人達がわがまま増長して地主の言うことを聞かず、作徳米銀などの用捨を要求し、あるいは年貢や作徳を上納せず、勝手に米を市中に持ち出して売却する」(布川清司著『近世日本の民衆倫理思想』154頁)と記してある。百姓側のこのような態度に対して、幕府のとった方策は、国恩に報いるための献金をさせることであった。「各自国恩の冥加を弁え、用金令の出でざるにさきだち、銘々身分相応の上納金を願い出でなば、諸国一体の手本となり、公辺御用金繰り合わせの一端となり、平民の身分を以て御手伝いを勤むると同じく、其の身一部の規模たるのみならず、子孫の後栄ともなるべし。」(布川清司著『近世日本の民衆倫理思想』173~4頁)藩においても同様に献金を課しており、この献金に応じない者に対しては、恥辱を与える方法を以て処罰している。「天保九年(1838)に、金沢藩では調達金を課したが、石川郡鶴来の石浦屋茂助が4両の調達金を、難渋という理由で差し出さなかったところ、三年間袴羽織着用無用、本結で髪を結んではならない、藁などで結ぶこと、傘、下駄などを用いてはならない、晴雨ともわらじを用いること、ただし雨天の時はばんどりを用いること、家内一統同様、万一心得違いがあれば厳重に申しつけるという事を申し渡された。」(児玉幸多著『近世農民生活史』90~1頁)上述の政策がムチであるならば、当然アメの政策も存在した。孝行者・奇特者の表彰がそれである。『近世農政史料集二・江戸幕府法令下』にある奇特者等の表彰をあげてみるに、宝暦六年(1756)・宝暦八年・天明二年(1782)の三つが指摘できる。因みに宝暦八年の表彰を記してみると、

銀拾枚                小田切新五郎代官所
                    下総国香取郡佐原村
         百姓 次郎右衛門
 右之者、貞実なる者にて両親の孝行いたし、年来村方え奇特の取り計らい致し候段相聞き候に付き、書面の通り下されたく候、かつ又其の身一代刀差し免じ、ならびに子孫まで苗字名乗り候様申しわたさるべく候、

つまり、孝行者であるから銀拾枚を与え、苗字帯刀を差し許すというのである。これは、他の二例ともほぼ同一である。かくの如き表彰は、被支配者階級間での風聞が上意に達したものであるが、同じ、『近世農政史料集二・江戸幕府法令下』によれば、寛政元年(1789)を濫觴に、寛政十年、文化七年(1810)の都合三度にわたって、幕府側より孝行者・奇特者の調査に乗り出している。文化七年の調査とは、次のようなものであった。

         大目付え
 孝行すべて奇特の品これある者の儀、去る巳年までに取り調べ書き出し候様、去る卯年相違え、追々書き出し候、右之外格別の儀これなくとも、領主・地頭にて誉れ置き候か、又は先だって書き出し候節相漏れ候ともなるべく取り調べ、猶又追って書き上げいたさるべく候、尤も書き出すべきものこれ無く候わば、其の段も来未年中迄大目付、御目付え相届き候様、よくよく達せらるべき候事、
                         十二月(文化七年)

幕府側が積極的に調査に乗り出したことから、孝行者・奇特者を表彰、しかも数多く表彰することによって、その波及効果をもくろんでいたことが察知できるし、同時に幕府の動揺の激しさを知るのである。

 揺れ動いていたのは、政治社会だけではなかった。宗教社会においても同様だった。真宗教団を取り上げてみても、「三業惑乱」や「頓成事件」といった異安心事件が、江戸時代後半期ないし幕末に惹起されている。(赤松俊秀・笠原一男編『真宗史概説』412頁)『妙好人伝』を企図した仰誓(1721~94)は、その著『講余随筆』において、異端書に弁駁せねばならぬ事態を嘆いて、次のように述べている。

「かかる書(親鸞聖人御遺書五箇条ー筆者註)に対して弁論を加え紙墨を費やすは、鶏を割くに牛刀を用いるに似たれば、そのままに措くもよけれど、またひたすらに御宗旨の安心も心得わかぬ人にありては、万に一もこの書を真のことと思い錯り用いる輩もありなんやと。老人の諄言を書き添え侍れ、みん人笑うこと無かれ。」彼仰誓の脳裏に、蓮如以来の「信心為本」と「王法為本」の二諦を満たす理想的人間像として、「妙好人」が想定されたのは、当然の帰結であったといえよう。それは、小栗純子の言うように、寛政の改革すなわち幕藩体制による締め付け強化という外的圧力の影響を抜きにしては考えられないことなのである。<小栗純子著『近世における理想的女性像と良民政策との関係』(『日本宗教史論集』下巻343頁)において、寛政の改革における良民政策の一環である『孝義録』の編纂・刊行の動きが『妙好人伝』をはじめとする良民伝刊行の盛行を生み出した。また、小栗純子著『江戸時代における政治権力と仏教』(笠原一男編『日本における政治と宗教』252頁)においても、本願寺教団が天明三年から寛政六年の間に、各地の末寺の僧によって断片的に説かれていた妙好人の実例の数々を集大成するにいたったのは、このような『孝義録』をはじめとする寛政の改革すなわち幕藩体制の締め付けが多分に影響している> 『妙好人伝』と言っても六編あり、編者も三人すなわち仰誓・僧純・象王が存在するわけであり、仰誓の編と他の二人のとでは、その性格を大きく異にしてくる。そのことは、僧純・象王の考える「妙好人」と、仰誓の意図したそれが相違していることを示している。<佐々木倫生『妙好人伝とその作者たち』(『仏教文学研究』2号306頁)>福間光超は、仰誓編の『妙好人伝』について述べており、その特徴として、次の三点を指摘している。(一)神祇不拝を強調した専修念仏である。(二)その念仏は、念仏の権威と封建教団の権威を混一化し、封建教団体制に強力に門徒を結びつけようとする性格を含んでいる。(三)また封建支配や世俗倫理を無批判的に容認する。<福間光超著『初期妙好人伝編纂の歴史的背景について』(『真宗史の研究』482頁)>(一)は、数多くの異端に対して真宗固有の立場を再確認したものである。「念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたわず、諸善をもよぶこと無きゆえに無礙の一道なりと。」(岩波文庫『歎異抄』44頁)(二)・(三)は、先に述べた孝行者・奇特者の上に、念仏への信心堅固な者といったことが要求されている。これら三点を根拠に、福間光超は、仰誓編の『妙好人伝』が現存する門徒の信仰を純正化する意味で編纂されたと解釈している。この解釈は、『妙好人伝』序の次の文と一致するものである。「本願を信じ念仏を行ぜん人は常にこの文を読みて、殊に勝れたる人の跡をあまんじてこのてかしはのふたおもてなく、とにかくに仏恩の方に心をうつし報謝のつとめを忘れざらましかば、賢をみては斉しからん事をなどいいけんためしともいうべし。」ところが、僧純の『妙好人伝』は上述のような意図ではなかった。佐々木倫生は、「僧純以降の『妙好人伝』には、往生奇瑞や蘇生奇瑞や来迎瑞相の話が多いので、真に安心のあり方を教示して、化導
し信心を徹底させるというよりも、無縁の者を有縁の者たらしめるべく説法に利用したものであると解している。」<佐々木倫生著『妙好人伝とその作者たち』(『仏教文学研究』2号311~2頁)>

 以上で『妙好人伝』編纂の意図を述べたわけであるが、次ぎに「妙好人」を考えてみよう。その方法として、同じ他力系の「往生人」との比較を試みてみる。「往生人」とは、『往生伝』に記載された人物ということであるが、ここに浄土宗において、近世編纂された『往生伝』をあげると、元禄元年(1688)の『緇白往生伝』を最初とし、宝永七年(1710)の『新聞顕験往生伝』、天文四年(1739)の『現証往生伝』、明和六年(1769)の『勢州緇素往生験記』、天明五年(1785)の『随聞往生記』、寛政元年(1789)の『新選往生伝』、享和元年(1801)の『南紀往生伝』、文政五年(1822)の『近世淡海往生伝』、文政十三年(1830)の『諸国見聞近世往生伝』、慶応四年(1868)の『尾陽往生伝』の計十冊が存在している。これら十冊の往生伝のうち、緇白、新聞顕験、勢州緇素、新選の官僧の手によって編纂された往生伝と、天明以後にかかれた五つの往生伝とは文体の上で大きな相違がある。それは、前者が漢文体であり、後者が和文体ということである。このことは、読者層の拡充を意味し、先の『妙好人伝』編纂の背景と関連づけて考えるならば、浄土宗側においても寛政の改革の影響を受け、対処を講じたといえるのである。浄土宗におけるこのような対応を考えてみた場合、同時代の仰誓には、その意図するところが呑み込めていたに違いない。とすれば何故に、「妙好人」という語を仰誓が採用したかが問題となってくる。『往生伝』とか「往生人」といった語は、寛保年間(985~7)に慶滋保胤の『日本極楽往生記』を濫觴として、その後連綿と継承されてきた。また、仰誓が『妙好人伝』を企図した一世紀前に、同じ真宗の一派である専修寺派の如幻明春の編にして、元禄八年(1695)に『近世往生伝』として、近江国の真宗僧侶好堅の手により、刊行されていたという事実が存在するからである。仰誓の胸中には、往生人は真の念仏者ではないという考えが存在していたのである。佐々木倫生は、「往生人と呼ばれ、往生伝類に集録された人々は、浄土行を修して臨終に何らかの奇瑞を得た人々をいい、霊験・奇瑞といったものが往生人の本質をなしていると述べている。」<佐々木倫生著『妙好人伝とその作者たち』(『仏教文学研究』2号306頁)>また、大橋俊雄は、「正直・慈悲・柔和といった善人的人間条件と、専修念仏という宗教的条件を兼備した念仏者が往生人であると規定している。」<大橋俊雄著『近世浄土宗における往生伝の編集について』(『仏教論叢』第21号129頁)>いずれにせよ、臨終来迎が往生人か否かを決定するものであった。しかし、親鸞は臨終正念して往生する者は我らの信ずるものではないと語っている。「一念に八十億劫の重罪を滅すと信ずべしということ、この条は、十悪・五逆の悪人、日頃念仏を申さずして、命終の時初めて善知識の教えにて、一念申せば、八十億劫の重罪を滅して往生すといえり。これは十悪五逆の軽重をしらせんがために、一念十念といえるか。滅罪の利益なり、いまだ我らが信ずるところに及ばず。」(岩波文庫『歎異抄』60頁)また、「往生人」の正直・慈悲・柔和といった善人的人間的条件も、親鸞の教義とは相いれない。『緇白往生伝』の俗世間の往生人のうち、往生に負に働く条件(好色・凶悍といったもの)は、わずか数例しかない。<小栗純子著『近世往生者の諸相』(『日本仏教』39号42頁)によれば、慈悲4人・正直13人・質直3人・端直1人・柔和17人・慈忍1人・忍辱1人・孝行4人・無欲2人・名利を求めず3人・知道兼備2人・純誠1人・沈実1人・善順1人・聡悟4人のプラスの要素に対して、負の要素は、強健武略達者2人・凶悍1人・好色1人である。>なるほど「妙好人」も善人的人間的条件を具備しているが、それは信心を得た結果の副次的なものであり、「妙好人」になるために必須のものではなかった。親鸞の「悪人正機説」は、真宗のバックボーンであり、仰誓もこの立場を堅持している。「我こそ仏法者なりと後世者気色を振るまいて、世間法を蔑ろにせぬようにあいたしなみ、いつまでも我が身のあさましきことを顧みて、慚愧称名すべきものなり。」(仰誓著『講余随筆』)しかし、在世において信心決定がなしえたときは、その後の生活にあっては、宗教的・人間的な二つの面で、理想的人間像(支配者側にとって都合の良い)が要求されてくるのである。すなわち、一つは本末支配に基づく本願寺教団の体制に絶対従順であること、もう一つは封建支配の国王・国法に絶対従順であることである。(福間光超著『初期妙好人伝編纂の歴史的背景について』)このような面から「妙好人」をとらえた場合、次のような解釈が生まれてくることは避け得ぬことである。「彼らの多くはこの上なしの馬鹿と言われる文盲無知の庶民であって、強い信仰にいき、現世のいかなる苦悩の中にあっても、喜んでこれに従ったという事が特徴的である」(河出書房『日本歴史大事典』「妙好人」の項)言葉は適当でないかもしれぬが、白痴信仰に類似したものと考えられてしまうのである。円信の『勧化世事談』にもそれがくみとれる。「いろはにほへとが読めいでも、人には阿呆と笑われても、鈍なと云って謗られても、一つも構いはない。結句愚かしいのが如来のお好き、たらぬはおのが御開山聖人のお気にいるほどに、阿呆を悲しみ鈍なのを嘆くな。南無阿弥陀仏をとなえる事と御慈悲の程を忘れさえせねば、外に何も知らぬがよい。知り立てすると慢気がさいて根性が悪うなるほどに、覚えたがるな知りたがるなとの御意見じゃ。」(柏原祐泉著『近世庶民仏教の研究』157頁に記載されている)親鸞は決してこのようなことは述べていない。むしろ僧侶たる者は、誓願不思議・名号不思議を詳細に説明し、理解させなければならないと語っている。

「一文不通のともがらの念仏申すにあうて、なんぢは誓願不思議を信じて念仏申すか、また名号不思議を信ずるかと、いい驚かして、二つの不思議の子細をも分明に言いひらかずして、人の心を惑わすこと、この条かへすがえすも心をとどめて、思いわくべきことなり。」(岩波文庫『歎異抄』49頁)

 妙好人を「この上なしの馬鹿」と規定したのは、彼らが世に出された人間であるということを忘れているところに由来する。編者の立場が単に信仰の上からのみでなく、時代的な要求に基づいていることを等閑視している。柏原祐泉は、付帯的性格が条件づけられたと述べている。すなわち(一)封建的治世や封建倫理に順応し、(二)往生時に奇瑞を示し、(三)平時に霊験を持ち、(四)異安心に反対するような人々と言うことである。このうち(二)・(三)は反真宗的であるが、幕末の教団内や社会的な混乱の中で、真宗信者を印象づける必要上取り上げられたものであった。(柏原祐泉著『近世庶民仏教の研究』85~6頁)彼ら妙好人が社会の中でいかなる役割を担ったかという観点から見るならば、反動的な人間という評価がなされ、体制護持の人間といえるのである。古田紹欽は、さきのような観点からではなく、宗教的観点からとらえ直す必要性を説いている。「妙好人が教団にとって都合の良い存在としてのみその純粋な信仰が問われるのでなくて、常になにものによっても制限されたり、条件づけられたりしない、純粋な信仰そのものが問われるのでなくてはならない。」<古田紹欽著『歪められた妙好人信仰』(『大法輪』21巻2号79頁)>

 しかし、これら二つの面から考察したところで、人間像を描き出すことはなかなか困難である。宗教的見地からでは、どうしても孤立した人間、自己完結的なものに終始する危惧がある。そこで、私が考えるのは、『教育基本法』第1条の教育の目的(「教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家並び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値を尊び、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。」)を指針として、妙好人を考えるということである。つまり、「人格の完成者」と「社会の形成者」という2つの概念を拠り所としたい。橋本峰雄は、彼ら妙好人は日本の社会から急速に姿を消してゆくであろう<橋本峰雄著『妙好人ー浄土の一面性ー』(『思想の科学』25号27頁)>と述べているが、果たしてそうなのであろうか。その答えは、妙好人が教育の目的と合致するか否かによって、見いだされる。

 

第三章 教育の目的具現者としての妙好人像

 善導の『観経疏散善義』の「言二分陀利華一者・・・即是人中好人、人中妙好人・・・」に語源を持つ「妙好人」の語は、今日特に真宗篤信者に対する特別な熟語として用いられている。それは、岩見国浄泉寺仰誓が文政元年(1818)に編纂した『妙好人伝』以後の現象である。(柏原祐泉著『近世庶民仏教の研究』9頁)『妙好人伝』(昭和33年に永田文昌堂より仰誓・僧純・象王のをまとめて一冊本として再刊されたもの)序には、妙好人を蓮にたとえて、次のように述べている。「天竺に分陀利華というは、かの阿藕達池なる広大の白蓮華なりその色雪の如く銀のごとし、その形は車蓋の如くにて微妙殊勝なれば妙好華とぞいうなる。すべて華多しと言えども蓮にまされるはなく蓮のなかにこの分陀利にまされるはなし。」蓮という植物は、我々がその実を見て蜂の巣に類似していたことから、「鉢巣」と命名し、そして「ハス」と言われるようになったそうであるが、その経緯は全く持って蓮の与り知らぬものである。つまり、蓮みずからが「ハス」と命名したわけではない。と同様に、「妙好人」も仰誓により名付けられたのであって、妙好人が自らを「妙好人」と称したのではない。すなわち、「妙好人」は創り出されたものなのである。「妙好人」は念仏者に対するいくつかの嘉号の一つとしてあるのではなく、あくまで独自な意味内容を持った教団用語として用いられるのである。<雲藤義道著『妙好人の内省的自律性について』(『真宗研究』15号36頁)また、神子上恵龍著『真宗の人間像ー妙好人伝を中心としてー』(『真宗学』29・30号)において、自称妙好人が一人も存在せぬ理由を次のように述べている。妙好人といわるる所以は、その人にあらずして、全領している名号の体徳よりいわるるのであるから、本人にはもとより、自己は妙好人であるという自覚を持たないであろう。万一持つとすれば、それは自称妙好人であって、本当のものではない。>太閤といえばたくさんの人がいるのに、通常は豊臣秀吉を指すのと同様に、意味が限定化・特殊化していったのである。以後、妙好人の概念は、明治・大正・昭和へと受け継がれ、数々の『妙好人伝』が編纂されている。

 鈴木宗憲は、誕生から今日までの妙好人を4つのタイプに分けている。(一)江戸幕藩体制内妙好人、(二)幕末維新型妙好人、(三)絶対主義天皇制内妙好人、(四)近代民主主義型妙好人である。そして最後のものが、未だに造型されず、我々が現在の時点で作っていかなければならぬのである。<鈴木宗憲著『妙好人の倫理』(『大法輪』29巻8号93頁)>しかし、このような考え方は、妙好人誕生の由来を熟考するならば、なんら意味を為さない。何となれば、妙好人は支配者側から作られた体制に都合のよい人物だからである。(四)の近代民主主義型妙好人が未だに造型されていないのは、支配者側からのモラルの強制が、従来に比べて希薄になった証左ではないかと思うのである。近代民主主義型妙好人が、『教育基本法』第一条の教育の目的具現者であるとも考えない。私が注目するのは、次のような歴史的事実である。明治から大正そして昭和(第二次世界大戦後も含む)にかけて、数々の『妙好人伝』が出版・再版されたが、その『妙好人伝』中の妙好人のうち、白眉とも言うべき、清九郎・庄松・源左といった妙好人の伝記も同じく、再三再四に渡って刊行されている。(柏原祐泉著『近世庶民仏教の研究』16~19頁によれば、『妙好人伝』明治30・32・37・40年、昭和33・43年の再刊が記されている。また『清九郎伝』は、大正15年・昭和25年、『庄松伝』は、明治22年・大正12年・昭和25・27・30年、『源左伝』は、昭和25年の刊行がある。)彼らがたんに為政者に都合のよい人間だけなら、このように長い間、名をとどめるようなことはなかったと思う。清九郎は、寛延三年(1750)に往生したが、妙好人と言えば清九郎と言われるほど、人口に膾炙している。妙好人は、支配者によって世に出された者であるが、民衆の受容によって、支配者の手を離れ、一人歩きした感がある。このような歴史的事実を踏まえ、妙好人を再考しなおし(「人格の完成者」と「社会の形成者」の両面から考え)、第一章において、問題提起した毛坊主が妙好人の先行形態であるについても言及していきたい。

 妙好人を批判して、その槍玉となった人物に筑前正助がある。後世の評者をして、彼を主体性皆無の人間と決めつけさせた行動を上げてみよう。「赤間の駅に行かんとするに、父の曰く雨後のことなれば道悪かるべし。下駄を踏みて行くべしと。正助諾して出んとす。母はそのことを知らずして、道は早乾きたり、草履を履きて行くべしと。時に正助父母の命共に背くべからずとて、下駄と草履とを片足づつ踏みて行きけり。」(『妙好人伝』五編巻上)大の大人が下駄と草履を片足ずつ履いて歩いている姿は、確かに笑止千万である。下駄か草履かどちらがベターかも決められない、親の言いなりになる自主性の全く欠如した子どものような大人と決めつけられても、詮なしとしなければならない。しかし、下駄と草履との選択は、正助にとっては些事であり、正助はより重要なことを選択したのであるという見方もできる。西田幾多郎は、「我々は自己の満足よりもかえって自己の愛する者又は自己の属する社会の満足によりて満足されるのである」(岩波文庫『善の研究』173頁)と述べているが、正助の立場はそれに当てはまるのではなかろうか。正助にとっては、下駄と草履とは単なる履き物でなく、父の愛情と母の愛情が垂迹したものであったのである。それ故にこそ、片足ずつ履いていったと私は考えるのである。正助が主体性のない人間ならば、次のごとき行動は決してなしえないからである。「享保十七年の頃、諸国一統大いに蝗の災いありし時、村内の種子のつきんことを憂いて天に向かいて嘆息せしに、正助の田地のみ蝗の災いなかりしは、天地を感動する至考というべし。その実りし籾悉く村内の種子に配分して、一粒も己が所持とせず。自らは草の根木の皮を喰らいて飢えをしのぎぬ。」(『妙好人伝』五編巻上)正助の心は、彼の属する社会の満足によりて満足されるのである。彼の田地のみ蝗の災いがなかったのは、彼が孝行者であったと言うよりは、熱心な百姓であったからだと私は考える。牛に対しても丁重な扱いをしていることから、熱心な百姓であったことが窺えれる。「牛を使うに、朝には牛家の前に至りその日の仕事を頼み、夕べにはその日の苦労を謝する事、人に対するが如し。牛を使いし帰りには、己鞍を背負うて帰る」(『妙好人伝』五編巻上)また、播州卯右衛門も正助同様、社会の満足によりて満足される人間であった。「或年の夏日照りうち続きて、卯右衛門、田の水を引くに行きけるに、折節川下の人水引に来たりければ、我は川上なり、そのもとまず引き給うべしと云うて帰り。また、川上の人と出会うときは、我は川下なりまず引き給えと云うて譲りて帰る。」(『妙好人伝』二編巻下)それから、妙好人といえば、まずこの人が挙げられるほど有名な和州清九郎にも、もちろん同様な逸話がある。<『妙好人伝』において、一人当たりどれくらい紙幅が割かれているかを勘定してみると、平均2頁足らずとなるが、清九郎は実に14頁を数える。この清九郎の枚数は、『妙好人伝』初編巻上の半分以上を占めている。>「この男農業の暇ある時は、柴を売りに出るに、薪を望む人其の値段を問うに、何程なりと答えれば、それは高価に思うゆえ、何程に買うとあれば、二言とも値を論ぜず、いずれにても負けて売りける。」(『妙好人伝』初編巻上)このような妙好人達の言動にふれたとき、周りの村人はどのような行動をしたのであろうか。妙好人の言動が無私であるが故に、興味深いのである。村人の欲のために、潰されてしまうのではないかと憂えるのである。

 しかし、『妙好人伝』の記述を見る限りにおいては、そのようなことは全くない。彼ら妙好人の消極的な自己主張は、村人に充分感化を及ぼしているのである。自ら収穫した籾をすべて種籾として村内に配分し、草の根木の皮を食べて飢えに耐えた正助に対しては、「隣村まで自ずから正助に恥じて、風儀を移しついに孝子善行にして賞与を受けし者三十余人に及ぶとか」(『妙好人伝』五編巻上)との記載事項がある。百姓にとって命ほど大切な水をいつも譲った卯右衛門に対しては、「後には諸人これ(卯右衛門が水を引く権利を譲るー筆者補足)を知りて卯右衛門の水引に出たるときは、他の人ひとりも出ざりしとなん。」(『妙好人伝』二編巻下)と記されている。買い手が言ったとおりの値段で売った清九郎に対しても、「其の故後々には清九郎の売りに出たる薪は値切る人無しとなり」(『妙好人伝』初編巻上)とある。いっけん人間生活における正当な権利を放棄していながら、その実立派に自己の権利を確立しているのである。彼らの真意が、村人に理解されるには相当の歳月を要したであろうが。

 また、観点を変えてみるならば、次のようなことも言えるのではないか。妙好人と生活をともにした村人は、妙好人に対して敬愛の念を抱き、清九郎のように、「生質魯鈍にして我が冠る笠に、鉾立清九郎と仮名にて人の書きてやりけるをさえ、読むこと能わざる程の人」(『妙好人伝』初編巻上)であっても、決して馬鹿にした扱いはしていないのである。摂州妙了は障害を持っていたと思える記述がある。「其の生質愚かにして一の字の縦横も知らず、物言うにも片言多くして面白きことのみなる」(『妙好人伝』三編巻上)女性であった。このように、知識面から見れば全く無教養の妙好人が、その人間性故に、畏敬の念をもって村人に迎えられ、存在できた世界は評価に値するものと私は考えるのである。 次ぎに、『妙好人伝』を読んで、共通するパターンをいくつか述べてみようと思う。まず、「我前世に・・・した故、其の報いなるべし」という因果応報観を述べる。「石州九兵衛、或年夏日照りの節、山へ草を刈りに行き我が田地のあたりを顧みるに、何者の仕業にや溝の口を塞ぎ水一滴も我が田へは来たらず、悉く他人の田へ水の流れ入るようになりたるを見て、草を刈りに出たるに草をも刈らずして吾家に帰り、やがて仏前に拝礼しせらるるは如何なる子細ぞと問えば、水の故を語りて言うよう、これは我前世に人の田へ掛ける水をせき止めたる報いなるべし。昔の時にしもあらば腹の立つにまかせてまた人の水口を塞ぐべきに前世の業なりと気をつけさせ下さるるは、単に大善知識の厚き御教化の現れなり。この御礼を申さではあるべからず」(『妙好人伝』初編巻上)「三州七三郎、或時我が山の木を盗み伐る者あり。七三郎これを見て聊かも惜しむ気色なくあまつさえ其の盗みたる者に対して謝礼をなしぬ。それを見聞のともがら不審に思いて其の子細を尋ねれば、我が過去にて彼人の物を盗みたる報いなるべし恥ずかしきことにこそ侍れ。この方より返す道をしらざりしに彼方より取りに来たれりと思えば、礼を申すより外なし。石州善太郎、或時盗人夜中に入りければ、善太郎息を詰めて念仏だに申さぬようにしておりけるが盗人の物、持ち出るとき言うよう。私が前生にて借りし品を取りに来て下されたは御苦労なり。」(『妙好人伝』四編巻下)「能州四郎左衛門、彼男(四郎左衛門のことー筆者補足)は御法義に入りしより立腹したることなしと聞きて、若き者ども疑うて彼が畠にある大根を二十本も切り捨てて立腹させんと計るに、四郎左衛門これを見て、にわかにわが家に帰り内仏に御礼いたし、過去の罪を懺悔して仏恩を喜ぶ。此の由若き者聞きて如何さま二十本位にては彼が立腹とならず、願わくば村中の若者ども一人前に二三本ずつ遣わすことと定めて、彼が大根を残らず切りおとさば定めて立腹すべしと、一同申し合わせ其の所作をするに、四郎左衛門又これを見て家に帰り前の如く我が前世に人の畠を荒せし報いなりと懺悔せし。」(『妙好人伝』五編巻下)『付録』の扱いにはなっているが、その最たる者に京都西六条の非人(非人が正式に載せられずに、付録扱いになっていることは、本来平等であるべき仏教の教義に反し、宗教界でも露骨な差別が存在していたことを意味する)「或年の正月例の通り軒下に臥しいたるに、此の町の近江屋何某という者いたく酒に酔い更けて帰りけるに、小便せんとて此の乞食の臥しいたるを夢にも知らず、頭より小便を掛けるに、乞食目を覚まし因縁なりとつぶやき、片方ににじり寄るに、驚天し汝が臥しいたるを更に知らず、不浄を掛けしこそ安からぬ堪忍せよ、と詫びたりけり。乞食大いに迷惑の体にてこれ全く我が臥し処の悪き故、お主驚かせしなり。皆これ因縁なれば、必ず詫びなと、少しも恨むる気色なかりけり。」(『妙好人伝』付録)これら妙好人の被害者でありながら、被害者意識を感じさせない言動に対して、加害者たる近隣の村人はその後どのような行動をしたのであろうか。故なく水を止められた九兵衛に対して、「近隣の百姓これを伝え聞いて、さても我々は恥ずかしき心なりとて、其の後は九兵衛が田へはいつも水あたりよきように仕向けしとなり。」(『妙好人伝』初編巻上)木を盗まれた七三郎に対しては、取り立てて言う記述はないが、彼は八十三歳まで生きた。此の事実は特記すべきものと考えられる。イタズラ心から大切な大根を大量に盗まれた四郎左衛門については、「人々伝え聞きて、遂に後悔の思いに住し、共とも仏法を帰仰せし。」(『妙好人伝』五編巻下)不浄を掛けられた京都西六条の非人に対しては、これと言った明確な記述はないが、近江屋何某は彼との約束(「汝もし我が存生の内に死することあらば、善に葬りえさすべし」)を律儀に守ったのである。私がここにあげた五人の妙好人は、すべて被害者であるが、彼らには被害者意識が全く感ぜられぬのである。九兵衛の言にある「昔の時にしもあらば、腹の立つに任せて又人の水口を塞ぐべきに」と、報復に出る自分に、其の行為を抑えさせてくれるのは、念仏の功徳のありがたさであると言った表現から、己を鋭く見つめている九兵衛の崇高な姿をくみ取るのである。このように彼らが、行為の深層を鋭く見る目を持っているからこそ、盗人も若者も感服したのであると考える。つまり、彼らの自己内面への洞察の深さが、加害者をして罪の深さにきずかせるに至らしめるのである。大和清九郎は、なけなしの金(菜種の代金十五匁から洗濯料八匁を払った残り七匁)を盗まれたとき、非常に喜び、村人から何故嬉しいのかと問われたが、次のように答えている。「其の故は盗まるる私も同じ生まれつきの凡夫にて、盗みかねぬ者なるに、今は御慈悲より盗み心も起こらず、かえって盗まるる身になりたることはありがたきことなり」(『妙好人伝』初編巻上)雲藤義道は、清九郎の態度を評して次のように述べている。盗みの行為を機縁として宿業の深さを感じ、憎しみを喜びへと転ずる。<雲藤義道著『妙好人の内省的自律性について』(『真宗研究』15号41頁)>批判の対象が外に向かずに、自己の内面・内面へと深く入っていくことが理解される。そして、阿弥陀仏の御慈悲がなければ、自分も盗人と同様の行為をなすであろうと認知するのである。それは、自分も生来の凡夫であるからだ。清九郎には、絶対的悪というものがなかったと思うのである。西田幾多郎においても、絶対的悪の存在を認めていない。「深く考えてみれば世の中に絶対的真善美という者もなければ、絶対的偽醜悪という者もない。偽醜悪はいつも抽象的に物の一面を見て全豹を知らず、一方に偏して全体の統一に反するところに現れるのである。」(岩波文庫『善の研究』177頁)清九郎をはじめ、妙好人には全豹がわかっていたのであろう。

  己が苦しいときに、祖師親鸞のありがたさをくみ取り、祖師・如来を絶対の拠り所とするのも特徴の一つに挙げられる。「石州おはつ、夫重蔵といえるは放逸無慚にして常々妻の仏参を忌々しく思いおりしに、ある時酒に酔いて妻を大いに叱りて言いけるは、汝がようなる仏凝りは身の上の障りなり。親里へ帰れと言いて追い出し早速戸を閉めけり。時は霜月中旬の頃、吹雪を膚を透し峭寒指を落とす夜、妻は是非なく筵を着て、一夜門に明かし、翌朝内に入り、夫へ詫びて言えるは、夜前追い出されしおかげ故、初めて御開山の石を枕の御苦労も雪をしとねの御艱難も我が身に知られて御恩を喜び候」(『妙好人伝』二編巻下)「芸州市郎兵衛、或年夫婦もろとも山に入りて薪を取りつつ山より顧みれば、我が家の辺りに煙の上がるを見て、これは火事よと思い急ぎ走り帰りければ、家は早無くなりぬ。然れども、人々の情けにて衣食住の処は如何様にもなるべけれ強ちに嘆くべきにあらず。これにつけても尊むべき如来の御恩なり。もし大悲の御助けに預からずば、未来は衣食住も無き身となるべきに、目出度き浄土へ生まれることはいかなる御慈悲ぞや」(『妙好人伝』三編巻上)「濃州安右衛門、常に仏祖の御恩を喜び、雪水の中をも厭わず裸足にて参詣を致して言える様は、冷たきことは身に覚え知るれども、御恩の程は身に知られぬと言いて悲しみしとなり。或いは寒夜に密かに雪の中に臥しては、仏祖の御苦労を思い浮かべ、御恩知らずの私如来の五劫永劫の広大の御恩が知られずば、せめて御化導の祖師善知識の御恩を身に知りたい知りたいと常に言いて暮らししとなん。」(『妙好人伝』二編巻上)「豊前新蔵、夏の頃、彼が蚊帳無きことを気の毒に思い、彦右衛門蚊帳を持ち行き与えければ、親切黙止難くこれをお預かりおき、僅かに両三日ばかり用いて返済に及びけり。其の時彦右衛門申すようは、何故秋迄用い給わぬぞと問えば、新蔵言いけるは、此の袋の中へ入りて休みければ、夜中一寝入りにして御恩を忘れて暮らせしゆえ此の大様袋はお返し申します。」(『妙好人伝』二編巻下)そして、和州清九郎、「清九郎は雪の中に、転びしかも裸なり。これはいかなる事に候やと、布子を打ち着せ内へ伴い入り此の由を尋ねけるに、かくかくの訳にて御恩を察せんと思いつるまでなり。これも今夜に限り雪積もりたるにて、ふと思い出ししことなり」(『妙好人伝』初編巻上)ここにあげた五人の妙好人は、二つのグループに分けられると思う。おはつ・市郎兵衛の二人は自分が苦しい時に祖師や阿弥陀如来の御恩を思い、それを心の支えとして逆境を切り抜ける。一方、安右衛門・新蔵・清九郎の三人は、自らを苦境におとしいれ、いわば己の身体を傷つけて、祖師や阿弥陀如来の御恩を感謝するのである。しかし、共通して言えるのは、彼らが強い信心を有しているという事である。そしてそこには、祖師や阿弥陀如来との一体感に浸ろうとする態度をくみ取るのである。親鸞がその信を表明した言葉として、『歎異抄』には次のごときものがある。「聖人の常の仰せには、弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり、さればそくばくの業を持ちける身にてありけるを、助けんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」(岩波文庫『歎異抄』74頁)親鸞と同じような表明をした妙好人として、摂州妙浄尼と庄松をあげることができる。「妙浄尼、ある時御本山の御経蔵へ拝礼して申される様は、彼多数の御経も私一人を助けんとての御道具だてじゃものをと落涙して喜ばれしなり。」(『妙好人伝』二編巻下)
「庄松、勝覚寺の先代住職は庄松同行を非常に愛撫せられおりしが、役僧の一人がそれをうらやましく思い、一つ庄松を困らせてはずかしめんとて、三部経の中の下巻を取り出し、庄松に向かい、お前は有り難い同行さんじゃが、此の大無量寿経の下巻の此処の経文を読んでみよ。と言えば、庄松の答えに、庄松を助けるぞよ助けるぞよと書いておる、と言われたと。」(『庄松ありのままの記』)彼らのこのような言の背後には、末寺僧侶の再三再四に渡る説教もあったであろうが、強固な信心を確立した者でなければ言える言葉ではないと考えられる。

  そして、私が最もたじろぐのが、西田幾多郎の次の言葉を体現した妙好人が存在したということである。「余は現時多くの人の言う如き、宗教は自己の安心のためであるという事すら誤っているのではないかと思う。かかる考えを持っているから、進取活動の気象を滅却して少欲無憂の消極的生活を以て、宗教の真意を得たと心得るようにもなるのである。我々は自己の安心のために宗教より来る結果にすぎない。宗教的要求は我々のやまんと欲してやむ能わざる大なる生命の要求である。」(岩波文庫『善の研究』182頁)『妙好人伝』より、これを具現した人物とその言動を拾い上げてみよう。「越前荒木又六、本願の尊さ自然と口に現れて、如何に止めんとしても止められざり」(『妙好人伝』初編巻下)「江州治郎右衛門、治郎右衛門が馬に侍乗られければ、治郎右衛門口つきして行きけるに南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と称名なしければ、右の侍忌々しき念仏を申すなと大いに叱り給えば、驚きて念仏を止めけれども二三町が行く内に、又己忘れて念仏すれば又おおきに叱られる。次の駅に至るまでおよそ七度まで念仏申しては、叱られる」(『妙好人伝』初編巻上)「播州平兵衛、他の同行来たりて平兵衛に向かいて云えるようは、貴方は只如来の御助けが有り難いとばかり云うて居られるが、それでは頼む一念が抜けて不足に存ずると申しければ、平兵衛答えて、私は頼む術も知りませぬ愚か奴、頼まねばならぬことなれば如来様より能ようにして下さるで御座います。」(『妙好人伝』四編巻上)「濃州くめ、私が心は明けても暮れても地獄へ引き込むに掛かり果てたるを阿弥陀様の仰せられるには、其の心には任すな我に任せよ。其の心は地獄へ行けばやれ、其の方は我が助けるほどにと」(『妙好人伝』四編巻下)彼らは、極楽往生を願って念仏したのでは決してない。彼らが念仏するのは、無意識の所作とでも言うべき心の状態が、彼らをして報謝の念仏にむかわしめるのである。『歎異抄』に言う。「誓願の不思議をば頼まずして、我が心に往生の業をはげみて、申すところの念仏をも、自行になすなり。この人は名号の不思議をもまた信ぜざるなり。」(岩波文庫『歎異抄』50頁)誓願の不思議を頼み、名号の不思議を信ずることのできる人間とは、自らを凡人・悪人であると心底から思っている人間である。和州清九郎にそれを表した話がある。「清九郎さんを訪ねて来たりて『清九郎は尊き信者なりと聞き伝え、遠路を訪ねて来たりしに、其の甲斐もなき大悪人なり。それでは極楽往生はなかなかかなうべからず』と言われた。清九郎さんはこれを聞いて大いに喜び、『これまで御寺様がた彼是お尋ね下され、御法話いろいろありがたき御教化に預かりしが、今日はとりわけ御懇志の御しめしにあい奉り、さてさてありがたき御事なり、仰せの如く私のようなる大悪人地獄一定のものなるを、このままにて御助け下され候如来の御本願と聴聞おさせなれ下され候えば、これでいよいよ往生決定なりと、ありがたく存じ奉り、御礼称名念仏申すより外なく候』(富士川游著『新選妙好人伝』293頁)清九郎は、僧侶以上に『歎異抄』に造詣していたということができよう。そして、「弥陀の誓願の不思議」とは何かを、体得できていたのである。弥陀来迎とか往生蘇生の奇蹟・霊瑞がそれでないことは、清九郎には分かっていた。「清九郎さんの平日の行実をみたる人々は其の終にはいかばかりの霊瑞もあるべしと、人々が言いはやせる病床に聞きて、清九郎さんは『我が愚癡の身が信心決定して念仏を称え喜びの生活をすることこそ、この上の不思議はあるべからず』(富士川游著『新選妙好人伝』317頁)と語っているのである。
『妙好人伝』にも浄土系の『往生伝』同様、奇蹟・霊瑞を書いたものがたくさんある。第二章において述べたように、初期の『妙好人伝』とは性格を異にした『妙好人伝』が輩出している。とくに象王編の『続編』は、奇蹟・霊瑞の類が顕著である。
「焼けたる灰紫の色に変じ白骨悉く舎利となり映徹する事水晶の如くなり。六十三歳にて往生せしが然るに二日目に蘇生して。命終の後然まで見難き容貌忽ち変わって美麗となり」(『妙好人伝』続編)神祇不拝を徹底させるために、念仏の功徳の中に、このような奇蹟・霊瑞を取り入れたと考えられうるが、奇蹟・霊瑞をいかに説いたところで、人間の内面・根元からは遊離してくる。念仏は奇蹟・霊瑞を得る手段では決してない。足利源左は、真の奇蹟とは何を意味するのかを、清九郎同様知っていたようである。「珍しいことだ珍しいことだ。凡夫が仏になるということは。こんな珍しいことがほかにあるかいのう。」(藤並天香著『真宗信者語録』32頁)しかし、清九郎や源左のこのような言葉は、『妙好人伝』中には存在しない。源左は、天保十三年(1842)に生まれ昭和五年(1930)に88歳にて死んだ人だから、存在しないのは当然であるが、清九郎の臨終場面は簡単にしか記されていない。「清九郎病気いよいよ重けれども、苦しき息の内にも念仏の声やむことなし」(『妙好人伝』初編巻上)念仏を忘れなかったという記述しかない。彼らの信心は、体制に都合の良い面でしか評価の対象とならなかったようである。源左には真宗教義にのっとりながら、その教義を越えているところがあった。「ある説教師から、地獄行きと思う人は手を挙げてと言われると手を挙げ、また極楽行きと思う人は手を挙げてと言われると、再び手を挙げたと言われる」<古田紹欽著『忘れられた妙好人信仰』(『大法輪』21巻2号79頁)>一旦救われた以上、地獄・極楽を穿鑿して何の値打ちがあるかといった源左の態度に実にすがすがしいものを感じるが、彼らのこのような面は、『言行録』なり『伝記』を繙かない限り永久に分からない。妙好人の中で、反体制的であると特に評価の高かった庄松のような人物は、『妙好人伝』中には全く存在しない。庄松の言動をあげてみよう。(『庄松ありのままの記』より)

 御法主「今我が御衣の袖を引っ張ったは汝であったか。」
 庄松「エおれであった。」
 御法主「何と思う心から引っ張った。」
 庄松「赤い衣を着ていても、赤い衣で地獄のがれることならぬで、後生の覚悟
    はよいかと思うて云うた。」

宗教者に対してだけでなく、政治家に対しても。丹生村字三殿木村大庄屋方にて、庄松風呂焚きをしてあったが、御代官がお泊まりになり湯に入って洗いつつ庄松を呼んで、「風呂焚き背を流してくれ」と言えば、「オイよし流してやる」と流しながら、背をつくづく見てありしが、「盗み食いしてようくらい肥えとる」と、てをひろげポンとひとつ打って、「御恩忘れな」と言われた。

 庄松とは逆に、『妙好人伝』中の妙好人は、本願寺一辺倒の篤信者であり、御上への批判など皆無である。『妙好人伝』編纂の情況を考えるなら、それは当然のことなのであるが。まず、本願寺への忠誠を記しているものをあげてみよう。「和州清九郎、領主益々其の志を感じたまいて再び清九郎を召され、鳥目拾貫文くだしおかれ並びに領分の山いづれにても木柴汝が心に任せて刈り取るべしと許されければ、清九郎喜びて家に帰り、つらつら思うよう殿様より給りける鳥目我々風情が用いること勿体なしとて、一銭も残らず御本山へ献上せしとなり。」(『妙好人伝』初編巻上)「加州与市、仰ぎては朝夕御本山の方へ拝礼して一の竹の筒をかけ置きて、一銭に銭づつ毎日御冥加を差し上げて貴み喜びけるとなり。」(『妙好人伝』初編巻下)「三州七三郎、或年の秋台風吹きければ、女房にむかいて云うようは、今日の風は御本山の御堂へ定めて強く当たるべし。せめてのお手伝いにとて筵を持って辺りの高きところに登り夫婦して其の筵を張り持って御本山への風よけにとぞ申しけるとなり。」(『妙好人伝』二編巻上)「豊後長九郎、常に御慈悲を貴みて農業を働き毎日申刻ごろ野山より帰り妻に云うよう、余りに疲れたり一杯飲みたいが酒価を能うべしと云えば、女房銀札二三分宛出して遣わしけるを喜び喜び財布の中へ入れて首に掛けて云いけるようは、此の酒の力にて今一働きいたすべしとて出ていき、日の暮れるまで仕業を励みしとなり。此の酒価年内に六七十目も貯まりけるを以て、報恩講を営み御本山並びに手次の志しに致し、あまりを諸雑費として毎年報恩講を賑々しく勤めし」(『妙好人伝』二編巻上)「摂州半兵衛、半兵衛云う様は、今日は何事にてお歩きぞと云えば、御中山の本堂再建の助力を頼みに出かけたれども、檀頭が僅か五十疋の手初めゆえ、まず暫く延引せんと申されければ、半兵衛云う様は、私もお手伝い申し上げたしとて、兼ねて心がけし金子百疋甚だ軽少ながらお預かり下されと申しければ、世話方中も呆れ果てて云う様は、極貧の其の方の志は実に大儀なりと誉めければ、半兵衛云う様は私の百疋こそ不足なれ。其の故は無上大利の御功徳を貰いて只今にも仏果に至る御恩を受けしもの。庄屋殿の五十疋こそ御大儀なれ其の故は未来の御恩の無き御方がよくも御寄進ありし」(『妙好人伝』二編巻上)「但州徳兵衛、夏の頃格別暑きときは御内仏の御戸を開き団扇を持って仰ぎ奉り。又冬寒気の厳しきときは、御前に火鉢を差し上げ置き二時の勤行の外にも折々拝礼を遂げ其の崇敬の有り様忠臣の君后に帰し、孝子の父母に仕えるが如し。」(『妙好人伝』二編巻下)

 彼ら妙好人は幕藩体制に対しても非常に従順であり、またそのことを要求された。『妙好人伝』三編巻下(他の編とは異なり伝記を記載せず、教理を説いている。このような箇所は、五編巻下の一部と同じであるが、そこには伝記が半分以上記されている。)には「公武帰仏」の内容で、徳川家康を讃え、次のように述べている。「東照神君の如きは才徳優れ在して、天下を一洗し四海を静溢にしたまいて四民撫為の化に浴し、千秋昇平なるは神君の徳澤の致すところなり。天下万民をして各々帰する所の宗旨を定めたまいて慶長年間に十五箇条の垂範を持て日域に生ずるの人民その宗旨について帰仏礼拝してその教えを守れと慇懃に教えたまう。」『妙好人伝』における妙好人は本願寺に対するのと同様の忠誠を、俗権つまり御上に対して誓わなければならなかった。換言すれば、本願寺や御上に忠誠のない人間は、『妙好人伝』に記載されることはなかったのである。「信州何某、田畠を荒らしおきては御領主へ対し地主へ対して申し訳なしと云いて、法座より帰ると昼夜の分かちなく働きしゆえ作物もよくできはんべりぬ。ついては作初をまず地主へ持ち行きてお陰で造り取りしと云いて差し上げしとなり。」(『妙好人伝』三編巻上)「摂州庄兵衛、我この間外に置きし稲を我が家に入るとて御上のご恩を初めて思い知りたり。その故はわが身は楽に寝て、御領主に稲番をさせ奉ることの勿体なさよ、と云いて国恩を喜びしとなり」(『妙好人伝』二編巻上)「播州卯右衛門、領主関東へ御参勤の節は、道の三里ばかりも見送り奉りて、私故の御苦労ぞと云いて力無くして我が家に帰り、またお国入りの節も外護の御知識がお帰りと云いて喜び喜び出むかい仕奉りしとなり。」(『妙好人伝』二編巻下)「筑前正助、常に上を敬い国君の江戸往来の時は必ず道の傍らに出て私故の御苦労なりと平伏し、猶国恩のかたじけなきことを思いて、常に遥拝せしとなり。」(『妙好人伝』五編巻上)藤島達朗は、本願寺や御上への絶対的な忠誠に対しても、妙好人の行動を評価し、次のように記している。「凡百の妙好人は、その彼の生活全体をもって、正しくレジスタンスをやっているのである。ただそのあまりにも低い彼らの社会的地位や、その生活の性格の故にそれを直に表面化せしめず、ひとへにその根底的事実として社会全体をおのづから支え且つ運んでゆくのである。」<藤島達朗著『妙好人の社会性』(『日本仏教学会年報』19号106頁)>妙好人を賞賛しすぎているようなニュアンスも感ぜられるが、反体制でないからと言って、妙好人を等閑視するよりは、格段進歩した考察だと考えられる。妙好人の言動は確かに為政者にとって好都合であったろう。しかし、彼らのそれは全く以て私心などなかった。(布川清司著『近世日本の民衆倫理思想』251頁によれば、反体制側の百姓が懐柔策によって、代官の手下となったとき、代官に非常に忠誠を尽くし年貢収奪に専念したという。)

 私はさきに、妙好人を考える一つの指針として、『教育基本法』第一条における、「人格の完成者」と「社会の形成者」という、二つの視点から妙好人を見るということを提言したが、従来、妙好人と言えば人格の完成者としてのみ評価され、社会の形成者としては、低い評価しか与えられていなかった。<鈴木宗憲は、「江戸時代の差別と宗教意識」(『部落』37号37頁)において、豊前新蔵(非人として間違われ、手ひどい攻撃を受けたのに、「この世にては賎者と見間違えらるる我が身を、当来は弥陀同体の御悟りをたまわると決定しながら思え)ば、喜ばずにはおらるべきや」と言った)に対して、個々の解放を中心とする宗教として、自己に加えられた不当な暴力に抵抗しないのが、当然だと言われるかも知れない。しかし社会的問題を常に自己の罪悪の機縁にして喜ぶことは、他人に加えられ、人類に加えられた不当な暴力に、目をつぶることではなかろうか。個己の解放の喜びを社会的喜びに不変していく宗教的態度は、新蔵のような喜びから湧いてこないと言っている。>そのために彼らが末寺僧侶にかわる真の善知識として、村人の尊崇を受けていたという事実は、論点にのぼることがなかったようである。無学文盲で土地とて満足に持たない妙好人(この点で「毛坊主」とは大きく異なる)が、僧侶から一目置かれ、村人の真のかつえを癒す在家として存在していたことは、もっと評価されるべきであると考える。『妙好人伝』から、彼らが善知識となっている場面を拾い上げてみる。「和州清九郎、時に浄光寺看坊玉譚師は、もと越中茗荷原妙覚寺の住持にて寛延元辰の春帰国ありしとき清九郎を誘引して下り給う。其の故は越中は御宗門の徒多しと雖も愚痴に返りて仰信なる人は千中に一二に過ぎず此の故に清九郎如き信者に逢わせなば無言の教えによりて大いに利益を得べし。」(『妙好人伝』初編巻上)「加州与市、ある時よそへ行きし後へ日頃出入りの魚屋来たりて庭に干しておける粟を盗みとらんとするところへ与市帰りかかりけるが、それと見るより態と身を隠して取らせしとなり。其の故を隣家のもの問いたれば、与市ひそかに云うようは、是をとがむれば再び此の屋へ来たらず左候えば御法義の話する縁を失う故不便さに許し遣わすと云いしなり。」(『妙好人伝』初編巻下)「三州七三郎、ある時七三郎の方へ同行尋ね来たりて何卒御教化に預かりたしと申しければ、是は是は勿体なきことをいわるるものかな、御教化等とは恐れあることなり。殊に此の愚昧の私何も存知たることなし、止むことを得ずば、只私の聴聞致せしことを御話申しあぐべし。」(『妙好人伝』二編巻上)「芸州五助、ある時同行両三人尋ね来たりて五助に向かい、御前は有り難い人で御座ると承りて参りしが、何卒御法義のことを聞かせ給えと云えば、五助云うようは私は有り難い者では御座りませぬ地獄行きなり。まことに有り難きは如来のお慈悲なりといいて喜びしとなり。」(『妙好人伝』三編巻上)そして、庄松<「安心に不審があるので御招待申した」と言うと、庄松「袈裟衣を掛けた坊さんの御説教は不足なんか。」又平「いやいや左様なわけではないが、そなたは無我の同行さんと承り、一口聞かしてもろうたらと存じて」(『庄松ありのままの記』)>彼ら妙好人に対して同行が求めたものは、深い内信から湧き出てくる言葉であった。また、妙好人の真情を吐露した言葉には決して難解なところがなかった。庄松は、僧侶に『歎異抄』にある難しい言葉を具体的に解き明かしている。<院主が庄松に向かい、「摂取不捨と云うは如何なる意ぞ」と云えば、庄松、直に座を立ち大声を上げて手を広げければ、院主は庄松が大声を上げて立った故、難しきことを尋ねたので庄松がのぼせたと思い、その場を逃げたれば、庄松、後より院主を追いかける。院主は本堂の前から裏堂へ逃げた。庄松後より院主を追いかける。裏から表、表から裏ついに奥へ逃げ、行灯部屋へ隠れ、中より戸を引き締め「やれやれ、今後庄松に難しきこと問うまい。此処へ隠れたは知るまい」と、思いの外、庄松「院主此処に居る」と云うや否や、戸を開きそのところ一杯になって、「摂取不捨とはこれなり」と云われた。院主は、逃げて逃げまわった我を、ついに逃げさせぬが摂取不捨であったかと、大いに喜ばれたと。(『庄松ありのままの記』)>檀家に説教するはずの院主が、逆に説教されているのである。これ程の皮肉が存在するだろうか。我々は、庄松をここまで導いた善知識の存在を無視するわけにはいかないが<庄松はじめは三業安心なるを、勝覚寺の弟子に周天といえる厚信の僧ありて、懇ろに庄松を諭して遂に御正意安心に回心させたり(『庄松ありのままの記』)>そういう立派な、僧たるに値する僧は実に少数で、多くは批判の対象となっていたようである。<庄松ある寺にて、住持は銀細工坊守は真田の紐を打つを見うけて曰く、「寺の内職には信心をせよ、信心をせよ」(『庄松ありのままの記』)>「いにしへの かしこかりつる 跡といて 仏の道に すすめとぞおもう」(『妙好人伝』序)とあるように、僧侶が唱導本として此の伝を使用する一方で、また檀家も読まされたと云うところに、近世仏教の情況の一端を垣間見ることができる。僧侶が『妙好人伝』を用いなければ、檀家を説教できなかったというのは堕落といえるかも知れないが、民衆の中より善知識が生まれたことは評価すべきものであると考えられる。 しかし、『妙好人伝』百五十余名の人物のうちで、後生まで其の名を留めたのは、和州清九郎のみではなかったかと思うのである。一人平均二頁たらずの紙幅の中で、彼の十四頁は異彩を放っており、彼には、他の妙好人の言動がすべて融合されていると考えられる。神子上恵龍は、清九郎を評して、次のように述べている。「大和の清九郎は、妙好人の代表的人物であると云われているが、其の伝記を見るとこれといった特色がないが、彼に於いては念仏行者の純乎たる姿を見ることができる。恐らく彼には如上のすべての要素が融合統一され、見事な人格を形成していたのであろう。」<神子上恵龍著『真宗の人間像~妙好人伝を中心として~』(『真宗学』29・30号95頁)> 清九郎は確かに、「人格の完成者」であった。そして同時に、彼は彼のできうる範囲内で、最高の「社会の形成者」であったと、私は考えるのである。彼が不合理な本山の規則を、だれもがなしえなかった方法で、変更させたのは其の証左である。清九郎は、毎年5・6回も本山(東本願寺)詣りしたが、その信念行実が漸く名高くなったある時、十八代法主従如が彼に会おうと従者に告げた。聞いて大いに喜び直ぐに対面所に伺候すると、係りの役僧が彼の常着を咎め、烏帽子・素袍を着用すべきことを申し渡した。彼は頗る恐縮して「平素このままの姿でいつも御本尊様や御真影(親鸞木像)に拝礼してますので、うっかりとただいまも参上しました次第」とひたすら詫びいったのである。しかしこのいきさつを聞き入った従如は、さすがに感じそのままの対面を許し盃も与えたというのである。<藤島達郎著『妙好人の社会性』(『日本仏教学会年報』19号99~100頁)>清九郎は詫びるという非自己主張によって、主張をなしえたように、彼の社会への対応は非常に消極的であったが、村人や隣人に対しては、積極的な効果をもたらしていたようである。もし、妙好人を言い表すとすれば、『善の研究』における次の叙述が当てはまるのではなかろうか。「善とは一言にて云えば人格の実現である。之を内より見れば、真摯なる要求の満足、すなわち意識統一であって、其の極は自他相忘れ、主客相没するという所に到らねばならぬ。外に現れたる事実として見れば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到って其の頂点に達するのである。この両様の見解よりして尚一つ重要なる問題を説明せねばならぬ必要が起こってくる。内に大なる満足を与える者が必ず又事実に於いても大なる善と称すべき者であろうか。即ち善に対する二様の解釈はいつでも一致するであろうかの問題である。余は先ず嘗て述べた実在の論より推論して、此の両解は決して相矛盾衝突することがないと断言する。元来現象に内外の区別はない、主観的意識というも客観的実在界というも、同一の現象を異なった方面より見たので、具体的には唯一つの事実があるだけである。」(岩波文庫『善の研究』176頁)西田幾多郎は、上述の文章を「完全なる善行」という章の冒頭に記しているわけであるが、妙好人の言動を振り返ってみるとき、「完全なる善行」と大いなる一致点を見いだすのである。それ故に、私は『教育基本法』第一条における「人格の完成者」と「社会の形成者」という対立するかに考えられる概念も、「同一の現象を異なった方面より見た」ものであり、両者には矛盾がないと思うのである。妙好人が「教育の目的」具現者の一典型であると考える根拠がそこに由来するのである。妙好人の人間像を考える上に、体制順応か否かということは重要な視点とは考えられない。妙好人をもう一度洗い直す必要性を感じるのである。

 

あとがき

 妙好人は体制側によって、世に出された人物であるが、そのために妙好人をつまらない者と考えるのは正しくない。また、妙好人の宗教的境地が常人を遥かに超越したものであるなど、個人の内面だけを評価するのも正しくない。私の出発点はここにあった。そのため、妙好人を社会の一員としてみるために、『善の研究』を参考にした。この観点から見て、私は妙好人を決して一過性の存在とは思えなかった。妙好人に普遍性を認めても、現代社会が妙好人を生むにふさわしい素地を有しているかどうかは解らない。それよりも、次に考えねばならぬ問題が残されている。それは、僧侶達がどのような説教をして、妙好人になる種子を蒔いたかということである。この問いに対する答えは、妙好人再評価ともども、現代社会を考えるにあたり、大きな示唆を与えてくれるものであると確信するのである。

 

あとがきのあとがき

 『歴史街道』98年1月号に「妙好人」のことが書かれてあり、20年ぶりに卒論を読み直した。そして、妙好人と言われ尊敬を集めていた和州清九郎が、今でいうところの軽度の知的障害者であることを再発見した。知的障害を持った者が、多くの人から尊敬され、そして慕われ、後世まで名を残したということは、いったい何を意味するのか。もう一度考えてみたいと思った。これからの人生を考えるとき、妙好人の生き方は、参考とする値打ちを十分備えている。

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