播州と真宗

播州は昔から浄土真宗の盛んな土地で、加賀(石川県)、安芸(広島県)と並んで「真宗王国」とも評され、「本願寺の台所」とも呼ばれています。この土徳のためか宇右衛門(うえもん)さんに代表される妙好人(「みょうこうにん」元来の意に立てば、阿弥陀仏の本願に救われた人は全て妙好人と呼びますが、真宗では特に際立った篤信の人を讃嘆して「妙好人」と呼んでいます)と呼ばれた人も多く輩出しております。また、私の母校である龍野高校の卒業生には、親鸞聖人に傾倒した哲学者の三木清(みききよし)氏、著述家の寺田弥吉(てらだやきち)氏、浄土真宗本願寺派(「本派」とも呼ばれ、俗に「西本願寺」とも呼ばれています)の勧学(本派での最高の学階の名称)になられた神子上恵龍(みこがみえりゅう)師、大谷派講師(大谷派での最高の学階の名称)になられた正親含英(おおぎがんえい)師などがおられます。 そこで、真宗王国としての「播州、播磨」を特にクローズアップしてみたいと思います。

本願寺教団による播州への布教活動は15世紀の後半から始まりました。六人の高弟が英賀(「あが」姫路市飾磨区)に派遣され、本格的な活動を始めて、それぞれ一寺を建立しました。これらの寺は播州六坊と呼ばれています。また、蓮如上人の門弟の法専坊空善も英賀に居を構え、多くの人々に浄土真宗を説きました。永正9年(1512年)には、本願寺の第9世法主実如(蓮如上人の第8子)の四男である実円が英賀城主三木通規の援助を得て、播磨の根本道場の英賀御堂(後に亀山に移り現在の亀山本徳寺となった)を建立しました。永正12年(1515年)のことです。阿弥陀仏への帰依(信順)者は有力商人、国人(地侍)、土豪、大百姓へと広がり、たちまち播州門徒と俗称される大勢力となりました。

浄土真宗の寺院には、既成の宗派の寺院が浄土真宗に改宗したものと、信者の中の有力な農民が自分の家を道場にしてそれがやがて寺院の体裁を整えるようになったものとがあります。

江戸時代になって幕府の政策により本願寺は東西に分かれ、本願寺派(西本願寺)、大谷派(東本願寺)となりましたが、播州では本願寺派(西本願寺)に属する寺の数が多いように思われます。これは、慶長5年(1600年)に姫路藩藩主となり姫路城城主となった池田輝政(池田三左衛門)が、その後、大谷派12世の法主の教如と意見衝突して遺恨があった、そのことに起因すると考えられます。輝政と教如との対立が原因で、播州一国ことごとく本願寺派(西本願寺)に帰属するようにとの通達がなされました。この輝政の通達に従わなかった寺は寺領を取り上げられたりしました。

 

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