龍野高校と真宗

わが母校である兵庫県立龍野高校(旧制龍野中学)が輩出した、真宗の語り部であった先輩諸氏を幾人か列挙しておきます。(敬称略)

第 9回(明治43年)卒業生 ... 玉田 賢治
第13回(大正 3年)卒業生 ... 伊東 照屯正親 含英松井 了穏三木 清
第18回(大正 8年)卒業生 ... 寺田 弥吉
第19回(大正 9年)卒業生 ... 神子上 恵龍
第24回(大正14年)卒業生 ... 上田 義文
第33回(昭和 9年)卒業生 ... 建部 恵潤
第48回(昭和23年)卒業生 ... 藤元 正樹
第48回(昭和23年)卒業生 ... 多田 覚英

玉田 賢治(たまだ けんじ)

兵庫県揖保郡太子町出身。播州の妙好人であった宇右衛門さんの行状をまとめた『播州の宇右衛門』の著者です。宇右衛門さんの遺徳を後世に伝えるための「宇翁遺徳顕彰会」(「宇翁」とは宇右衛門さんのこと)の創立メンバーでもあります。

著書のあとがきには、出版するにあたっての時代背景を次のように述べられております。

「第二次世界大戦後、世界の情勢は今なお不安を続け、わが国内においても、争闘、殺傷、その他、各種の犯罪が、絶え間なく、新聞紙上に報道せられるのを見るとき、その主たる原因は、宗教心の頓に衰えたことによると言っても、過言であるまいと信じます」

これは時を経た今日でも当てはまることではないでしょうか。 そして玉田氏は次のような願いを著書に込めらて締めくくっておられます。

「幸いにこの一小冊子が、江湖の方々のご愛読を得まして、宇翁遺徳の言行を通じて、宇翁と一味の安心に徹し、光明摂取の勝益を喜び家族互いに敬愛し、各々その職業にはげみて、自他相扶けて、社会奉仕の誠を尽くすことに、御精進下さいますなれば、一家円満、明るい社会の建設となり、この上もない喜びに堪えません」

宇右衛門さんという妙好人の遺徳を伝えることで真宗の他力の信心を表わして、明るい社会をこよなく願った人のようでありました。

伊東 照屯(いとう しょうとん)

西本願寺に勤務されておりました。旧制龍野中学時代の三木清の同級生でもありました。

正親 含英(おおぎ がんえい)

明治28~昭和44年(1895~1969)。兵庫県姫路市勝原区出身。真宗大谷派西宝寺 住職。大谷大学研究科卒業。大谷大学(東本願寺系の大学)学長、名誉教授。大谷派講師。旧制龍野中学時代の三木清の同級生でもありました。

金子大栄 談「真宗の教えにはいろいろな面があるには違いないけれども、本当に救われる道があるということを話しあうことができるのは、あるいはあの人だけではなかったかということも思われるのです」

【著書】

『真宗要義』『本願』『浄土の教え』『浄土真宗』『歎異抄の背景にある観経のこころ』『三経往生文類講讃』『流水に描く』『一日を行く』『真宗読本 正親含英文集1』『仏教生活叢書 第6 業道自然』などがあります。

松井 了穏(まつい りょうおん)

龍谷大学教授。旧制龍野中学時代の三木清の同級生でもあり、学内に文学グループを作ったりした仲でありました。

三木 清(みき きよし)

1897~1945年。兵庫県龍野市揖西町出身。播州龍野が生んだ哲学者。 法政大学教授。 西田幾太郎、リッケルト、ハイデッガーなど当時の世界的哲学者と交流を持ったことに影響を受けながら、独自の三木哲学を展開させました。

法政大学の図書館には、三木清の蔵書が「三木清文庫」と名づけられて収めてあります。

姫路文学館(姫路市)では彼の一生を端的にまとめたビデオを観ることができます。また、霞城館(龍野市)には、彼の書いた原稿など、文献や資料が展示されています。

播州龍野の著名人といえば、すぐに挙げられるのが童謡『赤とんぼ』の作詩で有名な三木露風で、龍野市も『童謡の里』として三木露風を前面に紹介しております。 しかし、三木清については龍野市民でさえ知らない人が案外多いのではないでしょうか。 三木清が郷土の人にさえ忘れ去られてしまっているのではないかと思うと、残念な気がしてなりません。
1997年、龍野高校は創立100周年を迎え、哲学者の三木清は龍野市の名誉市民に選ばれました。これを機に人々が「三木清」について語り合ってくれればと思う次第です。

三木清は、浄土真宗の風土が香る播州に生まれ、親鸞の信仰(浄土真宗)に深く共感し、親鸞の信仰によって死んだであろう哲学者でありました。 そのことは三木清自身が、著書『読書と人生』の中の「読書遍歴」にも記しています。

「仏教の経典では浄土真宗のものが私にはいちばんぴったりした」

「元来、私は真宗の家に育ち、祖父や祖母、また父や母の誦する『正信偈』とか『御文章』とかをいつのまにか聞き覚え、自分でも命ぜられるままに仏壇の前に坐ってそれを誦することがあった。お経を読むということは私どもの地方では基礎的な教育の一つであった。こうした子供の時からの影響にも依るであろう、青年時代においても私の最も心を惹かれたのは真宗である。そしてこれは今も変わることがない。いったい我が国の哲学者の多くは禅について語ることを好み、東洋哲学というとすぐ禅が考えられるようであるが、私には平民的な法然や親鸞の宗教に遥かに親しみが感じられるのである。いつかその哲学的意義を闡明してみたいというのは、私のひそかに抱いている念願である。後には主として西洋哲学を研究するようになった関係からキリスト教の文献を読む機会が多く、それにも十分に関心がもてるのであるが、私の落ち着いてゆくところは結局浄土真宗であろうと思う。高等学校時代に初めて見て特に深い感銘を受けたのは『歎異鈔』であった。 近角常観先生の『歎異鈔講義』も忘れられない本である。本郷森川町の求道学舎で先生から歎異鈔の講義を聴いたこともある。近角先生はその時代の一部の青年に大きな感化を与えられたようであった。島地大等先生の編纂された『聖典』は、現在も私の座右の書となっている」

未完成の絶筆となった『親鸞』という著作は、「いつかその哲学的意義を闡明してみたい」という三木清の念願の著述であったのかも知れません。

本多顕彰氏は『歎異抄入門』の中で、三木清夫人の喜美子さんが亡くなったときの三木清のことを驚きをもって次のように記しています。

「三木清の奥さんが亡くなった日の夕方お悔やみに行くと、うす暗い仏間の仏壇のまえでお経をあげている坊さんの後ろに西田幾太郎博士と三木清が並んで端座していた」

「西田博士は『善の研究』の中で歎異抄を感銘深く語っており、博士の影響を受けた倉田百三が親鸞を題材にして『出家とその弟子』を書いているくらいだから、博士が仏壇のまえにすわったにしてもふしぎはないかもしれないが、あの夕には、それすら私には奇異に感じられた。三木清の心情にいたっては、私はまったく量りかねたのである。三木清ともあろうものが仏壇のまえにすわって手を合わせるなんて、いったいどういう了見なのだろう、奥さんが死んでセンチメンタルになったのだろうか、それともお芝居であろうか。いや、それにしては、彼の表情は真剣すぎた。彼の表情は長いあいだ私にはナゾであった」

このお通夜の席の三木清の様子は、小林勇氏の『人はさびしき』にも紹介されています。

「お通夜の時僧侶が説教をするということになった。私は何故三木が坊主の説教をきく気になったのかと思った。そして説教などさせるのはやめろといった。三木は初め気弱くあいまいの返事をしていたが、私が執拗に主張すると、爆発したように大声で、いやな者はきかなければよいといった」

その当時、三木清を知る者にとって、いかに三木清のこのときの行動に納得いかないものがあったかがわかると思います。当時、唯物史観などを研究していた哲学者の三木清が浄土真宗という宗教の前に頭をたれることに納得がいかなかったのです。唯物論とは観念論に対するもので、端的に言えば、いかなる精神的権威にも依らないというのが論調です。唯物論者は「宗教」も一種の精神的権威としてとらえていましたので、「宗教はアヘンである」と言って「宗教」を非難していたのです。だから、唯物史観を研究していた三木清がアヘンである宗教を信仰していたことが不思議でならなかったわけです。

「それからずっと後に、彼は、何の前置きも、何の説明もなしに、「ぼくは親鸞の信仰によって死ぬだろう」と言った。私はほんとうにびっくりした。合理主義の理論家三木が、私の抵抗しつづけてきた、あの地獄極楽の浄土真宗の信仰によって死ぬなんて!」(本多顕彰氏『歎異抄入門』)

また、本多顕彰氏によればこんなこともあったという。

「戦争が始まったとき、ある雑誌が、「あなたが出征するとして、ただ一冊の本を持って行くことを許されたら何を持って行きますか」というアンケートをやった。そのころは、「海行かば」の歌がおさめられている万葉集が大はやりであったから、回答の大部分がそれであろうことは予想され、他の本を選ぶことは気のひけることであったが、私は、かまわず「歎異抄」と書いた。歎異抄にはひかれるところもあったし、それよりも、その本には深い意味がありそうなのに、まだそれを私はきわめていなかったからである。回答の十中八、九までは万葉集であり、その中に私の「歎異抄」がしょんぼりしていた。しかし、おしまいのほうに、もう一つ「歎異抄」があり、その下に三木清の名があった」(本多顕彰氏『歎異抄入門』)

旧制龍野中学では三木清の後輩に当たり、本派本願寺の勧学であった神子上恵龍師は著書『正信偈の話』の中で、一味の信心かつ同郷の念をもって次のように三木清のことを述べておられます。

「『親鸞』は未完成となりましたが、彼の信心は完成したことでしょう。それは『親鸞』の中に、自己の浅間しい罪業と、この罪を救って下さる如来の真実が強調されているのを見ても首肯されます」

軍国主義に塗りつぶされた時代は、戦争が人々の意識の上に「自己の死」を生々しくもたらしましたが、そういう過酷で悲惨な時代の中にも他力信心の妙華があちこちで咲いていたのです。三木清もその中の一人でした。

軍国主義一色の思想統制の時代に生きた反骨の哲学者三木清は、彼の予言どおり、親鸞の信仰によって生死を超越したのだと思います。

【著書】

『パスカルにおける人間の研究』『社会科学の予備概念』『史的観念論の諸問題』『観念形態論』『アリストテレス形而上学』『アリストテレス』『ソクラテス』『構想力の論理』『哲学入門』『知識哲学』『歴史哲学』『人生論ノート』『哲学ノート』『読書と人生』『学問と人生』『時代と道徳』『語られざる哲学』『危機に於ける人間の立場』『現代の記録』『現代哲学辞典』(編集)『人生読本』(監修)などがあります。

【ホームページ紹介】

玉永寺 ... 三木清遺稿「親鸞」を読む

 

寺田 弥吉(てらだ やきち)

1899-1971年。兵庫県揖保郡新宮町出身。著述家。
新宮町にある国民宿舎「志んぐ荘」の近くには、彼の業績をたたえた記念碑があります。

『法城を護る人々』などを著した松岡譲氏は、かつて、寺田弥吉氏の『親鸞聖語読本』を次のように評したことがありました。寺田氏の真宗に関する著述の特徴を的確に捉えています。
「解り易いようにを眼目とすると、とかくいわゆる善男善女ばかりを有り難がせる陳腐な御説教になりたがる。現代のインテリにも解るようにとなると、どうしても西洋風の哲学や倫理に頼ることとなって、自然難しくもなり有り難味も薄くなる。そこが宗教物特に仏教物の厄介なところで、大概この卑俗か晦渋かのいずれかの難点に行き悩んで、あたら仏教の真理を現代大衆の胸に生々と移植することができないでいるのである。
この憾みを立派に解消してくれた一人にわが寺田弥吉氏がいる。氏の『親鸞聖語読本』はその輝かしい標本である。<中略>私は本書を読みながら、しばしば親鸞その人の警咳に接して、その御化導をうけてるが如き感じに襲われることを告白しなければならない。それほど本書は随所に仏教物に珍しい迫真力を持っている。<中略>「弥陀」とか「本願」とか「念仏」とかいう浄土門独特のテクニックの連続でありながら、少しもいわゆる抹香くさくもなければ坊主くさくもない。つまり生きた聖者親鸞と膝つき合わせて、仏法の直接取り引きができるのは、何といっても本書の力だと言ってもよかろう。<中略>数多い親鸞の述作、手紙その他のうちから、そのキーポイントともいうべき140の聖語を丹念に掘り起こして、それを時に応じてあるいは短編小説風に、あるいは戯曲風に、あるいは対話風に、あるいは論文風にまた時にはエッセイ風に、自在に敷衍し解釈したもので、親鸞その人の言葉によって、親鸞その人の全人格と全事業とを描き尽くしているといってもいいくらいだ」

【著書】

『親鸞を読む』 『親鸞金言集』 『親鸞聖語録』 『親鸞像』 『現代に生きる歎異抄』 『心のふるさと歎異抄』 『親鸞忍苦の九十年』 『親鸞の哲学』 『親鸞選書』 『親鸞哲学の真髄』 『日本哲学』 『哲学物語』 『郷土教育の新開拓』 『人間の高昇』 『真宗の哲学的意味』 『親鸞三部曲』 『貧しき子たち』 『日本哲学への道』 『母のためのエミイル読本』 『親鸞聖語読本』 『蓮如聖語読本』 『親鸞(3巻)』 『出家と魔性(6巻)』 『現代に生きる歎異抄』 『親鸞の哲学と信仰』 『本願寺物語』 『親鸞名言集』 『中国革命と日本の反省』などがあり、その数約100冊に及びます。

 

神子上 恵龍(みこがみ えりゅう)

1902-1989年。兵庫県揖保郡太子町出身。龍谷大学教授、本願寺派勧学、文学博士、龍谷大学名誉教授、奈良大学名誉教授。本願寺派福専寺 住職。

【著書】

本典研鑚集記』『真俗二諦観』『弥陀身上思想の展開』 『真宗教学の根本問題』 『真宗教学の研究』 『正信偈のうた』 『歎異抄講義』 『現代人の真宗概論』 『教行信証概観』 『弥陀身土思想展開史論』 『往生論註解説』 『正信偈の話』『真宗概説』『真宗学の根本問題』『真宗の祈祷観』『真宗の人間形成』『歎異抄の味わいと扱い方』『福専寺説教集』(編集)『蓮如上人の生涯と思想』(共著)などがあります。

 

上田 義文(うえだ よしふみ)

明治37~平成5年(1904~1993)。岡山県生まれ。東京大学文学部印度哲学梵文学科卒業。名古屋大学教授。名古屋大学名誉教授。龍谷大学教授。伝道院長。筑紫女学園短期大学学長。ハワイ大学客員教授。文学博士。

死の直前まで書き綴った遺書のような著書『親鸞の思想構造』には、上田義文夫人の豊香さんが夫を偲んで以下のような文を寄せられています。身近で接してこられただけあって、上田師という人がどんな人であったかをよく表わしていると思います。

 彼の存在は、私にとっても百科辞典のような存在でございました。どんなことを質問しても、答えがかえってこないことはありませんでした。
 時々、私は彼がいなくなったときの不安を覚え、「あなたがこの世からいなくなったら、だれに聴けばよいのか」と申しますと、「今度書いている原稿に、すべてを書いているから、それを見るとよい」と申しておりました。それが、この本の原稿でございました。
 だれのためにでもなく、彼の内的な必然性にうごかされて、生涯をかけて仏教を学び、親鸞聖人の思想に傾倒し、聖人の思想を思索し、洞察しながら、真実に出遇った喜びを深くかみしめ、相対的な価値観を越え、生死を乗り越えて生きた日々の充実を偲ぶにつけ、よき生涯であったと、彼のために喜ばずにはおれません。

【著書】

『仏教思想史研究』 『摂大乗論講読』 『大乗仏教の思想』 『世界の中の親鸞』(編) 『梵文唯識三十頌の解明』 『現代を生きる仏教的人間』 『仏教をどう理解するか』 『親鸞の思想構造』『大乗仏教思想の根本構造』『仏教における業の思想』『唯識思想入門』『文学における彼岸表象の研究』(編集)などがあります。

 

建部 恵潤(たてべ えじゅん)

1916-。兵庫県宍粟郡安富町。善照寺住職。

 

藤元 正樹(ふじもと まさき)

1929-2000年。兵庫県龍野市神岡町出身。大谷大学文学部真宗学科卒業。真宗教学研究所所員。大谷派円徳寺住職。同和問題、靖国問題等に尽力されました。

【著書】

『阿弥陀経講讃』『人間この尊きもの』『解放への祈り 仏の名のもとに』『続 解放への祈り』『願心を師となす』『「同和」問題に問われる教学的課題』『大谷派なる精神(座談会録)』『どくろを執り血をその掌に塗らん(学習会録)』『ただ念仏のみぞ―歎異抄にまなぶ―』『愚禿鈔講義録』『開拓―部落差別とアイヌ差別―』

 

多田 覚英(ただ かくえい Kakuyei Tada)

1930-。カナダ・バンクーバー生。龍谷大学。トロント大学(カナダ)。サー・ジョージ・ウィリアムズ大学(カナダ)。デ・ポール大学(米国)。
浄土真宗本願寺派の北米開教使として海外布教に尽力されました。

開教使歴

1959 - 1963: Midwest Buddhist Temple
1963 - 1968: Seattle Betsuin
1968 - 1974: Reedley Buddhist Church
1975 - 1983: Palo Alto Buddhist Temple
1983 - 1986: Buddhist Church of San Diego
1986 - 1997: San Fernando Buddhist Church
1997 - 2003: Idaho-Oregon Buddhist Temple

 

 

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